【掌編小説】ラブドール
抱かれるとき、私はたしかに空っぽな人形だった。空っぽな中に精子を注入されるから、体の芯からぐちゃぐちゃになって満たされた。でも現実は人形じゃなくて人間だから、子宮に注ぎ込まれた精子は命の自覚を持ちだして、私の中の卵子と結びつく。
お腹に耳を澄ませると、「この中の誰よりも速く走って僕は僕になるんだ」と意気込む精子と、「 あなたはあなたになるためにあなたじゃなくなるんだよ」 と制す私の卵子。それに応えるようにアフピルを飲むと、お腹の中にある命の出来損ないは着床せずに、亡骸となってトイレの奥底へ流れていった。
「あなたも大学生?」
『発達障害にはならないけれど鬱病は受け入れる私たち』と表紙に書かれた本が寄り添った手をヒラヒラと振りながら、花田心愛は憂鬱そうに微笑んだ。病院の待合室でひときわ目立つ容姿( 金髪ツインテール、ゴスロリに厚底ブーツ) をしていた彼女のその一言で、私は彼女とある程度仲良くなった。
「この病院、幸せそうなババアばっかで嫌気さしてたから、同じ歳くらいの子見つけて思わず声掛けちゃった」
彼女は中絶手術の診察でここに来ていると語った。言われてみれば、心做しかお腹がポッコリと膨らんでいるように見えた。
私はアフピルの処方の常連だと言うと、「罪悪感抱く前に無かったことにできていいね」と睨むように笑って、「産みたかったなぁ」と声を漏らし、「インスタ交換しよ」とスマホを取り出した。
それから私はインスタで、中絶手術当日を境にどんどん精神を病んでいく彼女の様子を娯楽程度に目にするようになった。『一生償うね、ごめんねこんなお母さんで』『勇輝が大好きだよ心愛のお腹にきてくれてありがとう愛してる』── 。赤ちゃんのエコー写真を背景に、そんな言葉が打ち込まれていた。
そこに写る彼女の赤ちゃんは白黒で何が何だか分からない形をしていて気味が悪かった。でもとりあえず、産まなくても彼女はちゃんと母親だった。
私は彼女と違って廃棄する勇気もなければ、股を突き破って生を与える親になる気もない。私の体は種をまかれても植わらないし、これが豚のしっぽですか?と聞かれるような豚のしっぽを作りたいのと彼女に送ったDMには「思想つよ」とだけ返信が来た。
春も盛りになった頃、また人形になった私はいつもの病院へ向かった。同階のメンタルクリニックの前で彼女とたまたま出くわしたのでアフピルを見せつけると、「鬱病になったよ」と彼女は笑顔でクエチアピンを差し出した。彼氏までいなくなったことを昨夜インスタで嘆いていたから、大体そんなところだろう。
「一回私みたいな目に遭えばいいのに」
と私のお腹を恨めしそうに眺めながら彼女が言ってきたので、
「私みたいなのが母親だったら、生まれてくる子どもが可哀想でしょ」
と眉を下げた。
「生まれてくる赤ちゃんの心配できる時点で、それはもう立派な母親だよ」
彼女はぬるく笑った。それから空っぽになったお腹に手を当てて、愛おしそうに目を細めた。
その瞬間、吐き気に急き立てられて私は建物の外に出た。春の太陽に抱きしめられて、生あたたかい風が緑色の並木道を緩やかに走っていくから胎盤。彼女の指摘のせいで、生まれる前から備わっていた私の母性がお腹を蹴り上げる。どれだけアフピルを飲んでも消えてくれない、憂鬱の光。
この世界のどこかに私の子どもはもう存在していて、私は母親だった。