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ドラマ『MIU404』【最終回の感想】 ハッピーエンドに見せて実はバットエンドなのか? 最終回の真意は

2020年を代表するすごく魅力的なドラマだったから、このコロナの中で11話分も撮影と放映してくれた関係者にまず感謝したい。ただ、最終回については“モヤモヤした気持ちが残る最終回だったな”と感じている。最終回はその“モヤモヤ”の原因究明に特化して感想をかきとめておく。
(重要な場面のネタバレを含むため最終回の視聴後に読むのがオススメです)

志摩は“どう変われたか?”の考察


モヤモヤさせるのは2点ある。

ひとつは、そもそも最終回のはじめから志摩の態度が悪いし、志摩は単独行動をとりはじめる。ここまで数話かけて“バディの強い信頼関係”を築いてきたはずなのに、なぜなのか。その理由が、後輩の九重を相手に語られるシーンがあるので、まずそれを引用しよう。

「伊吹の判断に乗っかってクズミを取り逃がした時、とっさに思った。“信じなきゃよかった”。オレとしたことがどうして信じてしまったのか。いつの間にオレは相棒なんてものに頼るようになってしまったのか。“うまくいってる時は最高の相棒、ミスした時は相手のせい”。…勝手だよな。」

「伊吹は危なっかしいけど正しい奴で、オレはアイツに正しいままでいて欲しい。
ああいう刑事がひとりくらいいたっていい。
それに助けられる人が、きっとたくさんいる。」

このセリフを聞いて、僕は言葉を失った。
“まただ、また繰り返している”と絶望した。

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結局志摩は、元相棒を失った頃の捜査一課の当時から“何も成長できてなかったのか”と僕は気づき、悲しくなった。

「オレはあいつに正しいままでいて欲しい」という思いが、単独行動の“源泉”にあるようだが、その伝え方が、あの「お前のこと奥多摩に返すように隊長に進言しておいたから」という捨て台詞での態度でしか示せないのだとしたら、あまりに未熟すぎてガッカリだ。

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もしもだが、この直後に伊吹がなんらかの理由で亡くなったりしたら、また志摩は元相棒の時とまったく同じ理由で後悔するだろう、「ああ、あの時、きちんと伝えておけばよかった」と。
「お前は危なっかしいけど、正しい。どうか、そのままでいてほしい」
そう思ってるなら、直接そのまま伝えるべきだし、“伝えられるようになったはず”だった。

でも結局、非常時になると判断を誤り、同じミスをしているのだ。志摩は、伊吹を守るために(ひとりで責任をすべてかぶるために)何も伊吹に言わずに単独行動をとり、(伊吹に害が及ばないよう)距離をとるために伊吹に冷たくした。
この志摩の行動は“周りに誤解”を与える致命的なミスになり、事件解決までの大きな回り道を生み出すことにつながった。

ギスギスしていた出会いの第1話から、ハムちゃん救出時にはガッシリ繋がりあった第9話まで、バディが信頼関係を構築していく過程を感動しながら見届けてきたので、「ここにきてまたこの態度になっちゃうのか…」と正直、冷めてしまった。がっかりした。

終盤のシーンでは、「単独行動をしてすまなかった」と志摩が伊吹に素直に謝り、伊吹がそれを受け入れ、九重がそれを静かに見守っているという、メロンパン号の中での微笑ましい節目の場面が描かれた。ひとつのハッピーエンドのようなシーン。
でも、ぼくは思う。
「そんなかるく謝って済む問題じゃない」と。

志摩は“仲間を最後まで信じきれない”という、刑事として致命的で根本的な欠点が最後の最後に再度描かれたのだ。それはとても残酷なことだと思う。また繰り返す気もするからだ。だから志摩はいつまでたっても捜査一課に呼び戻されないのか?そこまでに感じた出来事だった。


伊吹は“どう変われたか?”の考察

モヤモヤする原因をもう1つ。

最終回の中盤、“時間の止まった世界”のなかで、志摩は殺され、伊吹はクズミを撃った。
ここのシーンの印象が強く重すぎて、これ以降の物語が楽しめなくなってしまったほどだった。あのシーンはなんだったのか?
Twitterを眺めていると「いやー夢でよかった」「撃ったシーンの演技感動した」「死んでなくてよかった!」等々つぶやいている人が多いが、あのシーンは“ただの夢”ととらえていて良いのだろうか?

