測れないもの
測れないからと言って、存在しないわけではない。
私たちがそれを測る術を持ち合わせていないだけ。
この記事では、「測れないもの」をひたすら列挙しつつ、複数の本の記述を引用することで、測定可能性・再現性・定量性・効率化・コスト削減といった明確な視点の対極にあるであろう何か曖昧なものについて、考えていきたい。
[測れないもの1] 定義が定まる前のもの
適切な問い
「効率・時間・コスト・便利・改善・大量生産・金太郎飴」の考えは、既存の物差しで測定できる。一方、「パラダイムシフト・イノベーション・特異点・ジャンプ」の考えは、既存の物差しでは測定できない。
だからこそ、「なされるべきを考える」「適切な問いを立てる」ことが求められている。
「問いこそが答え」とも言えるし、「ピントをぼかす言葉で逃げるな」とも表現できる。
原因療法と対処療法
表面に現れている現象ではなく、その内側を見る。何がcriticalな点だろうか?と考える必要があるが、えてして最重要な点は定量化できない。
以下に一例をあげる。
Q. あなたには2歳の子供がいるが、喘息、アトピー、貧血、体の冷え、食の細さ、疲れ、、、などの症状を訴えている。どうする?
A1. 育てるのが面倒だから捨てる。……コストカット、ヨシ!
A2. 医者にかかったところ、「咳止めと気管支拡張薬と血管拡張薬と抗アレルギー薬と抗不安薬と睡眠薬とステロイドとサプリメント出しときますね、一生飲んでください。あと栄養が取れないので点滴。場合によっては胃瘻にしましょう」とのことだったので、一生寝たきりの子供に投薬し続ける。……体中にセンサを取り付けてデータを可視化、ヨシ!
A3. 「この子は生命力が足りていない。生命力を高めるにはどうすればよい?食べ物からエネルギーが取れていないのはなぜ?胃腸が動いていない?胃腸を動かすにはどうしたらいい?」と考え続ける。「咳をすると気道がふさがるから咳止め」と医者に言われた際に、「生命は伸びるものなのに、咳は生命防御に必要な機能なのに、むやみに止めていいものではなくない?」と、自分の直感を信じ抜く。自分の足で探し続けた結果、『薬食同源』という言葉に行き当たり、体を温める材料で作った、栄養バランスの取れた食事を与えるようにする。
ちなみに、A3は実話。
今のコードと未来のコード
突然プログラミングの話。プログラミングの業界では、「未来に技術的負債を残さないこと」が重要視されることが多い。余計なif文を足す前に、元の設計を見直せということ。
ただし、この考え方を現実とぶつけると、「測れないこと」に由来する様々な課題が生じる。
「今、納期を遵守した」は測れるが、「将来の納期を縮めた」は測れない。定量的な成果、例えば現プロジェクトの〆切を守ることが評価される人事システムの場合、抜本的な設計改善をする意欲に繋がらない。
「今、バグを何件直した」は測れるが、「将来のバグを何件防いだ」は測れない。定量的な成果、例えば現プロジェクトでバグを直した件数が評価される人事システムの場合、未病で防ぐ意欲に繋がらない。
「今、新しいシステムを設計した」は測れるが、「将来にわたって問題が起こりづらい設計にした」は測れない。自分がいなくなった後にも保守しやすいようなアーキテクチャを作る意欲は、今期の定量的な成果だけを見る会社の人事システムからは生まれない。
ちなみに、実話。
今の寸法と、未来の癖と、過去の姿
突然建築の話。生きている木を使って建築をするなら、今の形だけ整えればよいというわけではない。その過去の姿から未来の癖を見通して作らないといけない。…が、当然、カットされた後の材木の寸法だけでは、過去の姿も未来の癖も測れない。
自分の文章だが、こちらも参照して良さそう。
[測れないもの2] 定義が文脈に依存するもの
成功と失敗
そもそも「成功」や「失敗」なる統一的な概念があるのか?ある視点から見れば成功で、ある視点から見れば失敗ということもある。一概に測れるものではない。
