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ひび割れて、埋まる (二)

創作ホラー小説 全二話 後編
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 その日の夜。
 僕とアキはまたビー玉をひとつずつ枕元に置いた。
 なんとなく今日は寝てしまおうと思っていたのに、寝つけない。久しぶりのコーヒーのせいだろうか。
 身体を布団の中に押しこめ、ほんのちょっとの隙間からビー玉を凝視する。
 部屋の障子窓は開け放たれている。蚊帳の向こうに白い月。部屋の中はほんのり明るい。ビー玉の透明な輪郭が、青っぽい闇をリング状に切り取っている。
 どれくらい時間が過ぎたのか。
 少しだけうとうとしてきた頃、かさり、という音をたしかに聴いた。
 蚊帳をまくし上げる音に似ていた、と思う。
 ふいに、恐ろしくなる。眠気が飛び去り、寒気がやってくる。

『つぎは眼鏡で、済まん』
 松本のおじいさんの声がにわかに甦る。

 僕はこれから何を見ることになるんだろう。布団ごと縮こまり、それでも目を閉じられず逸らすこともできずに、闇の中のビー玉を見つめる。
 そうして、気づいた。……あれは何だろう?
 僕の布団の端っこ、枕元の近くが、少しだけへこんでいる。祖父が用意してくれた、ふかふかの羽毛の敷布団のへりに……ちょうど、足で踏んでできた跡みたいに……。

 唐突に僕は察した。
 いま、あそこに誰か立っている。

 全身の熱が一気に引いた。
 それから一気に、始まった。

 ぴき、と小さくビー玉が鳴る。
 ぴき、ぴき、ぴき、と鳴り続ける。
 枕元のビー玉が、ひび割れていった。誰も触れることなしに。
 息を呑み、額から顎に汗の玉をいくつも伝わせて、僕はずっとそれを見ていた。

 やがて音は止み、ひび割れも止まった。
 へこんだ羽毛布団がゆっくりと元に戻っていく。

 ぺたり、と足音。
 部屋の戸が、開いていた。二本の足がそこにあった。

 絶叫せずに済んだのは、すぐにそれが祖父の足だとわかったからだ。ぺたり、ぺたり。ゆっくりと、祖父は部屋の中に入ってくる。
 枕元で、立ち止まる。祖父の手が降りてくる。ビー玉がつまみあげられる。沈黙。布団の中で心臓の乱打を聴く。そして枯れ枝のような指が、ひび割れたビー玉を元の場所へと置いた。
 静かな足音が、部屋を出ていった。

 それからは朝まで何もなかった。アキは一晩ぐっすりで、僕は一睡もできなかった。

 真夏日の昼下がり、太陽は白く熱く、蝉の声がぐるぐると響く。まるで頭の中で響いているよう。
 完全な寝不足だ。
 高い音がさらに頭を刺した。アキが縁側でビードロを吹いている。祖父は微笑ましげにそれを見ている。扇風機の前であぐらをかいて、手には水滴のついたラムネの瓶。いつもと変わらない様子だった。
 祖父は、僕たちが寝ていた部屋で、何をしたんだろうか。

 今朝の枕元にあったひび割れビー玉を、陽に透かし見た。何度も眺めるうち、気づいたことがあった。
 これは新しく作られたものじゃない。ほんの少しだけどビー玉そのものが緑がかっていて、枕元に置いておいたものとは微妙に違う。
 理由はひとつしか考えられない。あの時、祖父が別のものと取り換えたんだ。
 どうしてそんなことをしたのか。
 そもそも、このひび割れビー玉はなんなんだ。きのうの晩、僕の枕元に立っていたものはなんなんだ。
 見たままを話して、問いただせばいい。そう思うのだけど、何も言わずにニコニコしている祖父を見ていると、逆に尋ねるのが怖くなった。

 ふと、この家のもうひとつの約束ごとを思い出した。
 南向きの祖父の部屋には、入らないこと。
 ……何か関係があるのだろうか。
 仕事で使っているから、物だらけで片付いていなくてあぶないからと、祖父は理由をそんな風に言っていた。自由に使える部屋はほかにいくらでもあるので僕は気にしなかったし、やんちゃな妹も「これだけはだめ」と言ったことは案外ちゃんと守るから、今まで約束を破ったことはなかった。
 あそこに、何があるんだろう。
 胸の中に冷えたものが滑りこんでいく。見てはいけないものを見ようとして、恐ろしい思いをしたばかりじゃないか。
 いや、だからこそ知りたいんだ。得体が知れないままのほうが怖いんだ。

