【小説】上海老人交流会
小さい頃にニュース映像で見た上海の街並みに、純朴だった少年の私の心は見事に惑わされた。
それから六十年。私は上海へのあこがれを胸に抱きながら生きてきた。長期の休みがあれば欠かすことなく上海へ足を運び、上海になじみの店が何軒もできた。私の家、一人で自由気ままに暮らすその家には、上海ゆかりのものが所狭しと飾られている。
しかし、あれだけ愛してやまない上海にすべてをささげる、私の理想としていた素晴らしい生活を送っている半面、私の心にはどこか空虚な穴が開いていた。
その穴の理由は私にはよくわかっている。
この素晴らしき生活。その素晴らしさを共有できる相手がいないということだ。
私自身この上海への愛情が、世間一般から見れば、いわゆる「異常」という範疇に含まれるのであろうという自覚はある。だからこそ、この私の中に六十年間消えることなくくすぶり続ける上海への愛情を「異常」という陳腐な言葉で矮小化されない、この愛情を真に共有できる仲間が欲しかった。しかし、私も平均寿命と同じ年になり、招かれざる同居人が体中を我が物顔で蝕んでいる。
私に残された時間はもはやゼロに等しかった。このまま上海への愛を抱えながら、しかしそれを誰とも分かち合うことなく孤独のうちに死んでいくのだろう、と。
そんな折、毎月欠かさず目を通している市報にこんな案内を見つけた。
『上海老人交流会
場所:西町公民館
九月二十三日(木)十三時より』
その案内を見つけた瞬間、私はこめかみに電流を流されたような衝撃を受けた。上海老人交流会。なんと甘美な響きであろう。上海老人というくらいだからきっと私のような上海をこよなく愛する老人が集まる会合なのであろう。きっとそうに違いない。
それからの私はと言うと、まるでサンタを心待ちにする五歳児のように、そわそわフワフワとした心持ちで九月二十三日が来るのを待っていた。
九月二十三日木曜日午後十二時五十分。
私は西町公民館の門前に立っていた。
この扉の向こうに、私がずっと求めていたものがある。私はこの先に待っている最上の幸福を夢想しながら勢いよく扉を開けた。
「あら、いらっしゃいませ、お待ちしてましたよ……。あれ? なんで、ニンゲンがここにいるんですか?」
扉の向こうで私を出迎えたのは、大きなエビだった。いや、正確に言うと、体は人間でありながら頭部はエビのそれになっている。さしずめ、エビ人間といったところだろうか。
と、冷静に分析しているようで、その実私はパニック状態に陥っていた。扉の向こうに最上の幸福が待っていると思ったら、実際に待っていたのはB級ホラーだったのだから。そしてわたしはその場にへたり、と座り込んでしまった。
エビ人間はそんな私を心配そうに(と言っても表情なんて分からないのだが)見つめている。
永遠とも思える沈黙ののち、奥の方からもう一匹エビ人間が現れた。
「ムタさん、もう準備終わりますよ。やや、なんでニンゲンがここにいるんですか?」
ムタさんと呼ばれたエビ人間は、その問いかけにおろおろしながら答える。
「それが、私にもさっぱりなんですよ。普通の人間ならここまでたどり着くことはできないはずなんですが……」
奥から現れたエビ人間は、ふむ、と言いながらあごをひと撫でし、私の方へ向き直った。
「初めまして、私はミギタ。この上海老人交流会の主宰をしております。あなたは、この集まりをどこで知ったのですか?」
ミギタ氏は穏やかな口調で私に問いかけた。そのエビ面から彼(彼女?)の感情は読み取れないが、少なくとも、悪意や敵意のようなものは感じられなかった。
私は緊張と恐怖でカラカラになった口を何とか動かした。
「あ、先月の市報に載っていて……。それで面白そうだなあと思ってですね……」
「なるほど。ところであなた、この上海老人交流会がどんな集まりかは分かっておられますかな?」
「いやあ、そもそも上海老人交流会ってどういうことですか? 私は、この集まりは上海老人交流会だと聞いて来たんですが」
ありのままの私の返答に、ミギタ氏とムタ氏は、まったく同じ表情をした。擬音をつけるならば、そう、ポカーンといったところだろうか。
しばらくその表情で固まっていた両氏だったが、やがてミギタ氏が、こらえられなくなったかのように笑い始めた。
「ははあ、なるほど。大体事情は分かりましたよ。ちょっと待ってくださいね」
そう言ってミギタ氏は、懐から紙とペンを取り出し、『上海老人交流会』と書いた。
「おそらくあなたは、この文字を上海・老人・交流会と区切って読まれたんですな。しかし、本当のところはですね、この集まりの正しい名前は上海老人・交流会、つまり、我々上海老人の交流会ということだったんですよ」
今度は私がポカーンとする番だった。
私の困惑が伝わってきたのか、ミギタ氏が言葉を続ける。
「まあ、突然こんなことを言われても困惑するのが当たり前でしょうね。この上海老人交流会は、普段ニンゲン社会に紛れて生活する上海老人たちが定期的に集まって交友を深める会なのです。ですので、普通のニンゲンは参加する資格がないのです。そろそろ会も始まりますので、今のうちにご帰宅ください。くれぐれも他言無用でお願いしますね」
ミギタ氏はそう言うと、ムタ氏に何事か指示をした。指示を受けたムタ氏は、私の手を握り入り口まで連れていこうとした。
あと一歩で公民館の外へ出ようかというところで、ふとムタ氏が立ち止まった。
「そう言えば、このお爺さん、なんで私たちの言葉を翻訳機なしで聞き取れることができたんでしょうね」
ムタ氏がそう言うや否や、ミギタ氏があり得ないほどのスピードで、外へ出ようとする私たちの前へ立ちふさがった。
「ムタさん、その話って本当ですか」
焦ったような声色でミギタ氏はムタ氏にそう問うた。
「え、ええ。私も今気が付いたんですが。翻訳機のスイッチを入れ忘れてまして……」
なるほど、とつぶやいたまま、ミギタ氏はしばらく考え込むように押し黙った。
やがてミギタ氏は顔をあげ、私をまっすぐに見つめてこう言った。
「すみませんが、事情が変わりました。あなたをご自宅へ帰すことはできません」
全く事態が呑み込めない私を見つめたまま、ミギタ氏は話を続ける。
「あなたには上海老人の才能があります。そして一目見たときにすぐわかりました。あなたの命が残りわずかなことも。上海老人になれば寿命が延びる、というわけではありませんが、あなたの心の奥底にある上海への愛情を違った形で叶えることができるかもしれません。ぜひ、私たちの仲間になってはいただけないでしょうか」
熱っぽくそう語るミギタ氏に押され、私は気が付くと首を縦に振っていた。
まあいい。どうせ残り少ないこの人生。これくらいのハプニングに巻き込まれるのもまた一興というものだろう。そして何より、ミギタ氏の言う『上海への愛情を違った形で叶える』ということにも興味があった。
ムタ氏に手を引かれながら、私は公民館への奥へと導かれていった。
◇
上海の中心部からやや外れたところにある料理店。そこの一室で老婦人と初老の男性が向かい合って談笑していた。
「今日もお料理とってもおいしかったわ。特に前菜の油爆蝦。いつもの海老よりも、なんていうか違った感じがしてとっても良かったのだけど。あれは特別なものを使ったりしたの?」
「ええ、そこに気が付かれるとはさすがですね。あの海老は日本でとてもとても長い年月を生き、自ら望んでここにやってきたそうですよ。ええ、ええ、そうですとも。長い年月を生きた海老は、とっても肉質がいいですからね……」
(2022年9月執筆)
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