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吾輩は犬ではない。名前はまだない。「誰でもない」からだ。 ――柳瀬尚紀 『ジェイムズ・ジョイスの謎を解く』を読む

謎々『ユリシーズ』その12のための長い脚注

 

吾輩は犬ではない。名前はまだない。「誰でもない」からだ。

 

柳瀬尚紀 『ジェイムズ・ジョイスの謎を解く』を読む

 

 

📌ここがPOINTS!

① 柳瀬による、ジョイス『ユリシーズ』第12挿話の「語り手」=「俺」=犬説は肯定できない。

② むしろ、問題にすべきは「俺」に固有名がないことではないのか。

③ 同様に、固有名のない「市民」が「誰でもある」のに対して、「俺」は「誰でもない」のだ。

 

 

 

 

 

■柳瀬尚紀 『ジェイムズ・ジョイスの謎を解く』1996年1月22日・岩波新書。

■長篇評論(現代アイルランド文学)。

■全7章(序章含む)、あとがき 229頁。

 

夏の思ひ出――前夜祭(アンテ・フェストゥム)に

 

 皆様、お疲れ様です。夏休みはいかがでしたか?

 6日間あった夏休みの間、わたしは基本的にはずっと家にいて、この原稿を書いていました( ノД`)。そもそも単なる感想文なので半日もあれば書き上がるはずだと思っていたところ、どういう訳か、鬼神に、いや亡霊にでも憑りつかれたように、書けども書けども、終わらないじゃないですか。結局6日間これに掛かりきりになり、いや、それでも終わらず、他の読書なり、ノート作りなどが全くできないので、途中ではありますが、一旦止めにします( ノД`)。

 実はこれも、或る種のジョイス沼です。酷いです。全く。

そもそも、このブログでは何回もご紹介してきた有志の研究者の皆さんによるon lineの講義『22Ulysses――ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』への招待』の第12挿話の回への予習の一環で、この柳瀬さんの著書を読んでみたのが、ことの発端でした。

 ところが、こういう有様なので、12挿話への予習も不十分なまま、講義に臨む羽目になり、更に2週間後に第13挿話の講義があったのですが、本文こそ読んではいましたが、こちらも、とても予習まで手が回らないという、一体全体、何をしているのだ、という自分を罵倒しても、どうにもならないという散々な状況となったのです。

 ま、そんな訳なので、直したい箇所や、追加したい箇所も複数ありますが、仕事にも差し支えるので、一旦UPすることと致します。つーか、大体、途中で放り投げることが多いので、これはもう仕方がないと諦めるしかないですね( ´∀` )。

とりあえずの足跡を残しておく、ということになるでしょうか。

 

 

 

 

 


【凡例】

・『ユリシーズ』からの引用は集英社文庫版による。鼎訳・文庫・巻数・ページ数で示す。単行本からの引用は、鼎訳・単行本・巻数、ページ数で、柳瀬尚紀訳からの引用は、柳瀬訳・ページ数で示す。また、英語原文はwebサイト『Project Gutenberg(プロジェクト・グーテンベルク)』(Ulysses by James Joyce - Free Ebook (gutenberg.org))によった。

・『新英和中辞典』(研究社・電子版)はwebサイト「weblio」からの引用であり、以下「新英和」と略記し、最終更新日、閲覧日については省略する。一般的な訳語についての語註は「weblio」の見出しから取り、「weblio」と表記する。

・綿貫陽、宮川幸久、須貝猛敏、高松尚弘、マーク・ピーターセン『徹底例解ロイヤル英文法』改定新版・2000年・旺文社からの引用は「ロイヤル」と略記する。

・引用文の傍線(下線)、傍点の類いは何の断りもない場合は引用者によるものである。

 

