【LAL】手合わせ主従
慶応二年、蚕起きて桑を食む、小満の初候。
大きな左手が、細筆の柄をつまもうとしては、かたん、かたんと取り落とす。
はたから見ればそれはまるで、勉学に飽きた筆子のさまであるのだが。
斜向かいに座り、声をお掛けした。
「……やはり思うように動きませぬか?」
見慣れぬ生き物を見る顔で、坂本様は、自身の左手を眺めている。
・・・・・・・・
尾手城での密命と、その後に迷い込んだ異郷での旅。さまざまな出来事を経て現世へと戻ったのち、拙者は坂本様の行方を捜した。
合流を果たしたのは、いまから三月前のこと。はからずも、坂本様がふたたび囚われの身になりかかっていた時だった。
追っ手を散らし、話を聞けば、潜伏先にしていた寺田屋という伏見の船宿を幕吏に襲撃されたという。半刻あまりを逃走し、川端の材木小屋に身を隠すも、負傷のために動けなくなっていた。そこを敵に発見されて、「いやあ死ぬかと思ったぜよ」……だそうだ。
凍てつく冬の夜の戸外、浴衣に綿入れを羽織ったのみで、さんざんに出血しながらである。妖の城の時よりも一刻を争う事態だったではないかと、驚きを越していっそ呆れた。
……坂本様からしてみれば、拙者は、共に行くことを選んでおきながら何も言わずに消えた忍びだ。ふたたび姿を現したところで、いまさら何用かと罵られるだけではないのかと、旅路の中で幾度も考えた。だがこの御方は、拙者が生きていたことをただただ喜んで、無邪気に抱きついてきたのだった。あらたな追っ手がいつ来るやもしれぬこともお構いなしに。
尾手の城で出会った時からなにひとつ変わっていなかった、本当に、いろんな意味で。
──嫌がられようが追い払われようが、拙者がお守りせねば本当にだめだ、この御方は。
そう覚悟したものだが、まあ、それはまた別の話だ。
その後、坂本様は奥方様とともに支援者の屋敷に匿われた。安全な環境での療養で、体はすっかり元に戻られた。だが幕吏との交戦で骨に達する傷を受けた左手の人差し指は、不自由が残ってしまった。
「三か月過ぎてこれとなると、まあ一生もんじゃろなあ」
坂本様は、どこか他人事めいた顔だった。傷の痕は残れども、見た目はごく普通に繋がっている体の一部。それを己が意志で動かせぬことに、嘆きというよりは不思議を抱いている風だ。
「利き手のほうじゃなし、紐を結ぶでも椀を持つでも何ちゃあないぜよ」
とは仰るが。
事件から今まではもっぱら静養で、身の回りのことをなさるのも最低限だった。本格的に不自由を感じ始めるのは、これからだろう。
あと一日、いやせめて半日早く駆けつけていられたなら。歯噛みしても詮なき事と、解ってはいるが。
「……炎魔の里の医者ならば、あるいは市井の医術にはない治療のすべもあるやもしれませぬが」
確証のないことを具申するのには抵抗があるが、言ってみた。
拙者の抜け忍の咎は、坂本様の仲立ちで特例的に赦されている。二度と里に戻らぬこと、里の秘密を口外せぬことが条件だ。里の者に頼るなど論外である。
だがこのような事情であれば、頭目のハヤテ様なら繋ぎを取ってくださるかもしれない。はっきりと口にこそ出さないが、頭目は頭目なりに坂本様の身を案じている。
が、当の本人は笑い飛ばすだけだった。
「おっこうじゃのう。こん程度で死にかけた話なぞ忍び連中に知られたら、わしが大恥かくだけじゃ」
支援者や見舞い客に対してはけっこうな武勇伝として語っていなかったか、と思ったが、それはいい。
「まじめにお聞きください。坂本様はいちおう剣客でございましょう。刀を握るのに支障があれば一大事ではござらぬか」
「一応とはなんじゃ一応とは。わしゃこれでも北辰一刀流道場の塾頭を張っちょった男ぜよ」