 そのとき、車のクラクションが聞こえた。
「松本かな」
 祖父が玄関のほうを見る。僕はとっさに思い立ち、言った。
「あ……松本さんの車に忘れ物したんだった。きっと届けに来てくれたんだ。僕、見てくる」
 もちろん嘘だ。
 玄関に出るふりをして、南の祖父の部屋に向かった。さほど離れてるわけじゃない。足音を殺して、黒飴に似た色をした廊下を早歩きする。
 祖父が寝起きしている部屋を通り過ぎ、入るなと言われている部屋の、色褪せたふすまに手をかける。
 ぽぺん、と高い音がだしぬけに響く。
 思わず飛び上がりそうになる。落ちつけ、縁側でアキが吹いているビードロだ。
 つばを飲みこみ、深呼吸して、一気にふすまを開けた。

 無数の目がいっせいに僕を見つめた。──そんな錯覚がした。
 六畳くらいの部屋。南向きのはずなのに、やけにひんやりした空間。
 天井近くの小さな窓。カビだらけの壁に囲まれた板の間。
 その床一面に、ひび割れたビー玉がびっしりと敷き詰められていた。
 ひびの少ないものは影をつくり、ひびの多いものは光を返す。それぞれの亀裂、それぞれの陰陽をもったビー玉。寄り添い合うそれは、ひとつの像を結んでいた。
 ビードロを手に持つ、白い靴の、女の子の姿だった。

「トオル」
 その声が心臓を打つ。
 僕は振り返る。祖父が、笑みを浮かべてそこにいた。
 二度目のクラクションが鳴っている。

「おじいちゃんの小さい頃はな、このへんも子どもがようさんおったのよ」
 祖父が言った。
「戦争で、都会のほうから疎開してきた人が住みついて、その人らに子どもが生まれて。その子らとよう遊んだ。その中にひとり、とびきりきれいで、家がお金持ちの女の子がいてな」
 言いながら僕の前を通り過ぎ、部屋に入る。わずかな隙間に足を入れて、女の子の図像の足元に立つ。
「親がはんぶん外国の人とかで、きれいな目ぇしてた。ビー玉みたいに透き通ってな。そいで、ガラス細工のおもちゃをたくさん持ってた。このへんの子らはみんな羨ましがった。優しい子で、なんでも分けてくれた。でもひとつだけ、どうしても貸してくれないものがあってな」
 祖父はしゃがみこみ、手を伸ばす。
 そこに女の子の右手があった。ビードロを握る手だ。
「これは、お母さんの形見だから貸されへんてな。でもある時、みんながその子を追っかけてな。どうしても貸さんのか、それならこうだ、って、力まかせに殴ってもうた」
 飲みこんだ息の塊が、ひきつった喉に圧をかけながら、落ちる。
 チャンネルを次々に切り替えるように、脳裏に映像が瞬く。青いビードロ。夢で見た白い靴。追いかけられていた誰か。
「左の目がな、つぶれてもうたんよ。それがもとで顔じゅう腫れあがって、なんも喋られんくなって、熱が引かなくて、それで……」

 壁をつきぬける蝉の声。
 応えるように、ビー玉の上でゆらめく陽の光。

 祖父は、語り続ける。
「ちょうどなあ、こんな暑い日で。太陽がぎらぎらして、草はぼうぼう生えていて。……松本も、友だちも、みんな黙って、蝉ばっかりうるさくて」
 祖父の手が床のビー玉を転がす。堆積していた埃が舞う。
「みんな黙ってた。みんな何も知らんことにした。だから誰からも何も言われんかった。けどな、あの子が言うんよ。わたしをかえして、てな」
 笑みをはりつかせたままの、祖父の顔だった。祖父の両目は、ラムネの中のビー玉みたいに透明に──虚ろに見えた。
「左の目がな。どうしてもあかんのや。いろんなひびの玉でやってみよるけど、あの子のきれいな目にならん。どうしてもあの子の左目と違う……」

 僕も気づいていた。
 描かれた女の子には、左目がなかった。整然と並んだビー玉の、そこだけがぽっかりと穴を開けて黒い床板がのぞいている。アンバランスで無表情なその顔は、ただじっと僕を見つめていた。
 祖父の指の間から、ぼとぼととビー玉がこぼれた。ふたつ、みっつ、よっつ。ひび割れたビー玉は、床に落ちて静かに砕けた。
「これが終わらんとな……」
 祖父が言った。
「女のほうが、ひとりずつ、いなくなる。あの子がそう言うとった。じいちゃんにも妹がいたけど、姉ちゃんもいたけど、ばあさんも、トオルとアキの母さんも、みんなそうなったなあ」

 ぽぺん。
 ガラスの弾けるような音が、遠くで聞こえた。
「……アキ!」
 凍りついた心臓に、熱湯をかけられた気がした。僕は妹のところへ走った。床で何度も滑り、障子や柱に体をぶつけながら、息をきらして縁側にたどりつく。アキはいない。右を左を見まわして、それから……大きな声を聞いた。