高級クルーザーの一室では、違法ドラッグが製造されている。その工程で発生する気体が部屋中に滞留しており、それを吸うと、急性なドラッグ使用時のような状態に陥り、志摩も伊吹も意識を失ってしまった。この酩酊状態で見た“夢”にあたるのが、先ほどの“時間の止まった世界”のシーンだ。
この違法ドラッグの気体にはどのような幻覚作用があるのかはドラマの中で正確には示されなかったが、印象でいうと「深層心理に閉じ込めてあった本音や悩みがストレートに解放されるような症状」に思えた。
あと、あの夢のシーンが、フィクションドラマの作り方として気になるのは、“あのシーンが丸々なくてもドラマは成立するのに、わざわざ描かれている”という点だと思う。わざわざ差し込んであるのだ。そういう場面には必ず“作家の書きたい意志”が隠れている。

その“夢”の中で、伊吹はためらいなくクズミを“撃った”。
志摩は、クズミを“撃てなかった”。

伊吹は撃つべきではなかったし、志摩は撃つべきだった。しかし、ふたりとも、それぞれの“過去の失敗”どおりの行動をしてしまった。

このあとドラマとしてはどうなったかというと、酩酊から覚めて現実に戻ったのちに、クズミを撃たずに捕まえることにふたりは成功した。
しかし。
しかし、それはラッキーだっただけで、“もしも夢とまったく同じシチュエーション”がそのときに訪れていれば、伊吹はクズミを撃っただろう。
“酩酊して見た夢”がそのことを預言しているし、
そして志摩には“それを止められない”ことも、夢が予知している。

つまりだ。
つまり、伊吹は結局、何も変わってはいないのだ。撃つ時は撃つ。殴る時は殴る。
ガマさんの事件を通じてたくさん悩んで考えたけれども、“自分にとっての正義”には変わらずブレはないのである。
利害も、未来も、関係ない。やる時はやる。刑事だからどうあるべきか?という知識は加わったものの、結局、伊吹自身の“根っこ”はなにも変わってはいない。


サブタイトルの“ゼロ”について考察

テレビドラマというものは、幅広い視聴者に開かれているものなので、そんなに小難しく内容が描かれることはないため、“主人公たちはイベントを乗り越えることで成長するもの”だと単純に思い込んで見ている。
しかし、MIU404の主人公ふたりは、結局、“根本的には成長しなかった”のかもしれない。

ラストシーンで「ゼロ」という最終話のサブタイトルが表示される。そして伊吹が無線に応答する、「機捜404、ゼロ地点から向かいます」。
いろんなことがあったけど、志摩も伊吹も“根っこ”は変わってはいない。また“ゼロ”からはじめる。そう宣言しているのか。

いや、1年前に比べて強くはなっただろうし、賢くもなっただろう、だから“成長はした”と呼べるはずだ。でも、この“モヤモヤした気持ち”は何か。

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脚本家の野木亜紀子は、第6話の志摩の過去に触れる回について、Twitterでさりげなくこうつぶやいていた。「人はそう簡単には救われない」と。

ここに、このドラマの描いた本質があるのかもしれない。
「そう簡単に、何もかも救われたりはしない」。でもだからこそ「何度でもやりなおして、反省して、挑戦をくりかえすしかない」。志摩と伊吹が、先頭に立って、そう勇気づけてくれているのを感じる。

そして、こうも語る声も聴こえてくる。

「簡単に、たった1年ごときで、人間が成長したり、変化できたりすると、本気で思っているのか?」
テレビドラマの見過ぎじゃないか?


(おわり)


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miyamoto maru
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