ドラマ『MIU404』 【第3話の感想】 連帯責任とは“どこまでが連帯”なのか?
『MIU404』は、ヒットドラマが持つ要素を研究してテンコ盛りにした“売れ線”ドラマだと思う。たとえば第3話から“構成要素のキーワード”をいくつか抜き出してみると、
・最後の最後で登場のドラッグの売人が菅田将暉
・学校が隠ぺい体質で、校長が見栄っ張りの糞
・廃部にさせられた部員たちの恨みの矛先が暴走
・いたずら通報を繰り返した少女が本物の犯罪者に遭遇。手足を縛られ泣き叫ぶ
・とにかく足が早い綾野剛
等々
これ読むだけでも“面白そう”ではあるものの、ただ、ある意味では“ありがちな”パーツで構成されているともいえるのに、しかしそれだけで終わらせないのが脚本家、野木亜希子の手腕だ。
“連帯責任”とは?
先輩たちがドラッグに手を出したせいで廃部にさせられた陸上部の後輩勢は、高校三年の秋の大会に出る目標を失った。後輩たちは決して自分たちはドラッグに関わっていないと主張するが、学校側は「連帯責任です」と聞く耳をもたない。
直接事件に関わったかどうかには関わらず、“陸上部”の起こした問題なのだから“陸上部全員”の連帯責任だと校長は決めつけた。
しかしここでいう“連帯”とは、どこまでを含むのだろう?
この陸上部の件とは違う場面ではあるが、MIU第4機捜の隊長、桔梗ゆづる(麻生久美子)は、「少年たちの犯罪」というものは決して自己責任だと押しつけられるものではなく、「“社会が教育を与える機会を逸した結果”だと考えている」と持論を語った。
この視点でみた時に少年たちの犯罪に対する“連帯責任”とは、「社会全体」ひいては「大人たち全員の責任」という意味を帯びる。事件が発生してしまった“その環境”を生み落としてしまった社会にこそ課題と反省があるというわけだ。
ドラマの終盤、“いたずら通報事件”が元陸上部の高校生たちによる犯罪だと明るみになった時、報道メディアは“学校側による隠ぺい体質”をこてんぱんに叩いてみせた。校長も辞職に追い込まれた事だろう。
つまり、学校は“陸上部は連帯責任で廃部”としていたが、報道からみれば連帯責任の範囲が間違っていて、“連帯責任は学校にもある”だったわけだ。
ただしこの作品内では報道メディアについても、単純に正義な存在だとは描かれてはいない。「おもしろおかしく視聴数がとれる話題だけを切り取り、センセーショナルな見出しをつけて放送する」そういう姿勢では、報道メディアも“責任”を負っているとは言えない。
学校のせいだけになすりつけず、そういう体質の学校を生み出した原因はそもそもなんだったのかを考えるべきで、“それは大人たち全員の責任でもある”と、このドラマは訴えかけてくる。そうしない限り、同じ事件は何度でも起こる。
“バディ制”の連帯責任
さて、このドラマの一番の醍醐味は、なんといっても星野源と綾野剛の人気役者ふたりによる“バディ制”刑事の活躍だろう。この“バディ制”とは、古いドラマでいうと「あぶない刑事」だし、最近でいうとキャラが違うが「相棒」だ。
即席のデコボココンビが、話が進むにつれじょじょに打ち解け、息が合ってくる過程を描く。過去がひもとかれて、互いの存在を認め合う。
そんな中、まだウワサ話で真相は謎だが、志摩(星野源)は昔、刑事の相棒を殺してしまったという。そのせいなのか、志摩の表情や行動にはいつも憂鬱そうな影がつきまとう。そして過去といえば、伊吹(綾野剛)のほうは、捕まえた犯人を半殺しにして降格処分を受けた歴史があるという。
このドラマにはたくさんの“バディ”や“チーム”が登場する。人間とは誰かが誰かを支えながら生きていくものだからだ。
“連帯責任の問題”は、今後、必ず、このバディのふたりのあいだでも描かれるだろう。
バディ制の相棒の行動や失敗に、相方はどこまで連帯責任を負うのか?負うべきか?
「第4機捜という即席の5人チーム」の行動や失敗には、誰がどこまで連帯責任を負うか?
責任は、負わなければならないし、そして負いすぎてもならない。ふたりとも同等のリスクを常に負うシステムでは、“ふたりで行動している意味”がなくなってしまうからだ。優先順位を見極めて、職務への責任から、相棒を切らなければならない事もある。
志摩刑事にとっての“連帯”とは、“責任”とは。
伊吹刑事にとっての“連帯”とは、“責任”とは。
これらが、必ず描かれる。
第3話は、このドラマにとって“連帯責任”というテーマをいかに重視するかが示された回だったのだと思う。
野木亜希子が脚本を書きはじめたのはきっとコロナ以前だと思われるが、この伝染病時代の2020年だからこそ、“連帯”や“責任”という意味や価値があらためて再定義されるだろう。
(おわり)
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