八識 IT化にあたり
仏教の考え方の一つに人の認識を八つに分けて説明する「八識」というものがあるそうな。曰く、視覚による「眼識」、聴覚による「耳識」、嗅覚による「鼻識」、味覚による「舌識」、触覚による「身識」、それらを統括し動かす「意識」、執着心する心・感情を受け持つ「末那識」、それから例の「阿頼耶識」…
この「八識」は現在ものすごい勢いでIT化されていると思う。八識とITの話をしていたのは成田悠輔さんだが、仏教の概念とITやらコンピューターやらとの親和はかつて『ワン・ゼロ』佐藤史生(漫画)でこの辺りにどっぷり漬かったこともあって私には非常に納得できるものがある。(成田さんのお話の内容はここでは関係ありません。)
「眼識」は代表で、データの飛躍的な大量化によって既に生身の視覚に置き換えられるレベルに到達しようとしている。「耳識」も視覚に代わる補う形でバーチャル世界を支える一翼を担っていると言える。
「身識」は、表現としては遅れをとってはいるが、別角度から見れば機械やロボットという身体を通して最も古くからIT化されてきたものである。その操作という意味において「意識」もまた古くから熱心にIT化されており、現在のバーチャル世界やデータ分析の現実世界への還元(検索エンジンとかね)においても、勢いが止まることなく発達し続けている。
ところで「鼻識」と「舌識」である。
もちろん匂いや味も、データを収集され分析され、現実への還元を試みられ、様々にIT化されてはいるのだが、
我々はどうもそれを好まない。
繊細すぎてごまかされることができない、と言った方が当たっているだろうか。視覚情報だと簡単に誘導されごまかされてしまうのに、何故だかにおいと味は、人工的に合成されたものを嗅ぎ分け、味わい分けてしまう。
私たちは細胞とか魂レベルで、匂いや味に、すごく拘っているんじゃなかろうか。
魂レベルとか言い出して怪しくなってきたところで、「末那識」である。
執着する心。これを手放すことが幸せへの道だと多分説かれていると思うが、それができないのが人である。
対象をコントロールする、される、はあり得るだろうが、そもそもそれはしたくないのだろうと思う。コントロールされる時は進んでではなくそうしなきゃ支障があるから仕方なく であり、許可なく外部からそれを仕掛けられていると判明した時私たちは多大な嫌悪感を抱くだろう。
私たちは執着にも、細胞とか魂レベルで、すごく拘っているんじゃないだろうか。
今後もちろん「鼻識」「舌識」「末那識」もIT化されていくに違いない、好むと好まざるとに関わらず。しかしそれはおそらくは「阿頼耶識」のIT化よりも遅い、鈍い、と予想する。「阿頼耶識」が何か説明できないが、意識の集合の全体や無意識領域や雰囲気の総合などというもののIT化は、ビッグデータや自動解析ツールによってもたらされる推し量れないくらい大量の量がそれら道具の質を変えていき、気づいた時には既に、という感じで進んでいくに違いない。
私たちの大事な「識」は、どこにどのように残るだろうか。そもそも残るだろうか。「本当のもの」は無くならないか。それとも、「本当のもの」は元々ない、か。ほんとに仏教哲学みたいな話である。