
未完成ではなかったのか?丸谷才一『持ち重りする薔薇の花』
〇丸谷才一を読む〇
未完成ではなかったのか?
丸谷才一『持ち重りする薔薇の花』

■丸谷才一『持ち重りする薔薇の花』2011年10月25日・新潮社。
■長篇小説。
■全5章、199ページ。
■初出 『新潮』2011年10月号。
■2023年5月14日読了。
■採点 ☆☆☆☆☆。
目次
1 これは評価に値しない
あたかも彗星のごとく、およそ10年に一回発表される丸谷才一の長篇小説を、『裏声で歌へ君が代』からリアルタイムで手に取って来た。そこから遡行して、一部の短篇小説以外の小説も全て読んできた。
丸谷才一の長篇小説
題名
刊行年
ページ数
①
『エホバの顔を避けて』
1960年
不明
②
『笹まくら』
1966年
文庫367ページ
③
『たった一人の反乱』
1972年
501ページ
④
『裏声で歌へ君が代』
1982年
511ページ
⑤
『女ざかり』
1993年
436ページ
⑥
『輝く日の宮』
2003年
434ページ
⑦
『持ち重りのする薔薇の花』
2011年
199ページ
ところが、今作については、偶々、何か理由があってパスしているうちに、もうかれこれ12年も過ぎてしまい、今般、これまた、偶々手に取る機会があったので、通読してみた。
正直に言えば、これは評価に値しない。
引退した財界の大物の見知った弦楽四重奏楽団の閲歴や、それに関わる、様々な人々の愛慾渦巻く人間模様を、旧知の元編集者に語る、という体裁を取る。財界の大物は関係者が全員死んでからの発表を聞き役の元・編集者に約束させるが、確かに名誉棄損の訴えの恐れはあるが、内容的に、そんなもったいぶったようなことはない。有体に言えば、まあ、よくある話だ。
もしかしたら、丸谷の年齢相応の一般読者向けに、主人公に芸術通の財界の大物を据えたのであろうか。音楽や、音楽業界、プロの演奏家たちや、あるいは財界の裏話など、種々蘊蓄が語られる。別にそれが悪い訳ではないが、ただ、それだけのことである。
2 長篇小説・評価の基準
揚げ足を取るのはいい趣味とは言えないが、まあ、仕方がない。丸谷は、あるところで、長篇小説を評価する基準、手掛かりになる三つのものとして、「①作中人物、②文章、③筋(ストーリー)」を挙げている*[1]。結論から言えば、この3条件のいずれもクリアしているとは言い難い。
「①作中人物」というのは、言わば、劇画原作者・小池一夫が言ったとされる「キャラが立っている」かどうか、ということであろう*[2]。普通に言えば、魅力的な人物かどうか、ということである。わたしの言い方では「徳(アレテー)」があるか、ということである。いずれにしても人間的な面白みのない登場人物が出てくる、小説を読んだり、映画を観たりすることほど苦痛はない。これは日常の生活でも同様のことである。
本作の登場人物には、さほど魅力を感じなかった。あるいは読者によるのであろうか。強いて挙げれば、財界の大物の後妻となる女性が魅力的と言えば言えるのではあるが、ぱっと出て、すぐに姿を消してしまう。残念だ。
「②文章」は一旦措いておいて、先に「③筋(ストーリー)」について触れるが、具体的な一つ一つのエピソードは重いものもあるが、通してみると、どうだろうか、或る、弦楽四重奏団の結成と解散の間の、いろいろな人間関係のもつれ、というような話なのだが、これといって、新味があるとも思えない。むしろ、ストーリー的には見るべきものがないと言ってもよい。
しかし、そうは言っても結局のところは、「②文章」、文体、もう少し間口を広げて言えば、文学的な方法論、ということになるのだろうが、これについては、いつもの丸谷節が健在と思わせておいて、いささか腰が砕けてしまったのではないか。
たとえば、開巻、冒頭の下りは良い。期待を持たせる書きぶりだ。だが、それが続かない。冒頭は、元・編集者が財界の大物にインタヴューを申し入れに、大物の屋敷の応接間を訪れる下りであるが、実は、その部屋が荒れている描写から始まる。極めて印象的に、意味深げに書かれているが、もちろん、そこには意味はあるのだが、何か物語全体を占うような、あるいは謎解きするようなことではない。少なくともわたしにはそうしか読めなかった。
財界の大物の語りを元・編集者が書き取る構成になっているので、全体として語りの文体が続く。これがいささか芸がない、といったら失礼だが、冗長に感じる。
全体の構成、というのか、文学的な方法論についても、何かあるのかも知れぬが、わたしの読解力では読み解くことはできなかった。
恐らく、内容的に、弦楽四重奏楽団の履歴を、財界の大物が語るというのが、いささか無理があったのか。この話に何か具体的なモデルがあるのかどうかは分からぬが、要するに、リーダー格の第一ヴァイオリニストが、突如退団する。暫くして復帰する。そして、全盛期であるにも関わらず、突如引退する、ということの謎、その究明、解明に焦点を当てるべきではなかったか。
3 書き急いだのでは?