「何年前の話ですか、いや、そうでなく。だからこそ手指が動かぬのは問題だろうと申し上げているのです」
ついつい語気を強めると、ほに、と土佐弁の相槌を打たれた。顎の無精髭をさすりつつ思案の顔をする。
「そうは言うたち、左の人差し指は刀の柄に添える程度やきなあ。たいしてのうが悪いとも思えんが」
「いざ実戦になってから不便に気づくのでは困ります」
むろん、拙者がいながら坂本様が刀を抜かねばならぬ事態に至らせるつもりはない。つもりはないが、危ないから下がっていろなどと言われて、無力な姫君がごとくに大人しくできる御方でもないのだ。
「ほいたら仕合ってみるか、わしとおぼろで」
……。
「いま何と?」
「ここの屋敷には演武場がある。頼めばなんぼでも貸してくれるろう」
「拙者と坂本様で、手合わせ、ですか?」
冗談ではない。
「せっかく体調がお戻りになったのに、どうして怪我を増やそうとなさるのですか」
「なにを余裕で勝つ気でおるがじゃ。おまんが忍術やら飛び道具やら使わずに、刀だけでやりあうなら、わしとてそう簡単には負けやぁせん」
主は体ごとこちらに向き直り、不敵な笑みを浮かべた。
「もともと、おまんとはいっぺん本気で勝負してみたいと思うちょったきな。これも剣客の性というものか……」
「念のためお聞きしますが、まさか真剣を使って?」
「それは怖すぎて嫌じゃ」
「……。なにも拙者がお相手をせずとも、この屋敷には他にいくらでも手練がおられましょう」
ここは京から遠く離れてはいるが、この日の本の行く末を左右する雄藩の陣屋敷だ。いずれ起こる幕府との戦に備え、藩士一同、日頃の鍛錬にも余念がない。実戦経験者からそれこそ道場の師範格まで、腕に覚えのある侍がごまんといる。手合わせの相手など事欠かぬだろう。
そう思ったが、坂本様はいやそうに眉をしかめた。
「あのな、おぼろ。事件からこっち、三か月も食っちゃ寝ごろごろで厄介になっちゅう上に、そがな暇つぶしまで頼めるほど、わしの面の皮が厚いと思うか?」
「暇つぶしと仰いましたな?」
「つべこべ言わんと相手をせい。刀だけでわしに勝てんと、わしのお付きを認めてやらん」
「は!?」
つい上げた素っ頓狂な声に、主は満面の笑みだった。
「おんしゃわしの護衛するつもりで来たんろう。わしより弱くて護衛が務まるか。なあ?」
もっともらしいことをにこにこと言う。絶対ただ面白がっているだけのくせにと内心毒づいて、威嚇のつもりで眉を寄せた。
「本当に怪我をなされても知りませぬぞ」
「おうおう、わしがなかなか起き上がられんで、医者の胸ぐら掴んで『何とかしろ!』とびいびい泣いちょった若造が、いっちょまえに吠えるわい」
「泣いてませんし、そこまでの無礼は働いておりません。記憶を捏造しないでいただきたい」
襲撃から一夜明けても坂本様の出血が止まらず、高熱で朦朧となさっていたことで、度を超して狼狽していたのは認める。「こんな傷ひとつ治せぬのか」「もっとましな医者を呼べ」などと周囲にわめき散らしたのも、遺憾ながら、事実だ。異郷の地で知り合った、たちどころに傷を癒す仲間の存在に慣れきってしまっていたせいだ。普通に手当てされた普通の人間の怪我がこういうものだというのを忘れていた。
そのような振る舞いを許されたのも、坂本様のとりなしがあってのこと。周囲からは忠実な従者だとかえって称揚されたものの、厳に反省すべきことである。が、事あるごとにこうして話を盛ってくるので、反省の気持ちもいささか目減りしてきている。
大体にして、だ。もとはと言えばその怪我も、本人の不用心が招いたものではないか。従者の分を超えたことかも知れぬが、ひとつ灸を据えておかねば今後の為にならぬ。
