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グラン・パ・トリイの映画ドットこい!(2)夜霧は今夜もカサブランカ

 娯楽映画研究家の佐藤利明さんのトークイベント「横浜時層探検」に参加した。「行ってきた」、でも「聞きに行った」、でもなく「参加した」と言いたくなるほど、横浜在住「映画馬鹿」の私にとって、自分史とも重なるようなお話しだったのだ。

 佐藤さんが提唱されている「時層探検」とは、古い映画に残されている当時の街並みやランドマーク、そこに暮らす人々の暮らしぶりなどを時系列でみることで定点観測をする、という意味だと思う。その土地に積み重なったの歴史を「地層」ならぬ「時層」で調べていくという趣旨のものだ。
 横浜は映画の初期からいろいろな作品の舞台になっている。東京に近く、日本の海の玄関でもあり国際的な異国情緒は、ロマンチックでエキゾチック、危険な香りも醸す娯楽映画の舞台にうってつけだ。
 膨大な映像資料を基に、大桟橋やホテルニューグランド、山手外国人居留地など市内の名所や建造物が、数々の映画の中でどのように描かれているか、佐藤さんの話はとどまることなく、地元に60年以上暮らす私にとってはことさらに面白く、自分なりに調べてみたいこと多かった。

 「日活無国籍アクション」とは1960年代に日活映画で量産されたアクション映画のジャンルで、特に横浜の異国情緒は日本でありながら外国の港町を彷彿させる風景が欠かせない。レンガ造りの教会や石造りのホテル、店の看板も横文字の街には、ドスを振り回すヤクザではなく拳銃をぶっ放すギャングがふさわしい。もちろん、日本にはギャングはいないのだが。
 私の好きな『夜霧よ今夜も有難う』(1967年 江崎実生監督)はそんな無国籍アクションの代表作であり、名作の1本だ。結婚式に現れなかった恋人を忘れるため横浜に流れ着いた男(石原裕次郎)。彼が経営するナイトクラブは、実は海外へ逃亡する人々を密出国させる裏ルートを営んでした。ある日、東南アジアの某国の革命派のリーダー(二谷英明)が、祖国への密航を依頼にやって来る。しかし彼の妻(浅丘ルリ子)は、行方不明になっているかつての恋人だった。故国のために命を懸ける男に義憤を感じながらも、自分を裏切った恋人への想いに苛まれる主人公。
 と、ここまでストーリーをたどれば、この作品がアメリカ映画『カサブランカ』(1942年 マイケル・カーティス監督)の「焼き直し」であることがお判りだろう。

 恋愛映画の古典的名作『カサブランカ』は第16回アカデミー賞で作品賞・監督賞・脚色賞の3賞を受賞、日本では戦後の1946年に公開され大ヒットをした。主演は、『マルタの鷹』(1941年 ジョン・ヒューストン監督)でクールな探偵を演じ、ハードボイルド・スターとして一世を風靡したハンフリー・ボガートと、「北欧からの瑞々しい息吹」と呼ばれた、知性と美貌を兼ね備えたイングリッド・バーグマン。第二次大戦中、親ナチスのヴィシー政権下にあったフランス領モロッコのカサブランカで、再開した恋人同士。男はパリの思い出=彼女への想いと、彼女の夫のレジスタンスの理想に苛まれながら決断を迫られるという物語に、男女の愛と祖国愛を重ねて見せる。
 日活映画『夜霧よ今夜も有難う』はこのハンフリー・ボガートの役を石原裕次郎、イングリッド・バーグマンの役を浅丘ルリ子に置き換えて、舞台を横浜にした作品なのだ。舞台は日本、登場人物も日本人、脇のストーリーは変えられているものの、大筋となった物語は誰が見ても『カサブランカ』であり、同じシーンがいたるところで再現されている。もちろん、タイトルロールには原案、原作などの表示はなく、あくまでオリジナルの物語という体裁だが、誰が見ても『日本版 カサブランカ』である。

 映画が庶民の娯楽の王様だった1960年台、毎週新しい作品が公開され、大スターがスクリーンで大活躍する。そんな映画の中にはこういった「ストーリーの焼き直し」も、当たり前のように存在した。
 日活アクションで言えば石原裕次郎主演の『赤い波止場』(1958年 舛田利雄監督)はフランス映画『望郷』(1937年 ジュリアン・デュヴィヴィエ監督)、赤木圭一郎主演の『霧笛が俺を呼んでいる』(1961年 山崎徳次郎監督)はイギリス映画『第三の男』(1949年 キャロル・リード監督)を下敷きにしている。

 こうした「翻案」という作品は、今では「パクリ」という安直な表現で批判され、往々にしてネットでの炎上がニュースになることがある。しかし、当時愛されたこれらの作品を改めて見ると、逆に「よくぞこういう形に仕上げた」という「翻案の技術」と、オリジナルに対する「あふれる映画愛」に魅力を感じる。当時の監督はもちろん、出演した俳優も、見ている観客も、みんなもとになっている作品を十分知っている。知っているうえで「いかにその魅力を写し取るか」「いかに日本映画として蘇らせるか」に腐心して映画を作っている。だから、あからさまに同じ構図で撮影したとしても、同じ映画を愛する同士の心のつながりが感じられ、いっそうオリジナル作品のすばらしさを思い起こさせる。
 さらには、ストーリーの骨格は借りながらも、映画の世界観やセリフにはオリジナルのアイデアや装飾が施され、独自性を保っている。浅丘ルリ子は『夜霧~』が『カサブランカ』の翻案と知らずに出演を引き受けたが、バーグマンの役を自分がやると知っていたら引き受けなかった、と発言している。しかし、彼女はこの作品でバーグマンを演じるのではなく、浅丘ルリ子としての魅力を十分に発揮している。観客は二人を比較して優劣を見るのではなく、それぞれの物語の中で、それぞれの女優を楽しんでいるのだ。

 ゴッホが北斎や広重を模写して、自分の表現をものにしていったようなことは、芸術の世界では当たり前にある。日本映画もそのオリジナリティを得るために、多くの翻案をつくりつづけてきた。それは愛と情熱に裏打ちされた作品として今に残っている。
 「パクリ」が、安易に他社の作品を使っていながらあたかも自分のオリジナルのように振舞うのに対して、当時の「翻案」は誰もが知っているオリジナルに対して敬意を払い、作り手と観客の相互理解のもとで楽しむ、娯楽作の魅力でもあった。観客もまた、おおらかに楽しむ喜びにあふれていたのだ。


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