無論、文学作品に正解はない。作者・丸谷がこう書きたかったのだから、仕方がないのだが、気になるのは、少壮期はともかくも、出世作『たった一人の反乱』から、およそ10年に1回の期間で発表されていた長篇小説の刊行が本作は中8年というスパンで刊行されている点、従来の長篇小説と比べて、いささか枚数が少ない点。また、本作刊行の1年後に、作者がこの世を去ったことを考えると、いささかならず、書き急いだのではないかと思われる。ということは、あるいは、本作は未だ熟していなかったのかも知れぬが、死期を悟った小説家の振舞を誰が責められようか。
4 「社会」を描くというテーマ
丸谷は挙げていないが、更にこれら3点に加えて、「④テーマ」があると思う。丸谷は本作に関するインタヴュー*[3]に応えて、本作で弦楽四重楽団を題材として選んだ理由として、「社会」を書こうとしたという内容のことを述べている。さらに、近代日本文学が間違っている理由として「社会がない」ということを述べている。確かに、四重奏団は四人四色のそれぞれの個性がある。しかし、それなりの音楽教育を受けて、演奏家として自立している4人のどこに社会が存在するのであろうか? この話を語り、聞き書きをしている財界の大物と元・編集者にしても、それなりの個人的な苦労はしているものの、社会的には成功者の部類に属する。社会的成功者の人生や人間関係を描く(描けているとは思えないが)ことが「社会」を描くことなのであろうか。
例えば、わたしが、小説の中の「社会」ということで想起するのは漱石の『明暗』に登場する「小林」なる、言わば「闇落ち」する人物だ。彼は主人公・津田とは階層も思想も違う。彼は津田に難癖をつけて、ロシアに、まさに落ちようとする。津田と小林は分かり合えない。しかし、これが社会というものではないのか。
「社会」というテーマを掲げて、弦楽四重奏団を題材にする、というのが、どうも、そもそもありなのか疑問に思う。
5 題名について
付け足しではあるが、題名『持ち重りする薔薇の花』について。「花」が単数になっているが、一本の薔薇の花が重いだろうか、との疑念を呼ぶ。この薔薇は題材とする弦楽四重奏団のクヮルテットを意味する。「クヮルテットというのは四人で薔薇の花束を持つようなものだな」*[4] と作中人物が述べるのだが、つまりそれほど、 弦楽四重奏団を維持するのは繊細にして、労が大きいとの謂いだが、であれば、やはり「花束」、「花々」でなければいけない。
そもそも、この題号は七・五調になっているが、どうも音調の坐りがよくない。「持ち重りする薔薇の花束(あるいは「花々」)」と七・七とすれば、一応収まる。何か意図があるのであろうか。
6 全くの余談
更に、全くの余談、というよりも見当外れのことだろうが、弦楽四重奏団のリーダー格の厨川はヴァイオリニストにして、現代思想にも精通するという。理路整然と話すためか、「プロフェッサー」と通称される。
と、くれば、内外から「教授」と愛称され、先日物故した音楽家・
坂本龍一を想起する。坂本の女出入りについては巷間よく知られていることだが、本作では、それについては、他の登場人物に託されている、というか、ま、関係ないか。
以上、お後がよろしいようで。
主要参考文献
夏目漱石. (1917年). 『明暗』. 岩波書店.
丸谷才一. (2011年). 『持ち重りする薔薇の花』. 新潮社.
丸谷才一, 湯川(聞き手)豐. (2010年). 『文学のレッスン』. 新潮社.
湯川豐. (2016年). 『丸谷才一を読む』. 朝日選書(朝日新聞出版).
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3,635字(10枚)
20230514 2057
*[1] [丸谷 湯川, 『文学のレッスン』, 2010年]p.46。
*[2] 出典不明。
*[3] [湯川, 2016年]pp.201-202。
*[4] [丸谷, 『持ち重りする薔薇の花』, 2011年]p.148。