目次

夏の思ひ出――前夜祭(アンテ・フェストゥム)に.. 2

【凡例】.. 3

1 看板に偽りあり. 5

2 幾つかの問題点.. 7

3 「俺」は本当に「犬」なのか?. 8

4 「collector」とは何か?. 12

5 「our friend」とは誰なのか?. 15

6 「Drinking his own stuff?」の主語は誰なのか?. 18

7 3パイント目はバーテンへの奢りなのか?. 21

コラム tea for one ~ディグナムの「亡霊」~... 24

8 ガリーオウエンの飼い主は誰なのか?. 28

9 そもそも「俺」は誰なのか?. 33

10 中間報告.. 35

11 固有名の問題①――丸谷才一「あの有名な名前のない猫」. 35

コラム tea for one ~丸谷才一『闊歩する漱石』~... 36

コラム tea for one ~村上春樹初期作品の無名性~... 40

12 固有名の問題②――江藤淳「名前のない猫」. 43

13 固有名の問題③――柄谷行人「固有名をめぐって」. 49

コラム tea for one ~「ディドロとルソー 内在と外在」~.... 53

結 語 その1. 55

結 語 その2. 57

あと(ポス)の(ト・)祭り(フェストゥム)に.. 59

コラム tea for one ~柳瀬尚紀 ジェイムズ・ジョイス関係の本~.... 60

【主要参考文献】.. 61


図 1  一般と特殊性・単独性... 49

図 2 私とこの私... 50

図 3 「市民」と「俺」の対比... 57

 

1 看板に偽りあり


 本書はいささか看板に偽りありと言わねばならない。必ずしも「ジェイム

コラム ☕tea for one

 

 

~柳瀬尚紀 略歴~

 

柳瀬 尚紀(やなせ なおき、1943年3月2日 - 2016年7月30日)は、日本の英文学者、翻訳家、随筆家。

 

北海道根室市出身。1970年に早稲田大学第一文学部卒業、同大学院文学研究科博士課程。1977年に成城大学助教授、1991年に辞職。

ジェイムズ・ジョイスの作品で、翻訳不可能と言われた『フィネガンズ・ウェイク』を独自の造語を用いて翻訳したことは話題となり、日本翻訳文化賞受賞、BABEL国際翻訳大賞・日本翻訳大賞受賞。『ジェイムズ・ジョイスの謎を解く』(岩波新書)では『ユリシーズ』12章の語り手が犬であるという新説を打ち出した。

『ユリシーズ』訳を継続中のまま、2016年7月30日に肺炎のため没したが、同年12月に『ユリシーズ 1 - 12』(12章まで)が刊行された。2017年7月に刊行された『ユリシーズ航海記――『ユリシーズ』を読むための本』(河出書房新社)には、「ユリシーズ 13 - 18 試訳と構想」という一章に、未刊に終わった第13章から18章の試訳(一部は断章)が掲載された。

(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より援引)

 

📖

ズ・ジョイスの謎を解」いている訳ではなく、その代表作『ユリシーズ』第12挿話の「語り手」=「I」/「俺」は「犬」であるとした、第12挿話「キュクロプス」についての詳細な読解にほぼ終始している。したがって、題名は『ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』第12挿話の謎を解く』が妥当ではあると言うべきだが、それが新書の題号としては長過ぎる、あるいは訴求力に欠けると言うのであれば、帯のキャッチ・コピーのままに「吾輩は犬である」でもよかったように思う。

 題名の問題は措くとしても、内容的には、これはこれで潔い。語り手が犬であるとの主張を論証するには、――論証できているかは別の問題だが、新書200ペイジ分ぐらいは確かに必要かも知れない。

 むしろ、この方が、ジョイスだから、と言うことかも知れないが、ジョイスそのものの面白さ(ジ)、(ョ)愉しさ(イ)が、初読者にも伝わろうというものである。

 要は、ジョイスを読むのに莫大な知識は必要としない*[1]。そうではなくて、柳瀬がそうであったように、ジョイスのテキストを面白がる姿勢こそ肝要だったとは言い得る。

 

2 幾つかの問題点


  ただ、幾つか問題がない訳でもない。

①  そもそも「語り手」=「I」/「俺」には何故、固有名がないのか? それはまた裏表の問題として、本挿話の中心人物たる「the citizen」/「市民」にも何故固有名がないのか、という問題が問われていない*[2]。その伝で行けば、「I」/「俺」が「犬」なら、「the citizen」/「市民」だって犬かも知れないのだ。犬つながりで言えば、「市民」の「愛犬」と目されるガリーオウエンには、では、何故固有名が与えられているのか?  そこも整合性が取れていない。この固有名を欠いた人物が登場することの意味をこそ問うべきであった。

②  と、考えてくれば、果たして、「語り手」=「I」/「俺」は「犬」なのであろうか?

③  また、「語り手」=「I」/「俺」が「犬」であるとすることの意味、あるいはそう読むことで開かれる作品世界の可能性はどこにあるのだろうか?

