【LAL】暗夜光路
絵に描いたような不満げな顔をされた。
「戦いは拙者に任せ、貴殿は後方に控えていただきたい」
そう伝えての、反応である。
「やみくもに動かれれば、こちらとしても手数が増えます。御身に傷を負わせる訳にはまいりませぬ」
そもそも拙者の密命は、城のあるじの討伐ではない。この要人を救出することだ。戦闘はその付随に過ぎぬ。
それを曲げて、ともに天守六階を目指すという要望に従うのだから、せめて道中の行動はこちらに従ってもらわねば。
丈高い要人は、ひとつ肩をすくめた。
「まあ、おまんのレベルならそう簡単に斬られたりせんろう。わしはせいぜい援護射撃に回るぜよ」
重畳だ。が。
「……れべるとは何でござるか」
「水準のことじゃ。経験値かせいだら上がるやつな。これからの商売にはエゲレス語が必須ぜよ。おまんも習うか?」
要らぬことを聞いた。
「拙者の生業は商いではござらぬ」
というか、この男こそ商人ではなく武士ではないのか。
いや、それもよけいなことだ。相手の為人を知ることが必須であるならば、いかな火急の密命といえども事前に伝えられているだろう。
拙者に知る分限はない。そういうことだ。
敵は一人、老侍。
地下牢から階段をのぼった、その先の部屋での会敵だった。
家老格だろう。定め小紋を染めぬいた柳緑色の裃。それを一薙ぎに血染めにした。
「曲者……じゃ……!」
絞り出した声で加勢を呼ばれた。それで命の残量を費いはたしたようだった。老侍はどうと倒れ、直後にふたつの影が降りてきた。
「貴様、よくも!」
尾手の忍びだ。敵に向けて地声を放つとは。声を模倣して敵に成りすますたぐいの術を警戒せぬのか。炎魔の頭目ならば決して許さぬ愚行だ。
要人は、ほとんど反射の域で刀を抜いていた。だが先んじて前に出るそぶりはない。戦闘は拙者に任すというのを承服されているようだ。よけいな動きをされないのが一番よい。
忍び二人の姿勢と位置から標的の順を見定める。
一歩下がり、手裏剣を乱投した。至近の忍びが鉤爪で払う。その振り上げた腕の脇下、忍装束の鎖帷子の繋ぎ目を狙い、肉薄して斬り上げる。
鉤爪をつけたままの腕が天井まで飛んだ。
肩をおさえてくずおれる忍びの頸をすばやく断つ。低い叫びと血潮が上がる。血飛沫を避けて跳んだ。壁際の大きな葛籠を足掛かりに方向を変え、もう一人の忍びの背面を取る。
振り返るのをあえて待ち、こちらを向いた顔面めがけて小ぶりの火遁を放つ。
「……ッ!」
怯ませるつもりであったが、覆面と肌を焼かれながらも相手は踏みとどまった。鉤爪が左右から振り下ろされる。一方は刀で受けたものの、その瞬間に刀身が折れた。
脇腹めがけてもう一方が来る。
乍然、銃声と金属音。
敵の忍びの鉤爪が空中で砕けた。
驚いたが、事の把握はひとまず置いて、視線を周囲に走らせた。葛籠の蓋がさきほど踏み蹴りにした拍子に開いて、中に一振りの刀があるのが見えた。
拾い上げ、抜刀しながら踏み込んで十文字斬りを放った。斬撃の勢いそのままに敵の半身が回転する。そこに止めの斬撃を加えた。
要人の男へ、目をやった。両手で構えた銃から紫煙が立ち昇っている。
あの一瞬で武器を狙い撃ちしたのか。
だが、まずい。
「何の音だ!」
「ご家老の部屋ではないか」
危惧した直後、廊下から口々に上がる怒声。尾手の藩士らが発砲音を聞きつけたのだ。複数人がこの部屋へ向かってくる。
軽く舌打ちした。隠れてやりすごすか、あるいは全員斬らねばならぬか。判断に迷ったその時、
「おまん、ちっくと隅で隠れ蓑しちょけ」
にわかに要人がそう命じた。
意をただす間もなかった。要人は銃をしまい、畳に広がる敵の血液をなぜかべたべたと自身になすりつけた。それから刀を握り直して、障子をすぱんと開け放つ。と同時に、野太い声を発する。