表情をただし、厳格な態度で申し上げた。
「承知いたしました。手加減なしでよろしいということですね」
主は余裕綽々の顔である。いまいましい。
「うっはっは。負けた時のもと忍び流の言い訳がどんなものか、楽しみやにゃあ?」
支援者に話をつけ、屋敷の演武場に案内された。
侍と忍びが本気で仕合うとのことで、幾人からか興味津々で見物を請われたものの、丁重に固辞させていただいた。信頼できる方々ではあるが、それでもあまり己の手の内を知られたくはない。
「わしにこてんぱんにされるところをひとに見られたくないそうじゃ。お年頃やきなあ」
などと横でのたまわれたのは、まあ、いい。
端から端まで十間はある、広い演武場だった。引窓から差す陽の光。埃ひとつない静謐な空気。自分は戦うことが特別に好きなわけでもないのだが、それでも隅々まできちんと手入れがなされた鍛錬の場というものは、心地よく感じる。
素足をつけるのをためらうほど磨き抜かれた床板を、主がどたどたと歩いてきた。
「あー……。久々に袴つけると重い」
腰に両手を当てながら、だるそうに首を回している。
「本当に大丈夫でござるか」
なにしろ負傷から数日の間は、厠に行くにも目眩を起こしていたほどだ。手加減せぬとは申したものの、やや心配になってきた。
「まあ、なんとかなるじゃろ」
本人はいたって呑気なものである。
「おまんの背丈ならこれか、いやこっちかな。ちくと合わせてみい」
と、壁掛けにあった竹刀の中から二振りを渡された。こんなものを握るのも幼年時以来だ。ずいぶんと軽くて頼りない。あまり打ち込んではすぐに駄目になるな、と軽く振りながら考えた。しっくり来るほうを手に残し、もう一振りを返しながら尋ねた。
「勝敗の取り決めは如何様に? 撃剣の試合流でござるか」
「ほうじゃなあ。まあ見分役もおらんし細かいことは抜きにして、床に背を着かせるか、面、胴、籠手の一本取るかでえいか」
「籠手はやめましょう。わざわざ手を痛めることはありますまい」
「なら面もなしにしよう。おまんは顔がよくてここの屋敷勤めの女中に人気があるきに、うっかり鼻っ柱を折りでもしたらわしが袋叩きにされかねん」
「至極光栄でござるな」
「一寸も興味なさそうに言うな。で、おまんは忍術と他の武器は封印な」
「当て身は?」
「なんな、おぼろも結構乗ってきたやか」
からから笑う主に無表情を向けた。
「ただの遊びで怪我をされても困るからでござる」
「ほんに生真面目やにゃあ。まあ、あれだ。理由があって忍術を使えない場合もあるろう? それでその場で手に入る武器が棒きれだけで、なるべく相手に怪我を負わせずに制圧せにゃならん、そういう訓練だと思え」
確かに、現実的な想定だ。それに近い鍛錬を里で積んだこともある。
悪ふざけが好きな主のことだ。勝たねば従者として認めぬなどというのは、冗談だろうと解っている。だが実際問題、護衛対象に一歩を譲る護衛などお話になるまい。殺してはならない相手にそういう制限下でどこまでやれるのかというのも、知っておいて損はない。
「承知いたしました。ただし胴をお着けになってください。拙者は竹刀に不慣れゆえ、力加減を誤らぬ保証がござらぬ。容れて戴けぬなら、お相手致すのはお断りします」
「そうか。なら、防具はおまんが選べ」
これ以上重いものを付けたくないとか言われるかと思ったが、存外、素直に承諾された。よくよく吟味して質の良い竹胴を選び、手伝って装着させた。
自分の側は、着慣れた忍装束だ。下に着込んでいる鎖帷子は真剣でも易々とは斬れぬ。ただ斬撃は防げても、剣圧は受ける。単純な腕力だけで言えば、拙者より体格のよい坂本様のほうが上だ。病み上がり相手とはいえ油断したものではない。