④  文体、あるいは構成なり、方法論なりがジョイスのそれに拮抗していない。入門書だから仕方がないのか。あれほどの訳業を為した筆者の訳文の密度の濃さからすると、いささかならず薄味ではないか。失礼ながら、弛緩し切っていると言っても過言ではない。本書・第5章では、「語り手」=「俺」=「犬」になり切って書いているが、残念ながらここも不徹底の感が残る。 

 

3 「俺」は本当に「犬」なのか?


さて、それでは、本書の根幹である②「俺」は本当に「犬」なのか、という問題を検討してみよう。

要は、「I」/「俺」と、「相棒」であるJoe/ジョウとの「会話」が成り立っているのか、いないのか、どっちなんだい? ということになるが、柳瀬も述べているように動物を飼っている人であれば多かれ少なかれ、動物と多少のズレ(いや、動物たちからすれば相当のズレ)はあるかも知れぬが、確かに普通に動物たちとしゃべっているのだ。わたしなどで言えば、散歩中の他所んちの犬たちは別としても、路上で遭遇した犬やら猫やらには軟派するのが常である。「ねーねー、どこ行くの?」とか、「君は誰だい?」とか、「俺んち来ないか?」とか。

いずれにしても、「語り手」=「俺」=犬説は動物好きの人間からすると分らぬでもない。まー、そうかも知れない、とも思う。

かと言って、現実問題として、酒場の片隅で、柳瀬が書いているように「わん、キャン。わんわんうー?」*[3]と吠えられたら途端に追い出されるだろうが、実際に「語り手」=「俺」が犬だとすれば、少なくとも酒場の中では、実際にはこんなに大げさには吠えてはいないだろう。

「語り手」=「俺」=犬説を否定する人々は、仮にそうだとすると彼らの会話が噛み合わなくなるではないかと一蹴するが、そもそも、彼らの会話は端っから噛み合っていないのだ。「語り手」=「俺」が犬かどうかは措くとしても、最初から、酒場の酔っ払いの談笑(断章?)のように、好き勝手に己の思うところを放言しているに過ぎない。

しかしながら、もし、柳瀬の言うように「語り手」=「俺」が犬だとすると、やはりおかしなことが生じるのは事実だ。要はこういうことだ。犬の方は多分、人語を解するのであろう*[4]。しかし、ジョウの方は犬語を何となく、適当に、自分の思ったように解釈することになるので、犬の発言に「新情報」、「未知の情報」が含まれている場合、それの具体的な内容はジョウには分らぬはずだ。

例えば、次の箇所だ(翻訳は一応「公正」を期すために(?)丸谷他訳から引用し、適宜柳瀬訳も参照することとする)。

 

—What are you doing round those parts? says Joe.

—Devil a much, says I. There’s a bloody big foxy thief beyond by the garrison church at the corner of Chicken lane—old Troy was just giving me a wrinkle about him—lifted any God’s quantity of tea and sugar to pay three bob a week said he had a farm in the county Down off a hop-of-my-thumb by the name of Moses Herzog over there near Heytesbury street.

—Circumcised*[5]? says Joe.

( [Joyce, 2003/07/01up]p.657)

 

――おめえ一体こんなとこで何してたのさ? とジョーは言う。

――何してもかにしてもいるもんか、とおれは言う。そこのチキン小路の角の守備隊教会のそばに糞ったれの泥棒狐が住んでいて――こん畜生のことでトロイ爺はおれに知恵を貸してくれたわけだが――この野郎はダウン州に農場を一つ持ってるなんて言いふらして、あっちのヘイツベリ通りの近くに住んでるモーゼズ・ハーゾッグてえ一寸法師から、茶と砂糖をしこたま巻きあげやがったんで、毎週三シリングずつ払わせることにしたんだ。

――割礼野郎だな! とジョーは言う。

( [ジョイス, 鼎訳, 1922年/96年-97年/2003年]文庫第Ⅱ巻p.282)

 

つまり、「――おめえ一体こんなとこで何してたのさ?」とジョウが言って、それを受けて、「語り手」=「俺」=犬が「ワン、ワン、キャン、キャン」と吠えたとすれば、それは当然、「〇〇していた」と犬は答えていると想定されるだろう。したがって「ああ、そうかい」とか、「そりゃご苦労なこったい」とでもジョウは答えそうであるが、突如、新情報「割礼野郎だな!」と答えているのだ。流石に、犬が吠えている内容から「割礼野郎」すなわち、「ユダヤ人」の情報を読み取るのは相当な犬好きの人でもなかなか至難の業と言わねばならない。当然のことながら、このユダヤ人は「語り手」=「俺」が述べた「糞ったれの泥棒狐」のことである。

 同様に次の箇所もおかしい。

 

—Circumcised? says Joe.