「おにい、お父さんだよ! お父さんきてくれたよ!」

 車でやってきていたのは松本さんではなく、父だった。出張がはやく終わって、僕たちを迎えにきたのだ。
 数日ぶりの父さんとの再会に、アキは大喜びだった。陽の差す玄関先で、僕は息をつく。真夏日の暑さがようやく皮膚の上に戻ってきた。

「アキちゃんと一緒に帰り。元気でな」
 祖父は笑い、僕らを見送った。笑いながら、お土産にと、青いビードロをアキに渡した。

 僕はあの晩を思い出す。
 ひび割れていくビー玉を見た夜。何かが立っていたように、へこんだ布団。

 ……何十年前のことかはわからない。ここに、この祖父の家からそう遠くない場所に、ビー玉のようなきれいな目をした女の子がいた。
 その女の子がきっと、来たのだ。布団の端を踏んで立ち、そっとビー玉を手に取った。
 それから……それから。

 そうしてひび割れたビー玉を、祖父はひとり集めていた。
 南向きのあの部屋に、ひとつずつ、ひとつずつ、微妙に陰影の異なるビー玉を並べていた。
 ひび割れては埋まる、面影。けれども埋まらない、空洞。失われた……おそらくは祖父たちが失わせてしまった左目……。合わなかったビー玉は、僕たちが寝ている間に取り換えられた。そうして新しいひび割れビー玉をまた床に置き、それでも記憶にある瞳には遠く、祖父はまた、次の夜と朝を迎える。
 いつから、そして、なんのきっかけで始まったのか知るすべもない。意味があるのかどうかもわからない、贖罪。それは長い年月をかけて、祖父の心の内側をぴきぴきと砕いていったのだろう。
 そう、想像することしか、できないけれど。

 父さんが運転する車の中、アキは屈託なく僕の横で眠っていた。小さな手に青いビードロを握ったまま。
 左側に新しいレンズが入った眼鏡に、手を触れる。考えて、恐ろしくなる。ビー玉を置かなかった晩、もし、この眼鏡がなかったら。
 もし僕が、アキにビー玉を譲っていなかったら。

 家に戻り、夏休みの残りは、退屈で平穏なまま過ぎた。
 祖父からもらったビードロやひび割れたビー玉を、アキは数日楽しんでいたけど、力加減を考えずに遊んでいたから、そのうちにみんな割れてしまった。その頃には父さんが出張先で買ったトイカメラで写真を撮るのに夢中になり、壊れたガラスのおもちゃのことなどは忘れてしまっていた。

 僕は忘れることができないだろう。ひび割れたビー玉で織りつづられた、左目の足りない女の子の肖像。それは恐ろしくて、けれどもとても綺麗で、頭に焼きついて離れそうになかった。

 
 それから一年後。
 松本のおじいさんから、祖父が亡くなった報せを受けた。
 原因は火事。古い木造の家は燃えさかり、何ひとつ残らなかった。火元は南の部屋だったらしい。焼け跡から大量の溶けたガラスが発見されたことで噂になって、テレビのニュースでも取り上げられた。
 炎に包まれる祖父と、それを見つめる白い靴の女の子が、脳裏をよぎる。

 父に連れられ、僕たちはまたその場所を訪れた。
 黒焦げになった家のほかは、一年前の夏に見た景色と変わらない。今をさかりと鳴く蝉の声もそのままだ。
 祖父には生きているきょうだいがおらず、子どもは亡くなった母だけだった。ほかに親戚もいないらしい。葬儀は親しかった松本さんのお宅で行われた。
 忙しい大人たちを手伝えることも特になく、僕とアキは縁側に座って足をぶらぶらさせていた。

 そこに、松本のおじいさんがやってきた。何も言わず、僕たちの横にラムネを置いた。
「……え」
 思わず松本さんの顔を見上げた。松本さんは何も言わず、行ってしまった。
「ビー玉!」
 アキが笑顔を弾けさせる。冷や汗を感じつつ、僕は苦笑した。
「アキ、もうここはおじいちゃんの家じゃないから」
 もうあのひび割れビー玉はできないんだよ。そう言おうとした僕に、アキは笑った。
「ううん。場所は関係ないの」

 アキはラムネを傾けながら、黒いワンピースのポケットを探り、一枚の紙きれを僕に見せた。トイカメラで撮られた写真だ。
 写っていたのは──青いビードロを手に持ち、白い靴を履いた、女の子の姿。
 左目は、真っ黒だった。まるでそこだけどんな光も注がれないみたいに。
「じいじはね、終わらなかったの。左目だけどうしても、できなかった」
 妹は笑う。左目を細めて、笑う。
 永遠に繰り返すような蝉の声を浴びながら。
「これからは、おにいの番だよ」

 空っぽの瓶の中、からん、とビー玉が鳴いた。


〈了〉


 

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