一例として、「THE FIRST SLAM DUNK」におけるライバル校のエース、沢北栄治が試合前に祈っていた時の言葉を引用。
この後、沢北のチームは主人公のチームに敗北し、必要な経験=敗北という関係が明確に描かれるが、これが成功なのか失敗なのかは、本人にすら分からないだろう。
「成功と失敗に統一的な概念がない」という視点で見ると、この本のタイトルもとても示唆的。
日本語題は「リーダーを目指す人の心得」。まるで、万人に共通する心得があるかのように見える。
しかし、英語の原題は "IT WORKED FOR ME In Life and Leadership"。コリン・パウエル自身は、「あくまで私ひとりには、この方法は有効だった」としか言っていない。
万人に共通して再現性があるサクセス・ストーリーなど無い、というのをよく表しているタイトルだと感じる。自分の言説の限界をしっかり認識し共有することは、「誠実」という言葉の一要素かもしれない。
市場価値
よく聞く言葉だが、統一的な概念があるのか?これも、測れるものではない。
対極にある概念として、「How Will You Measure Your Life?」の「経験の学校」モデルは分かりやすかった。以下は自分の文章だが、一応まとめ記事を作ったので良ければ参照してほしい。
[測れないもの3] 人や会社のパラダイム
パラダイムという概念
Paradigmとは、個人個人の価値観、視点、判断基準、背景、信念、、、などを表す言葉。パラダイムの重要性については、「7つの習慣」がすべてを語ってくれているのでこちらを参照のこと。
これも測定するのは不可能だが、人間のすべての行動・結果の裏に隠れている最重要な観点。
パラダイムの重要性について、例を2つ挙げる。どちらも、当然定量化できる概念ではない。
例1:「顧客が喜ぶためなら、何をしてもいい」というパラダイムが、企業と従業員でかみ合うと、働く意欲が大幅に上がる。
例2:「○○することが人のためになる」というパラダイムが、人と人でかみ合わないと、戦争が起こる。
現実でもよくあるはなし。戦記物でも定番。例えば↓のファイアーエムブレム風花雪月では、その嚙み合わなさを非常に明快に描き出している。
この世界の中では、「既存の秩序を壊すことが人のためになる」と考える集団と、「既存の秩序を守ることが人のためになる」と考える集団が登場するが、当然のようにかみ合わない。言葉を交わしたとしても、頭では理解しても心がついてこないので、結局理解されない。以下の2つのセリフは、それぞれの集団のトップの言葉だが、どちらの言葉も、完全にお互いの理解の埒外にあるのが悲しい。
パラダイムを失わせる組織
上記のとおり、パラダイムは価値観、信念、あるいは存在価値、生きる理由にもつながるものである。
組織のパラダイムと個人のパラダイムがかみ合えば、人のエネルギーは大きく増幅される。上記のザッポスの記事も参照。
一方、合わない組織に無理やり人を合わせるなどして、人のパラダイムを失わせると、人のエネルギーは失われていく。
完全にエネルギーを失った状態まで行かないと、遅刻回数・早退回数などには現れてこないため、エネルギーがどのくらい増えたか・失われたかは、当然明確には測れない。しかし、人のモチベーション、仕事の成果を考える上ではしっかり見ておかないといけない概念である。
完全にエネルギーを失った状態は、極度の栄養失調による衰弱状態と同じように、「marasmus」と呼ばれている。
上記の本で挙げられていた、人のパラダイムを失わせる観点は以下の4つ。
1. 密告により、同僚への信頼を失わせる
2. 同僚の前で自己否定を繰り返させることにより、自分への信頼を失わせる
3. 軍隊の価値観を打ち砕くような所内規則に従わせることにより、上官および信じてきた価値観への信頼を失わせる
4. 故郷からの「心の支えになる」知らせは伝えず、「気落ちさせる」知らせはすぐ伝えることにより、家族や故郷への信頼を失わせる
。。。。。。
現代の企業の中でも、起こっているのではないか?