—Ay, says I. A bit off the top. An old plumber named Geraghty. I’m hanging on to his taw now for the past fortnight and I can’t get a penny out of him.

—That the lay you’re on now? says Joe.

( [Joyce, 2003/07/01アップロード]p.657)

 

――割礼野郎だな! とジョーは言う。

――そうとも、とおれは言う。頭のところをちょっぴりって次第よ。ゲラティっていう、おいばれの鉛管工が相手でな。これで二週間あん畜生にかかりきりだが、一ぺニーだって取れやしねえ。

――それがいまのおめえの稼ぎかよ、とジョーは言う。

( [ジョイス, 鼎訳, 1922年/96年-97年/2003年]文庫Ⅱ巻p.282)

 

 明らかだが、ユダヤ人の話をした後、何か犬が吠えるが、それに対して、「それがいまのおめえの稼ぎかよ」と問いかける。野良犬であろう「俺」=「犬」にとっての「稼ぎ」とは食い扶持のことであろうから、その辺りの路上に落ちていた生ごみか何かを「俺」=「犬」が、がっついているのを見て、「それがいまのおめえの稼ぎかよ」と言ったとも考えられるが、そうとも読めるというレヴェルの話であって、確証はないし、普通に考えれば、話が跳び過ぎだと言わざるを得ない*[6]

さて、以下論証を省くが、今述べたこととほぼ同様であって、普通に読めば、「語り手」=「俺」が実際の犬であるとするのは、いささか無理があると言えよう。

だが、結論を急がず、柳瀬の所論に従って検討を進めることとしよう。

 

4 「collector」とは何か?

 

柳瀬は「俺」が人間ではない「根拠」として、「俺」が自らの職業として表明する「Collector of bad and doubtful*[7] debts*[8]」*[9]/「焦げつきや滞りの取り立て業」*[10]を挙げている。いや、逆ではないのか。「俺」が人間である「根拠」として、「俺」が自らの職業として表明する「Collector」/「取り立て業」を挙げている、と言うべきではないのか。しかし、柳瀬はそうは言わないのだ。「この《Collector》が人間であると判断する根拠は、まったくない。」*[11]と断言する。

冗談で動物でもcollect(収集)するのだ、と言っている*[12]が、それはさておき、その根拠の展開はこうである。第1挿話でバック・マリガンが口にする「the collector of prepuces*[13]」*[14]/「包皮蒐集(しゅうしゅう)家」*[15]/「包皮の取立屋」*[16]がそれである。「包皮」を「蒐集」、「包皮」を「取り立てる」?  一体、「包皮蒐集家」とは何だろうか。第9挿話に至って、それが明らかになる。

皮肉屋、あるいは毒舌家マリガンはたまたま図書館ですれ違った、ユダヤ人だと周囲から思われているブルームについてこう言及する。

 

—Jehovah*[17], collector of prepuces, is no more.

( [Joyce, 2003/07/01up]p.449)

 

包皮蒐集家エホバ、いまやなし

( [ジョイス, 鼎訳, 1922年/96年-97年/2003年]文庫第Ⅱ巻p.54)

 

 つまり、「ユダヤ教徒の割礼の習俗にふれて、ブルームをエホバ神に重ねているわけだ。(中略)マリガンに言わせると、エホバは「包皮のコレクター」、「包皮の取立屋」だということになる。」*[18]。なるほど、それは分かる。問題はこの後である。柳瀬はこう言うのだ。

 

ここでも《collector》という語が、 人間の取立屋でないことに注目したい。〈dog〉が〈God〉の逆さ綴りであるのを合せて考えると、《collector》という語は、犬を人間のレべルに引き上げる使い方をされ(またしても犬に申し訳ないが)、神を人間のレベルに引き下げる使い方をされていることがわかる。

( [柳瀬, 『ジェイムズ・ジョイスの謎を解く』, 1996年]p.36)

 

したがって、柳瀬は「取立屋イコール人間という速断は、脆くも崩れよう。」*[19]というのだが、どうしてそうなるのだろうか。マリガンが「神エホヴァ」のことを揶揄的に「the collector of prepuces」/「包皮の取り立て屋」と呼ぶのは分かる。また「〈dog〉が〈God〉の逆さ綴りである」というのもまあ、分かる。しかしながら、だからと言って、この「collector」/「取立屋」が、人間でなく、犬であると、何故言えるのであろうか?