「山ッ!」
いままさに部屋に殺到せんとしていた侍どもが、完全に思考停止の態をした。そこに要人がかさねて呼ばわった。
「合言葉は! いかに!」
「あ、も、元!」
うろたえた顔で応えを送る。うむ、と要人はうなずいた。
「日野様がやられた。例の男の奪還に来た炎魔の手のものどもだ。地下牢に向かった。急がれい!」
血まみれの、抜き身の刀を握る姿で、血痰がらみの演技もまじえた、あまりに鬼気迫る嘘八百だった。勢いに飲まれ、藩士たちは血相を変えて我先にと階段へ向かった。その先にはすでに斬り伏せた見張りと、無関係の虜囚しかいない。
静寂が降りた。
「さて、と。たいてい行ったかえ」
……あっけに取られたのは、否定できない。
敵中、人骨うずたかく積もる妖魔の塒にも動じなかった仁だ。恐れで狂に走る心配はなさそうだと踏んではいたが、それどころではない。とんでもない真似をする。
「もし看破されたら、いかがなさるおつもりだったのですか」
「なに、城仕えのお侍に浪人の見分けなぞつかんぜよ。なにせ京都らぁ、怪しき者はみな不逞浪士とみなして斬れと高札が立つ始末やき」
至極泰然としたものだった。たしかに城中にはこの方と大差ない風体の、雇われの浪人らしき剣客が何人もいる。
よもや先の発砲も、拙者の助太刀のみならず、敵をひとところに集めるためのものだったのか。
その旨を問うと、
「いやあ、それは、偶々じゃ」
からからと、裏表のなさそうな笑みが返ってきた。
ともあれ、ここで雑談する猶予はない。
忍びたちが降りてきたのは天井裏からだった。そこを通っていけば、おそらく上階への早道だ。
が、縄梯子もなしに上がるのは、拙者はともかく大柄な要人にはひと仕事だろう。手薄になった廊下を慎重に進むことにした。
周囲の気配を窺いつつ、声を低くして言った。
「先は、ご助力、かたじけない」
要人は細い目をいささか丸めにした。
「何か」
「いや、存外すなおに礼を言うてくれるもんやにゃあと。よけいなことをするなとおこられるかと思うたがよ」
と、驚いたふうで顎をなでる。
それこそ異なことだ。
「防ぎきれたとは思いますが、より安全な手であったのは事実ですので」
一人で当たるのが適した任と、そうでないものとがある。
戦闘は、あきらかに後者だ。そして複数で当たる忍びの任は、個々が誰に命じられずとも最適手を取る必要がある。それができる者を重宝こそすれ、疎む理由はない。
そもそも連携を軽んじてよいものならば、忍びの鉄の掟など要るわけがないのだ。
むろん、相手は仲間ではなく救出対象なのだから、自身の防御を最優先にしていただきたいが。
そういったことを、端的にのべた。
要人はますます目を丸くして、といっても元がずいぶんな細目だからたいして面積は増えていないのだが、こちらをまじまじと見やった。
差し出口であったかと思ったが、気分を害したのではなさそうだ。どころか、その直後にはたいそう楽しげな表情をみせてきた。
「おまん、ものの切り替えが早くて、おもしろい奴じゃ。忍びにしておくにはもったいないにゃあ」
……忍びの心得を説いたつもりなのだが、何故そのように言われるのか。
「ところでな。その刀、ちくと見せとぅせ」
と、要人は拙者の右手に目を落とした。
家老の部屋から拾得した刀のことだ。
あたりを警戒しつつ手渡す。要人は鑑定の顔でそれを眼前にかざした。
「虎徹かな。贋かもしれんが、地鉄があかるうて映りもすなおで、えい刀じゃ。けんどおまんの背丈には合うちょらんな。こがぁでかいの振っちゅうと肩を痛める」
実際、二尺八寸はあろうかという太刀である。身幅も広く、重い。
だが、もともと携えてきた兼定はもう捨てている。他に仕込み武器も忍術もあるとはいえ、やはり刀は必要だ。
「拾得した武具で場を凌ぐ鍛錬は積んでおります。支障はござらぬ」