主はひとつ伸びをしてから、ぶん、と自分の竹刀を振った。
「さて、始めるか」
開始の儀はごくごく試合流に、互いに黙礼、蹲踞して竹刀の剣先を交える。普段は行儀がよろしいとは言えない主だが、北辰一刀流塾頭の名は伊達ではなく、こういう時は無駄に身じろぎもせず、様になっているものだ。
立ち上がりから、坂本様は基本の中段の構え。こちらは下段に構えた。まずは双方、様子見だ。
と思いきや。
主はいきなり肉迫してきた。疾駆と突きが同時に行われ、喉元に殺到してきた切っ先をこちらも最速の防御で弾く。だがその剣はむしろ勢いを増し、半月の軌道を描いて左胴を襲う。その攻撃をとっさに手甲で受け止める。
防御しつつ相手の胴を狙う、が、そんな崩れた姿勢の剣が届くはずもなく、足捌きでたやすく躱された。
互いに二間ほど後ろに飛び、距離を取る。
「よう止めたな。感心、感心」
悠々と構えを直しつつ、坂本様が言った。
「いきなり本気でござるか」
「でないと面白くないろう?」
主はいとも楽しげだ。
「試合ならこれで籠手一本だが、まあ関係なしにしたものなあ」
いかにも小馬鹿にした風だが、腹が立つ前に背筋が冷えた。最初の突きは、見てから反応できる速さではあった。だがもしこれが真剣での勝負であれば、刀の重量で押し切られ、捌ききれなかったかもしれない。
「いやあ、しかし、いまのを防がれちゃあもう打つ手がないな。こまったこまった」
いけしゃあしゃあと言う。つい先刻、袴が重いとかぬかしていた御方とは別人かと思う動きだった。今朝方も、腕の上げ下げが億劫だとか言って梅粥やら芋の羹やらを奥方様に食べさせてもらっていたのに。まさかそこから演技だったのではあるまいな。
なんとなく、微妙に腹が立ってきた。
「……お詫びを致しましょう。正直、侮っておりました」
腰を低く落とし、構える。
「おまんのそういう正直なところは、わしゃ好きぜよ」
泰然とした主の応答。それから一分の隙も伺えぬ構え。
腹は立つが、面白いと、内心でつぶやいた。
雲雀の高い鳴き声が聴こえてくる。それ以外、演武場に響く音はない。しんと静まりかえって、まるで時間を止めたようだ。
主は二歩を進め、竹刀を青眼につけ直した。中段にとった刀に手の内のひねりを加えたこの構えは、裏からは攻めにくく、上段も防がれやすい。
これ見よがしな、いかにも右胴を狙ってこいという誘いだ。
剣先が、鶺鴒の尾のごとく小刻みに震えている。行動移りを迅速にし、相手の視線を乱す、北辰一刀流の徴表。尾手の城でも幾度か目にした。
しゃらくさい真似だ。こちらは一寸先を闇で塗りこめた中の戦いを本領とする忍び。視覚のみで捉えるものなど常から当てにしておらぬ。
鳥の声が途切れた。
その瞬間に踏み込む。数瞬で、剣が胴に届く距離に達する。
誘いに乗って表を打ちに行くと見せかけて、頭上に竹刀を流した。此度の手合わせに面一本は無い。だが禁じ手と定めた訳でもない。そして恵まれた体躯を持つ者は、えてして小柄な敵手からの上段を本気で警戒しようとしない。胴に意識を向けさせた上で脳天を打ち、怯んだ隙に脇腹を薙ぐ。
そのつもりで振りかぶった一撃を、主は自身の胴をがら空きにして防いだ。
こちらは踏み込みの余勢があるのに、受け手の腕はびくともしない。交差する竹刀の向こうの表情は平然としたものだ。
「こりゃ。面はなしじゃと言うたろうが」
どの口が言う。読んでいなければ到底見切れぬはずの速さで打ち込んだのだぞ。
鎬を上に削っていって、たがいの剣先が外れる。そこから休みなく斬り結ぶ。三合、四合と打ち合って、主は後退していくが、拙者の剣に押されて後ずさりする様子ではない。爪先立ちでとんとんと床を踏み、さながら軽やかな春風になぶられるような押され方だ。