さらに、柳瀬はこうも言う。「〈俺〉が犬であるなら、「トロイ爺公」*[20]も犬であることはまず確実だ。」*[21]という訳だが、これは証拠不十分であろう。というよりも証拠は全くない。仮定を根拠にすることはできない。

 

 5 「our friend」とは誰なのか?

 

 さて、ジョウと「俺」は路上での立ち話を経た後、酒場に行こうぜ、ということになる。そのくだりである(番号と下線は引用者)。

 

—①What about paying our respects to our friend? says Joe.

—②Who? says I. ③Sure, he’s out in John of God’s off his head, poor man.

—④Drinking his own stuff*[22]? says Joe.

—Ay, says I*[23]. Whisky and water on the brain.

—Come around*[24] to Barney Kiernan’s, says Joe. I want to see the citizen.

( [Joyce, 2003/07/01up]p.660)

 

――①おれたちの友達に敬意を表して一杯やるってなあ、どうだい? とジョーは言う。

――②誰のことだね? とおれは言う。③ああ、あいつなら気がふれて、神のヨハネ病院にはいっているぜ。かわいそうによ。

――④てめえの小便を飲んでるのかよ? とジョーは言う。

――そうとも、とおれは言う。脳水わり腫てえわけだ。

――バーニー・キアナンの店へ行こう、とジョーは言う。市民に合いてえや。

( [ジョイス, 鼎訳, 1922年/96年-97年/2003年]文庫第Ⅱ巻p.284)

 

まず「our friend」/「おれたちの友達」とは一体誰なのか、という問題が浮かぶ。そのまま読み進めて行けば「Come around to Barney Kiernan’s, says Joe. I want to see the citizen.」/「バーニー・キアナンの店へ行こう、とジョーは言う。市民に会いてえや。」とジョウが述べているので、「the citizen」/「市民」のことなのだろうとは思う。果たしてそうだろうか? 例の如く、ここは会話が噛み合っておらぬが、「俺」に「Who?」/「誰のことだね?」とわざわざ言わせていることに注意する必要がある。つまり、この「our friend」/「おれたちの友達」とは一体誰なのか、ということをよく考えろ、とジョイス、あるいは「俺」ではない「語り手」が書いているのである。

これに関しては柳瀬はこう述べる。

 

「われらの友」とジョウがいっているからには、ジョウの頭には明確に特定の「友」がある。(中略)そしてまた、 「われらの友」を人間と速断する根拠も、 実は、 ないのだ。 (中略)「われらの友」の特定は、 ここではしないでおこう。というか、 ここまでの情報ではそれができない。

( [柳瀬, 『ジェイムズ・ジョイスの謎を解く』, 1996年]p.54)

 

「われらの友」は「our friend」/「おれたちの友達」のことだが、これでは人間ではない、と言っているも同然ではないか。つまり、本挿話に登場する人間以外のものと言えば、「市民」の「愛犬」たるガリーオウエンしかいないではないか? つまり、犬である「俺」に「our friend」である犬ガリーオウエンに会いに行こうぜ、とジョウは言っているのだと柳瀬は言いたいのであろう。

しばらくして、柳瀬はこう述べている。

 

そしてこの場合*[25]、〈俺〉とガリーオウエンは顔見知りの仲だ。それは[訳15]*[26]ですでに明らかである。 いや、もっと前の[訳11]*[27]で特定しなかった「われらの友」が、実はこのガリーオウエンにほかならない。〈俺〉を人間と思い込んでしまうと、ジョウのいう「われらの友」は人間でしかなくなる。 しかし〈俺〉を犬と見抜けば、「われらの友」が犬であって当然なのだ。

( [柳瀬, 『ジェイムズ・ジョイスの謎を解く』, 1996年]p.87)

 

いや、ちょっと待ってくれ。仮に「俺」が「われらの友」と言えば、そうかも知れない。無論、「俺」が犬であるという前提の下にだが。しかし、この場合はジョウが「われらの友」と言っているのだから、普通に考えれば人間のことであろう。いわんや、これから酒を呑みに行こうという場で、お犬様に会いに行こうなどと言うだろうか。ま、冗談で言った、という可能性はあるかも知れぬが。大体、ジョウは「市民に会いてえや。」と言っているではないか*[28]。いずれにしても「われらの友」が犬(ガリーオウエン)であると断定はできない。

 

6 「Drinking his own stuff?」の主語は誰なのか?