歩を進めつつ、返却をうながす。要人は太刀に目を注いだまま言った。
「この先、何人斬らねばならんと思う?」
「……必要か、さもなくばご下命があれば、何人でもとなりますが」
「そうか。ならば、ここまでに何人斬った」
それは、ずいぶんと静かな表情の、問いだった。
意図は掴みきれなかった。ゆえに、ただ数だけを答えた。
「十二……」
しばし、要人は眉目をうごかさなかった。虎徹を握る手も、微塵にもうごかなかった。なにか、神域にたたずむ霊木の、あの圧し掛かるような静謐の息苦しさを感じて、身構えた。
が、
「それだけ男を上げれば充分じゃな」
はからずも、降りてきた声は軽く、柔らかだった。
そして自身の佩刀を、無造作に渡された。
「虎徹はわしが使う。かわりにこいつを貸してやる。まあ、おまんにだけ負わせるつもりはないさ。おたがい気張ろうや」
むろん、固辞したが、要人はすがすがしくかぶりを振るのだった。
「わしの吉行は、人を斬るのは好いちょらん。が、わしに付きおうて身体張りゆう奴を、指くわえて眺められる奴でもないきにな」
ひらひらと手を振りながら、要人は先を行った。慌ててその後を追った。
「どう使おうと構わんが、貸すだけじゃ。死体から剥ぐのは気分が悪い。ちゃんと、生きて返せよ」
それはおよそ二尺二寸の打刀だった。
刃文は大ぶりの拳型丁字。反りが高く、質朴さとするどさと、柔らかさを併せもっている。虎徹や之定にはさすがに及ぶまいが、地刃は冴えわたり、堂々とした刀だ。
どこか持ち主と似ていると、思わせるような。
「あの見張り、あれも渡りの臨時御用じゃな。腕は立ちそうやけんどあまりまじめやないな。給金が安いがやろうにゃあ」
「なればおそらく、合言葉で欺けましょう」
「これは忍びの鳥黐でござるな。足止めに使えます」
「モチかあ……。ちっくと食うてみてもえいかにゃあ……」
「中ります。それほど空腹なら兵糧丸でもお分けしますが」
「かすていら食いたい」
「ぜいたく言わんで下さい」
「床に絡繰があってな、踏み抜いたら柱がどっすんどっすん落ちてくる仕組みで」
「そういうことはもう少し早くおっしゃっていただきたい……!」
「なんだったのでござるか、あの不細……いや、ちょっと独特な容姿の女人は……」
「蝶々飛ばしたら気が逸れてくれて命拾いしたのう」
「人を呼ぶ様子はなぜか無いようでしたが、さては物の怪のたぐいであったか……」
「いや、うん、あれは人間じゃろ。おなごを斬るのはいかん。まあ一度や二度斬られた程度じゃぜんぜん大丈夫そうやったけんど……」
この尾手城の陣立てを、要人はあらかた把握していた。
いわく、捕まる前に調べ上げていたことが半分、捕まってのちに牢番やらと『雑談』して聞き出した情報が半分、らしい。多少の珍事もあったものの、戦いをうまく避け、上階へ向かった。託された刀を人の血肉に浸す機会はなかった。
どこか、安堵している自分がいた。
戦えば、体力も武器も消耗する。ゆえに戦わずに済むならそれに越したことはない。ないのだが、それだけが安堵の理由ではないような気がした。
気がしただけで、その実は、わからない。
「……しかし、尾手が徳川と戦うというのなら、そのようにさせてやればよろしいのではござらぬか」
「いやあ、よろしいことはないぜよ。まず、ここの連中じゃ勝てんきにな」
いつしか、そんな議論めいた話をも小声で交わすようになっていた。
この御仁が、いわゆる倒幕の志士であることは、ほどなく知れた。
というか、向こうのほうからそういうことをきやすく話してくるのだ。こちらから名をたずねるのはむろん憚っているが。
南国土佐の訛りと言えば、土佐勤王党ゆかりの者だろうか。
先頃、頭領が切腹し、壊滅したと聞くが。
自論のつづきを要人は語った。