あと少しで壁につく、が、いったん退いた。背後がなくなればどう攻撃に転じてくるのか読み切れぬ。距離を取る。また仕切り直しだ。
あらためて思う。なんと戦りづらい相手か。大柄な剣士らしく、上背を活かした大振りをほいほいと出してくれば、こちらはいくらでも懐に入りこめるのに、それをしてこない。たくみに剣尖をうごかして、こちらの速度を殺してくる。自分よりも敏捷な剣士がとる立ち回り方を心得ているのだ。
そして冒頭の、捨て身も同然に突きを放ってくるやりかた。敵に構える暇を与えず踏み込んで斬りかかるのは、実戦における拙者の常套と相違ない。己の短躯が不利とならぬよう、大柄で膂力のある相手を詰めていく手は、幼少から数多く叩き込まれてきた。だが自分と同じような戦い方をしてくる相手には慣れていないのだということを、いまさらに知った。
坂本様は刀を下段に垂れ、ゆっくりと壁際から離れた。こちらのまわりを輪を描くように歩を進め、六間ほどの距離をじわじわと広げていく。
注視すれば、胴をつけた上身がやや上下していた。佇まいこそ悠然としたものだが、息が切れてきている。さもあろう。京から西国に移動を続けながらのこの三か月の療養は、ずっと寝たきりだった訳でもないとはいえ、体力も筋力もはるかに落ちているはずだ。
それでもここまで動けるのは、肉体というより精神の力のなせる域だろう。尾手の城の時から、こういう人だった。戦うべき相手を前にした時、疲労や、痛みや、みずから選んだ使命の重圧を担いながら、背負うものなど何ひとつないかのような顔をする。
「始めるまでは面倒くさそうにしちょったやに、すっかり本気になって。かわいい奴じゃのう」
どうでもいいが、斬り合いのさなかに無駄口をきくなと道場剣術では教わらぬのか。
しかし、企図がいまひとつ掴めない。いま距離を稼いでいるのは、体力の回復を図っているのだろう。にも関わらず、わざわざ攻撃を誘うような下段の構え。安い挑発は、その程度で拙者が乗ってくる訳がないと見越しての事であろうが。それとも本当に、こちらが軽々に飛び込んでくるのを目論んでいるのか?
こうして理を探りすぎて思考を自縛に至らせ、速攻を封じるのが狙いか。
ならばやることは一つ、仕掛けるのみ。
脇構えで九歩の間合いまで跳んだ。
主が両腕を引き上げる、それより速く駆けて接近し、いまだ下段の域にあった相手の竹刀をおもいきり踏みつけた。
「いっ……」
小気味よい音をたてて真ん中から竹刀が折れる。
虚をつかれた顔を見せるも、主はすぐに竹刀の柄を手放した。武器を落とされたら直ちに組討に切り替えるのはいくさの常法だ。その判断の迷いのなさに感服する、だがそれもこちらの読みの範疇だ。
襟を取ろうと伸びてきた手を躱し、そのまま互いに横を過ぎる。転がった竹刀に阻まれたか、主の足取りの音が乱れた。
影一文字の構えに入る。背を向けた態から回転の力を乗せて放つ拙者の最速剣。骨が折れぬ程度に握りを加減する。ただし胃液を吐くぐらいは覚悟めされよと口の中で呟いて──。
「動くと撃つぜよ」
聞き知った、威嚇の詞が降りてきた。
横薙ぎとともに振り返るはずだった体の、心の臓を撃ち抜く位置に、背面から伝わる固形の殺意。
がちり、と、撃鉄を上げる音がした。
「……刀だけ、と、仰られたでは……」
拙者の問いに、背を向けていて見えはしないが、さすさすと顎を撫でる気配。
「はて。『おまんが忍術やら飛び道具やら使わずに刀だけでやりあう』とは言うたな。けんど、わしが銃を使うのもなしだとは誰も言うちょらんよなあ?」
小童でも躊躇いそうな屁理屈を臆面もなく、この侍は……!