辞めた人の陰口を言う。制度の運営がうまく行っていないとき、責任者一人のせいにする。
人事考課で、良かった点はさっさと飛ばし、改善するべき点を長時間にわたって議論する。
個人の事情、価値観、過去の学び、あるいは強みや適性を考慮せず、画一的に業務に割りつける。画一的な制度で制約する。
机の上に家族や伴侶の写真、お気に入りのぬいぐるみなどを置くことを一律で禁止する。
など。
自分が加害者にならないように気を付けるしかない。
上記の例は北朝鮮の収容所だが、ドイツのアウシュビッツ収容所について書いた「夜と霧」にも、類似の記述がある。収容所は明確に、パラダイムを失わせる≒反抗のエネルギーを削ぐことを目的にして設計されているため、共通する部分も多いのだろう。
一方で収容所に限らず、日常生活に「疲れた」職業人も同様のパラダイムの喪失・エネルギーの喪失を経験している可能性がある。これは、サン=テグジュペリの「人間の大地」にも類似の記述がある。
パラダイムを失わせる社会通念
「信じてきた価値観への信頼を失わせる」ことは、意図せずに起こる。
例えば、社会の常識として求められているパラダイムと、自分の核にあるパラダイムが矛盾した場合、それを「自分のパラダイムを守るための手段として、一時的にごくわずかに別のパラダイムに従う」と捉えればエネルギーは失われない (例:夜と霧) が、「自分のパラダイムを変えないといけない」と考えると、エネルギーが失われてしまう。これも、定量的に測定して対応できる問題ではない。
[測れないもの4] 人や会社の心の強さ
上で挙げた問題を回避するために必要な、心の強さとも、余裕とも、思いやりとも、風情とも、道徳とも、良識とも、分別とも言えるもの。どれも人の内側に隠されているもので、当然、直接測ることはできない。
分からないものを「分からないまま」とどめておける力
「パラダイムという概念」で参照したファイアーエムブレム風花雪月の世界の中には、「既存秩序を守る」集団と「既存秩序を壊して反対の秩序を作る」集団のほかに、「既存秩序を壊してより広い世界を見せる・混沌を生む」ことを目指す第三の集団が存在する。
「より広い世界を見せるだけ・混沌を作るだけ」と書くと単純そうに見えるうえ、他の2つの集団よりもノリが軽いようにも見える。
一方で、人々に要求する思考のレベルは、むしろ一番高い。
「今までの世界観に無いもの、良く分からないものの存在を認めた上で、頭から消し去らずに、そのまま混沌の状態でとどめておく」ことは、とても面倒で重い思考を要する。
こちらのブログがとても詳細かつ丁寧な解説をしてくれているので、リンクをペタリ。
答えを決めつけず、よりよい解を探し続ける作業は、とてもとても負荷がかかる。そして周りには理解されない。既存の社会で生きていくうえでは、むしろ無駄な労力に見える。
一方で、それが役に立つときもある。「原因療法と対処療法」のA3も同じだが、たとえばこちらの絵本も参照。「不十分な情報で答えを決めつけないこと」の重要さを伝えてくれている。
自分のことだけで溺れず、周りを見渡せる力
周りを見渡す力、あるいは余裕は、定量的に測れるものではない。そのため、日々意識しておかないと、簡単に見失ってしまう。
例えば、頭では「人を助けることが大事」といくら理解していても、時間的制約に追われていると人を助けなくなるという実験結果が示されている。
他にも、自分に心の弱さがあってその対処に追われている場合にも、周りを見渡す余裕が無くなってしまう。
刺激と反応の間に一拍おく力
上記2つ、「分からないままとどめておく力」、「周りを見渡す力」は、両方とも、「外部から与えられた刺激とそれに対する反応の間に一拍置く力」とも言い換えられる。
特に工業社会においては、① 刺激と反応の関係は、(人によらず)できるだけ一対一であること、② 刺激と反応の間は、(人によらず)できるだけ短いこと、が望ましいと考えられている。これは、大量生産式の社会では、常に同じように素早く反応する、属人性を排除した機械の方が扱いやすいためでもある。
そのため、その間にあえて一拍置くのは、方向性としては逆であり、従来の流れに逆らうための強い意志力が必要になる。…..当然、これも目に見えるものではない。
心の弱さに振り回されない力
「意志力」という言葉が出てきた通り、これらの考えを突き詰めていくと、自らの心に余裕があるか、自分の弱さに振り回されない力を持っているかという観点に収束していく。
名馬ミホノブルボンの調教師、戸山氏が、とても突き詰めた文章を書かれていたので引用する。
また、心の弱さのもう一観点として、「エネルギーを失った状態にとどまり続けたがる、弱い状態にい続けたがる」という弱さもある。
自分が世のために貢献するという姿勢
「心の強さ」の一例として、「自分が世のために貢献するという姿勢を持っているか」は一つ挙げられる。採用の時に、こういう姿勢を持っているかどうかを採用の条件にしたいと考えるのは、けっこう自然。
一方で、そもそも「姿勢」というものは、とても測りづらい。「あなたは自分が世のために貢献する姿勢を持っていますか?」「はい」で測れればラクだが、それはあり得ない。具体的な行動として現れた行為で間接的に測るしかないが、それでも測りづらいことに変わりはない。