「この城だけ見ればそりゃおとろしい化生の巣窟かしれんが、城下の人間はそうでもなかろう。それを無謀ないくさで死なせられんよ。攻め込まれて迎え撃つならいざ知らずな。
それに万に一つ、尾手みたいな奴が徳川を倒すようなことがあれば、もっと始末がわるい」
「というと?」
「奴のかかげる正義は、じつに単純明快さ。いちばん強いのがいちばんえらい、それだけじゃ。戦国時代ならそれでも通じたかもしれんが、いまはちがう。武力は、入り口をひらくだけのものでなければならぬ。武人の政府を倒した者が、その武勲のゆえにそのまま頂上にのぼり立つならば、それはいままでの世となにひとつ変わらん」
この要人は、ときに武士と商人をないまぜた顔をする。そしてそこに、刀をたのむだけの武でもなく、利をもとめるだけの商でもない、ひとすじの智がきざす。
「そがあな了見の奴が、まかりまちがって天下を取ってみい。我こそはそれを凌ぐものだと、第二、第三の尾手があらわれるだけじゃ。この国は、そんなちんまいことをしている場合じゃないがぜよ」
階段の間に出た。
その刹那、殺気で肌が粟立った。
ほとんど体当たりで要人を押しのける。閃光がはしり、その場に尾手の棒手裏剣が注いだ。うちひとつが自分の右腿をかすめた。
射点をみれば、そこには夜叉と見まごう容貌魁偉の影があった。
灼けただれた顔、砕けた鉤爪。腹と背に斬撃の痕。
家老の部屋で交戦した敵のひとりだ。仕留めそこねていたか。天井裏を通ってここへ回ってきたのだ。
「……よく、も」
影は、口を開いた。
「よくも、わが、……あるじ、を」
かすれて引きつれた声が、それでもはっきりと鼓膜を圧した。
同時に、脳に警告の灯が点った。
力を振り絞って得物を投擲したものの、もはや一歩も動くことも能わぬ、さながら生ける屍と化した姿。そのような忍びが選ぶ策はひとつ、おのが命を燃料にして、敵を業火に包むことだ。
足を引きずって対応する、それよりも早く、要人が動いた。
「忍びと戦うならば、半端に打ち倒すのは命取り、か……」
忍びの里で叩き込まれたその教えが、その時たしかに志士の口から紡がれた。
そこからは瞬きの間だった。踏み込みながら抜刀し、迷いのない、猛然たる、北辰一刀流の斬り下ろしが放たれる。
見開いた目は、最期になにを映じたか。
「……ひ、の、さま」
かすれた声であるじの名を呼び、そのまま、忍びは倒れた。
握られていた焙烙玉がひとつ、要人の靴元に転がる。導火の芯が朱に濡れて、二度とは爆ぜぬ塊となった。
それを見下ろして、要人は言った。
「すまんにゃあ。……許しとうせ」
言葉の抑揚以上に複雑な陰影が、その背にあった。
その様は、旧い記憶を呼び起こした。はじめてこの手で人を殺めた時の記憶だ。
与えられた役目を全うした達成感。自分は命を落とさずにすんだという安堵。敵手の技量を上回った征服感。それらが熱い奔流となって全身を駆け巡る中で、流されて攫われることのない痛みが、あの時たしかにあった。
役目を重ね、いつしか手放していたそれが、いま、水底深くに突き刺さり動かない錨さながらに、胸の深くに投じられた気がした。
「さっき言うちょった数は、十一のまちがいやったな」
にわかに、要人はこちらに顔を向けた。
拍子抜けするような、一見、明るい表情ではあった。
返事に窮していたが、「怪我はだいじょうぶか」と聞かれ、答える義務を果たした。
「掠っただけです。すぐ治ります」
見栄ではない。多少の傷ならすぐに塞がる、そういう体質だ。
「それに数え間違いではござりませぬ。今のは介錯のようなものでしょう」
要人の眉がかるく上がる。
「言うにゃあ」
「……次は」
敵手の絶命を念入りに検めつつ、告げた。
「このような不始末は、致しませぬ」