短筒は、いつも懐に携帯しておられたはず。だがいまは胴をつけている。装着するのを手伝った時にも不審な様子などなかった。この演武場に来る前から、股立の中に仕込んでいたのか。それは袴も重くなろうと埒もないことを思いかけたが、ひとまずどうでもいい。
「ほれ、床に手をついて、腹這いになれ」
身体を沈め、両膝を落とす。
そして言われるまま床に片手をついて、すかさず倒立し、脚を高く振り上げた。
「──っ!」
踵で銃を勢いよく蹴り飛ばす。不意をつかれた声。側転していちど距離を取る。
そのまま反撃に移ろうかとも考えたが、やめた。ひとこと文句を言ってやらねば気が済まぬ。
「いま、拙者に向けていたのは銃床のほうでござろう」
「いてててて。よう解ったな」
蹴り飛ばされた右手を押さえつつ、主は感嘆の顔を見せた。
背に当たっていた感触は、弾が放たれる場所にしては扁平すぎたのだ。隠し持っていた銃を取り出すまではできたものの、まともに握る暇はなかったということか。
「威嚇と悟られる威嚇など意味がござらぬと、尾手の城でも申し上げたはずです」
そう語気を強めたのは、己のしくじりを誤魔化したい気持ちもあったかもしれない。すぐに虚言と見抜いたとはいえ、一瞬、身体が固まったのは事実だ。これがもしも実戦で、躊躇いなく引き金を引く相手だったならと思うと、背に氷塊が滑り落ちてくる。
得物をなくした相手を、こちらは片手に竹刀を握って低く構え、油断なく見据えていたが、
「まあ、法螺でも虚仮威しでも、おまんに銃口を向けたくはないさ」
ふっと細い目を緩めて言われ、気勢を削がれた。
「にしても、まったく。借りもんの竹刀を思い切りよく踏み割りよって。あとで謝りに行くぞ?」
口調こそ叱責だが、坂本様の表情はむしろ上機嫌に見えた。こちらが返す言葉に詰まる間、当然のように壁掛けの竹刀をもう一振り取ってきて、握りなおす。
「ほいたらここからは、本当に本気で。正真正銘、おたがい刀だけで」
訥々と、まるで己自身に語りかけるかのように告げて、向き直る。
「やるか」
ゆっくりと、両腕が振り上げられた。
諸手上段、火の構え。
四つ割りの竹刀にあらざるはずの刃の光を、確かに感じた。研ぎ澄まされた牙もつ竜。飲み込まれるような威圧感。身震いとともに、胸のうちに炎が灯る。
「……面白い」
刀を返し、逆手に握った。五行の剣の道には属さぬ、忍び流の型。
竜には竜の、影には影の戦い方がある。
もっともこの竜は、ばかげて変幻自在だ。それに添う影もまた、何にでもなれるような、そんな気にさせてくれる。
「〝振りかざす、太刀の下こそ地獄なれ、一足進め先は極楽〟──」
朗々と、相対する主が詠う。
「宮本武蔵の歌でござるか」
「よう知っちゅうな」
「まあ、会いましたからね」
「あれ、人に言うたち誰も信じてくれやしやーせんよなあ」
お互い笑った。おしゃべりは、ここまでだ。
なにを合図にするでもなく、双方駆けた。
落雷のような衝撃が肩に落ちる、そのわずかの前に、己の握る竹刀の先が竹胴をしたたかに撃った。
遠くから蛙の合唱が聞こえる。
「絶対わしのほうが速かった」
「いつまで仰るのですか。拙者の胴一本のほうが先です。それに速かろうが遅かろうが、肩は有効打の取り決めにはござらぬ。ほらそこ、まだ足の跡がついております」