 

さらに、それを受けた「俺」の台詞「Sure, he’s out in John of God’s off his head, poor man.」/「ああ、あいつなら気がふれて、神のヨハネ病院にはいっているぜ。」の「he」/「あいつ」とは誰なのか、という問題が生じる。

さらに、それを受けたジョウの台詞「Drinking his own stuff?」/「てめえの小便を飲んでるのかよ?」の主語は誰なのか? また「his」/「てめえの」とは一体誰のことを指すのか? この辺りのことが実はさっぱり分からない。

まず、分かり易い方から見ていこう。

④「Drinking his own stuff? 」/「てめえの小便を飲んでるのかよ?」だが、無論「stuff」に「小便」という意味はない。直訳すれば「奴自身の中身を飲んでるのか?」というようなことになる。仮に「俺」が「犬」だとすれば、 「俺」の話はジョウには伝わっていない。したがって「おれたちの友達に敬意を表して一杯やるってなあ、どうだい? 」にほぼ連続して「てめえの小便を飲んでるのかよ?」と続くことになる。念のために繋げてみよう。

「おれたちの友達に敬意を表して一杯やるってなあ、どうだい? 」

「てめえの小便を飲んでるのかよ?」

これは変だ。もとの会話も奇妙だが、これは更に輪をかけて意味が分からない。そこで、柳瀬は二つの台詞の間に勝手に? (自由に?) 「それとも」を挿入してみる。「おれたちの友達に敬意を表して一杯やるってなあ、どうだい?  それとも(酒場には行かずに)てめえの小便を飲んでるのかよ?」と解釈する。さらに、この「小便」つまり「stuff」だが、これはその直前に出て来たモーゼス・ハーゾックというユダヤ人商人の「お茶」を指すのだという。

そのくだりはこうであった。「He drink me my teas. He eat me my sugars. Because he no pay me my moneys?」*[29]/「《あいちゅが、わちのお茶、飲んでる。あいちゅが、わちの砂糖なめてる。金はらわないから、理屈そうなるやないか》だとよ。」*[30]

この「お茶」だ。

したがって、柳瀬によればこの下りはこうなるべきだ。

「――われらの友を表敬訪問ってのはどうだ?」「――それともおまえは酒場へつきあわず、あのユダヤ商人が「わしの……わしの……」と、むき出しに所有を主張する紅茶でも飲んでいるか?」*[31]という意味で「やっこさんのナニでも飲んでるか?」*[32]となるという。したがって「Drinking his own stuff?」の主語は「俺」で、「his」は「モーゼス・ハーゾック」のことになる。

成程、話としては理解はできる。ああ、そうなのか、とも思う。しかし、むしろ、「俺」が「犬」でなければ、そのような可能性もあるやも知れぬが、柳瀬の言うように「犬」であるなら、「俺」の発言内容の取り分け三人称的内容、具体的内容、固有名に関わる内容はジョウには伝わらないだろう。とすれば、「俺」が話したハーゾックの「お茶」の話も伝わってはおらず、それを引き取って、「ユダヤ商人のお茶でも飲んでるか?」という具合には行くまい。

ここは単純に「酒場に行かねえなら、てめえ(自身)のション便でも食らってろ」と悪態を突いたと考える方が自然ではなかろうか? 