失態を詫びる時に取り出せる口上を、自分はもう少しいくらか備えている。けれどそのどれを読み上げるのも、適切ではない気がした。ために口から出たのは、ただの予定を申し伝えるような不足きわまるものだった。
要人は、ただほろ苦い笑みを返した。
「あの黒船の来航以来、いや、あるいはもっとずっと前から」
独語めいた口調で、彼は語る。
──徳川将軍家という、東の代官の権威を守ることを、幕府の中枢は第一としてきた。
将軍を守るため命を捧ぐのが、まことの忠義の道であると、人々は信じさせられてきた。
その幕府は、外つ国に対して毅然たるべき時に毅然たれなかった。あまつさえ、外様の藩が異国艦隊から攻め撃たれる事態を、この国の首長として防ごうとするどころか、かえって公儀にたてつく者が鎮撫されると歓迎すらしたのだ。
「幕府は、もうこの国のあるじとしての責を負えぬ。倒れるべきだ。けれど」
細い目がいちど伏せられて、それからまた開ける。足元の骸の、見開かれた両眼から、彼は視線をそらさない。
「二百と六十余のむかし、泰平の世をきずきあげた家康公の、その末裔にどこまでも殉じようとするものがいる。理屈ではない。人間には、みずから選んだ天命に抗えぬ時というものがあるのだ。そういうことを考えられん奴に引導を渡されたのでは、むくわれぬ魂が国じゅうにひしめくことになろうよ」
それこそこの城のごとくにな、と、苦笑がその後につづいた。徳川の世のはじめに散った恨みの魂に囚われていた要人は、どこか遥かな先を見渡す目をしていた。
立ち上がり、しばし考えた。それから、要人へ吉行の刀を差し出した。
「やはり、換えていただきたい」
「え、なんで」
わからない。理に合うことではない。
ただ、自分はこの刀には相応しくない。少なくとも今は。と、そんな気がしたのだ。寸法や目方の適不適などではなく、なにかもっと大きな資格が、要るのではないかと。
「……そうか、わかった」
言葉に拠らず、要人は承知なされたようだった。血脂を袂でぬぐわれてから、敵の主の刀だった虎徹は、いまいちど手の中に戻ってきた。
「少し前にも、言うたがの」
吉行の柄を撫でながら、その刀のあるじが此方に目を向ける。
「おまんだけに負わせる気はないよ。数えた数を、誉にしておる訳ではあるまい」
それはひどく優しくて、それでも、おのが道を譲ることはできないと、覚悟の荷をすべて積みこんだあとの目であった。
御意とだけ、言葉を返した。
この要人をお守りする。そう命じられた。
その手を汚させぬようにせよとは、命じられていない。だがそれも己の役目だと、なぜかこの時、そう思った。
格子窓から差す光が闇を薄めている。
「ああ、えい月がでちゅうにゃあ」
詠嘆して、要人はふと思い立った顔でたずねてきた。
「朧月が由来かな。おまんの名は」
「さあ……。どうでしょう」
薄雲たなびく春の月夜に、忍びの里に連れられてきた。そのような話は聞いたことがあった。が、みだりに出自を明かしてはならぬと厳命されている。
「おまん、忍びのくせに嘘がへたやにゃあ。適当言うたのが丸わかりぜよ」
「……」
「まあ、えいか。ここを出たら頭目さんも一杯くらい付きおうてくれるろう。酒の肴にいろいろ聞くか」
我らの里では、正月以外に酒を嗜むことはない。それを抜きにしても。
「あの頭目が、諜報以外の目的で誰かと飲みかわすなど、まず想像がつきませぬが……」
「ほいたら、探りたくなるような肝を備えていけばえいっちゅうことか」
要らぬことを言った気がする。
無邪気な悪童の顔で、要人はずんずんと先を行った。
その後を、ただみずからの意志に従い選んで付いていったのだと、その時の自分はまだ、気づいてはいなかった。
作品をお楽しみ戴けたら、よろしければサポートをお願いします。ネコチャンのオヤツ代になるなどしてニンゲンが喜びます。