「ええい、やかましいのう。やっぱり誰かに審判頼むんじゃった」
ぶつくさと文句を垂れ流しつつ、坂本様はひとりせっせと、演武場の床の板敷に雑巾がけをしている。
手合わせの前に、『罰げえむ』とかいう聞きかじりの異国語で一方的に言ってきたことだ。約束はきちんと守っていただかねば。来た時よりも美しく、などと仰られていたことであるし。
拙者のほうはそれを監督しつつ、腰を下ろしてのんびりと、使った竹刀の手入れである。
「まあ、これだけ剣をお使いになれて、雑巾絞りにも事欠かぬなら、手指の件については確かにさほど支障ないということでござるな。くれぐれも己を過信などなさらずお過ごしいただきたいものですが」
「おぼろ丸様からの有難きお言葉、至極光栄でござるな」
全然似ていない人真似はやめてほしい。五歳児か。
とはいえ、己自身も腑に落ちてはいない。
というより、省みるべきことしかない。完全に試合の流儀に則っていたならば、最初の籠手で負けていた。禁じ手などないただの殺し合いだったなら、相手が刀しか持っておらぬという思い込みで命を落としていた。
この先、無害な味方の素振りをしてこの御方に近づく刺客に、見えぬ保障などどこにもないのに。
……精進あるのみ、だな。
それに、ひとつ思うこともあった。
最後の上段からの斬り下ろし。
あれは、ほんのわずかに左手の支えが甘かったのではないか。あの一撃がもし正確に頭上に来ていれば、こちらの竹刀が届くより先に沈められていたかもしれない。面なしという取り決めの通り、わざと軌道をずらしたのか、指の不自由によるものなのかは、わからなかった。なんとなく、尋ねてもはぐらかされるような気がした。
「どういた、黙り込んで。肩、痛めたか」
呼びかけられて、顔を上げた。気づかわしげな細い両目がこちらを見下ろしている。
「いえ、何でもありませぬ。……ひとつお聞きしてよろしいですか」
「なんな?」
ささくれだった竹刀に目を落としつつ、口にしたのは、以前からのささやかな疑問だった。
「坂本様には銃があるでしょう。刀は、これからも必要なのでしょうか」
「ええ? 知らん」
あまりに即答だった。
「もう少し考えてから仰っていただけませぬか」
貴方は剣士だろう、と申し上げたのは拙者だ。けれどこの方には銃という、刀よりも易く敵を仕留めるすべがある。傷をつけずに威嚇し、制圧できる手段でもある。
そしてそれ以上に、この方は戦艦を駆る船将だ。風もない海原を蒸気によって疾く走り、ただ一発の砲弾で陸と海の敵をあまた沈める力がある。それこそ、拙者がこの手でわずかばかりの人間を斬る間に。
自身が刀など握らなくとも──あるいはその隣に、刀を握る者などがいなくても──よいのではないか。
「そがなこと言われても、先のことなぞ知らんがよ」
雑巾を絞りつつ、坂本様は語をついだ。
「まあ、そうだな。尾手の手勢に捕まった時も腰に大小差しちょったけど、けっきょく銃にばっかり頼って刀はほとんど役に立たなんだな。伏見の宿で襲われて逃げてきた時も、おまんが来る直前に、これはさすがにもういかんなと思って腹切るのに使おうとしたぐらいで」
腹を切るのに使おうとした?