具体的な指標をここで定義することはできないが、それを推測するためのいくつかの考え方は、過去の本を見るといくつか例がある。例えば、「自分にしか成し遂げられないことが、まだ残っている」という考え方を、ヴィクトール・フランクルが提示している。
また、アメリカのケネディ大統領の演説では「私が、国に、何ができるか」という考え方として言及されている。
この「姿勢」が明確に表れた例としては、桜井政博さんの「桜井政博のゲーム作るには」YouTubeチャンネルがある。黙ってこのチャンネルの動画256本を見るんだ。
自分よりも全体を優先するという姿勢
「自分が世のために貢献する姿勢」と少し似ているが、少し違う観点から。
「囚人のジレンマ」という有名な概念がある。
個人個人のプレイヤーが、自分の利益だけを最大化する行動を取り続けると、全体最適から遠ざかることがある、というもの。
これを避けるには、「自分の利益だけを最大化する」という姿勢を変えることが必要になる。
これも測れない「姿勢」であり、具体的な指標や事例を集めるのは難しい。
一例として、サイボウズでは、「会社は社員の利益を優先し、社員は会社の利益を優先する」という信頼関係をベースにしている。
上記インタビュー記事に、「(福利厚生は)権利を主張し始めたらやめる」という表現がある。とても良い考えかもしれない。お互いがお互いを優先するという信頼関係がベースにあるからこその福利厚生であって、それが失われたらもはやその制度に意味はないということ。仏教の三尺三寸箸と同じ。
今のボーイングのストと対比すると、その考えの重要性がわかる。。。
また、サウスウエスト航空では、技能より価値観を重要視して採用している。価値観については妥協しないため、採用率はとても低い。しかし、仕事について「天職(calling)」と回答できる社員を集めているとのこと。
ちなみに、ほぼ同様の話がプラトンの対話にも書かれていて、2400年前から人間はたいして変わっていないこともわかる。
自らを再構築できる力
「自分の力、余裕、姿勢、パラダイム、、、が、今のままではどうやら良くない」と気づいたときに、それを変化させられる力。「パラダイムシフト」や、「コペルニクス的転回」に対応する力、ともいえる。
今までの「姿勢」と同じく、測れない概念。
一方で、パラダイムシフトへの対応力があるかないかという問いは、「幽霊を信じない人にどうやってその存在を信じさせますか?」という問いと共通の問題を含んでいる。即ち、気付かないと、見えない。見えないと、気付かない。一度自分が吹き飛ばされる「何か」を得てからでないと、この力の存在に気付けない。
いくつか無理やり例を挙げるとすれば、学歴や賞の数、論文のインパクトファクタ―、特許の数を積み重ねることに邁進していた人間が、今までと全く違う環境に入って自分の価値観を見つめ直し、学歴を積み重ねること以上の価値を再認識するとか。
タイトル戦で自分より圧倒的に格上の相手と当たって自分の在り方を一から考え直し、より強い自分を再度目指すとか。
この「自らを再構築する力」は、個人だけではなく、企業にも「変化への耐性」という形で現れる。革命的な技術が出てきて業界の情勢が一変したとき、それを受け入れて自らを作り変えられるかどうかの境目になる。
1990年代、「PC」の登場によってコンピュータ産業が激変したときに、対応できた企業とできなかった企業の差もここにあると思われる。インテルCEOアンドリュー・グローブの文章を引用する。
Googleや先進的な企業で導入されている「10%ルール」の真の意味はここにある。「10年後、10xの変化が起こった際に、我が社を救うに足る切り札となり得る事業を、今から10%の時間を割いて育てておけ」ということ。決して、従業員の福利厚生のためではない。
終わりに
「測れないもの」について列挙しつつ、考えをまとめてきた。
この記事を作った理由の一つは、自分自身が大きな価値観の変動を経験し、「測れないもの」への尊敬を新たにしたため。
大学生時代は得られなかった気づきが得られるようになり、自身の成長(?)を実感する。
もう一つは、上記の「価値観の変動」自体が、「確実に変わっているのだけれど、それをうまく言葉にできない、測れないもの」だと感じたため。
「適応障害の経験を通して何を学びましたか?」と言われても、何%変化したとも、再現性が何%あるともうまく説明できるものではない。それでも、確実に変わっている。
それを説明したいと考えたのが、この記事を書いた本当の理由かもしれない。
社会生活においても、順風満帆に行っているときには「全てを定量化し、測り、効率化する」で問題はない。
しかし、ひとたび逆風が吹いたときに抵抗するためには、今まで挙げたような「測れないもの」が重要になるのではないか。
トラブル時に、相手を信頼できるかどうか。
自分にストレスがかかったとき、他人で発散する誘惑に勝てるかどうか。
美味しすぎる話が出てきたときに、騙されないかどうか。
焦らず、一歩ずつ学んでいく。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。