「いやちょっと待ってください、それは完全に初耳です」
「あれがあともうちくっと遅かったら、わしゃ今頃ここにはおらんかったろうなあ。人間、短気を起こすもんじゃあないと思ったもんだ」
こともなげにそう笑い、それはさておき、とあっさり横に置いてしまう。
「ただ、これから先がどうかは知らんが、剣は、少なくとも今までのわしには必要なものだったよ」
そこから、坂本様はゆっくりと話しはじめた。
「おまんはわしを主と呼んで様付けもするが、わしの生まれはただの商人あがりの郷士じゃ。剣術修行は、そういう軽格が国を出ることを許される、ほとんど唯一の手段やった。剣をもって一対一で相対するとき、頼れるのは己の力だけだ。そこには属する藩の違いもなく、身分の段差も関係ない。それがあったからわしはあの日、江戸の海で黒船を見ることができたし、己のやるべきことが何なのかを考えた」
広い演武場を、坂本様はゆっくりと見まわした。
「わしだけではない、多くの者が、こういう場所で、己の知らぬ世界につながる道を、己とは異なる立場から世界を見ることを知った。その中には、剣の力のみが道を拓くと信じてかえって希望を断ってしまった者も、けして少なくはなかったが……」
昔日を懐かしむ思いと、往いて還らぬものへ向けて抱く痛みとが、主の横顔にあった。
「わしの吉行は、わしが生まれるずっと前から土佐の家にあった。これから先、死ぬ時も一緒にあればいいと思うちょる。けんど……」
言いさして、拙者の近くに歩み寄り、しゃがみこむ。なにか楽しげな顔を、向ける。
「そのうち、おまんにやってもいいな。わしにもっと余裕で勝てるようになったらな」
「……え」
「おまんがもっちょいてくれたほうが、あいつも幸せかもしれんきにな」
「そんな」
思いもかけないことに、目をしばたたいた。
「あれは先祖伝来の刀だと、いつも仰っていたではありませぬか。拙者に持つ資格など……」
「なにをもう余裕で勝つ気でおるがじゃ。って、今日これ言うの二度目か? そう簡単にはくれてやらんぜよ」
わざとらしく口をとがらせる。それからふいに表情を緩め、穏やかな光を抱いたまなざしで、主は言った。
「おんしがいれば、わしはこんまい敵から逃げも隠れもせんでいい。わしを自由にしてくれる守り刀じゃ。精進して、どんどん強くなってくれよ」
細い目をさらに細めて、笑う。
御意、と返せばよいものを、そのただ一言が出なかった。言うべき言葉がわかっているのに、身体の奥から湧き出した熱が喉のあたりに先回りして、声が閊える。そういう経験は、影の身であった頃にはほとんど覚えのないことだった。
それは心がある証だと、そう、いつか、この主から言われたことがあった。
差し込む陽が赤みを帯びはじめている。竹刀を置いて腰を上げ、盥たらいの雑巾を手に取った。
「……拙者もお手伝いします」
「おっ?」
「坂本様にお任せしていると、日が暮れそうですし」
いつから自分はこういう物言いをするようになったのかと思う。みだりに口をきくなと言われて育ってきたはずなのに。原因となったものは、問わずともわかりきっているが、あるいはこれが元々の地であったのかもしれない。
従者風情から要らぬいやみを言われた主の方は、破顔一笑し、雑巾絞りで濡れた手で、ひとの肩をばんばんと叩いてきた。
「うははは。やっぱり、おまんがいれば、お天道様の下を気楽に歩けるにゃあ!」
翌朝、坂本様は足腰が痛むと言って、昼過ぎまで起き上がれなかった。
「遠慮せんで打ってこいとは言うたが、あいつ本当に遠慮なしに打ってくるから、えらい目にあった」
枕を抱きながらそう周囲に零しておられたが、それは間違いなく床の雑巾がけでの筋肉痛だろうと思いつつ、主の名誉のため、かたく口をつぐんでおいた。
[手合わせ主従・了]