ここで、日本語では不自然なので( )内に入れた「自身」(own)だが、この「own」を柳瀬はハーゾックの強欲を示す「わしの…、わしの…」が「浮かぶ」*[33]と述べているが、そうだろうか? ハーゾックが、強い慾望を持ってか、どうかはいざ知らず、単に所有しているだけで「own」を使うものなのか?  むしろ柳瀬が軽々と退けている「酒場の主人がじきじきにこしらえた酒」*[34]の方がまだしも「own」の意味を伝えていると言うべきである。むろん、この箇所は先に述べたように、そうではなくてもっと単純なことだとは思うが。

ちなみに、些末な問題ではあろうが、③「Sure, he’s out in John of God’s off his head, poor man.」/「ああ、あいつなら気がふれて、神のヨハネ病院にはいっているぜ。」の「あいつ」とは柳瀬の言うように*[35]、「An old plumber named Geraghty」*[36]/「ゲラティっていう、おいぼれの鉛管工」*[37]と取るのが妥当かとは思う。

 このように見てくると、(まあ、他人(ひと)のことをとやかく言える立場にはないが)、柳瀬の論証はあまりにも飛躍が多過ぎて、仮に彼の主張が正しいということがあったとしても、いささかならず無理を通し過ぎる気がする。

 

7 3パイント目はバーテンへの奢りなのか?


 さて、彼らは酒場に行く。そこで酒宴の始まりとして以下のような会話が交わされる。

 

—Give it a name, citizen, says Joe.

—Wine of the country, says he.

—What’s yours? says Joe.

—Ditto MacAnaspey, says I.

—Three pints*[38], Terry, says Joe.」

( [Joyce, 2003/07/01up]p.666)

 

――何を飲むかね、市民、とジョーは言う。

――お国ぶりの酒よ、と彼は言う。

――おめえは?  とジョーが言う。

――マカナスピに同じ*[39]、おれが言う。

――三パイントだ、テリー、とジョーが言う。」

( [ジョイス, 鼎訳, 1922年/96年-97年/2003年]文庫第Ⅱ巻p.290)

 

さて、この箇所の最後に出てくる「三パイント」だが、1パイントは大体500mLなので、要は日本語で言えば中ジョッキ3杯ということだ。つまり「生中3!」とジョウは注文したということになる。当然普通に読めば、「市民」とジョウと「俺」の分となる。当たり前だ。しかし、柳瀬は違うと言うのだ。「俺」が犬であれば、いくらなんでも金を払って酒を奢る筋合いではないから、そこで柳瀬はこう考えた。「今日はおごる気でいるらしいジョウならば、犬よりもさきに、まずバーテンにおごるのではないか。」*[40]と言うのだが、そうだろうか? 無論、砕けた呑み屋では洋の東西を問わず、客は店のホステス*[41]は当然のこと、マスターやバーテンなどに酒を奢ることは普通あろう。だが、そうであるとしても、バーテンのテリーに何らかのリアクションがあってしかるべきではないか。例えば「ありがとうございます。」とか「毎度どうも。」とか「頂いちゃっていいんすか?」とか。しかし、そのような素振りも発言も全くない、というよりもほとんど影のような存在なのである。確かに「俺」がその3パイント目を飲み干したとも書いてはいないが、かと言ってバーテンが飲んだとも書いていないのだ。

柳瀬は、この無口なバーテンが後半に至って、急に饒舌になった理由として飲酒を挙げている。「そういう男がいきなり雄弁になった理由を競馬以外に求めるとすれば、酒ということになるまいか。このバーテンは酒が回ってきたのではあるまいか。」*[42]というのだが、「そういう男」というのはバーテンのテリーがいささか「鈍」*[43]感であることを指しているが、そのことが「雄弁」を退けるということにはならないだろう。何故に「競馬以外」の理由を求めるのか? 単に「競馬好き」だったために「雄弁」になったとも、自店の酒をちょっくら頂いていたが故の雄弁ととっ

コラム ☕tea for one ~ディグナムの「亡霊」~

コラム ☕tea for one

 

 

 ~ディグナムの「亡霊」~

 

ディグナムの「亡霊」問題は「俺」=「犬」説とは直接関係ないが、極めて重大な問題だと、少なくともわたしは考えているので、軽く触れておこう。

酒場の客アルフが、既に死んでいるディグナムを路上で見かけた、というのである。

 

—How’s Willy Murray those times, Alf?

—I don’t know, says Alf. I saw him just now in Capel street with Paddy Dignam.( [Joyce, 2003/07/01up]p.676)

 

――アルフ、近頃ウィリー・マリーはどうしてる?

――知らねえ、とアルフは言う。ついさっき、パディ・ディグナムといっしょにケイベル通りにいるのを見たぜ。( [ジョイス, 鼎訳, 1922年/96年-97年/2003年]p.301)

 

無論、ディグナムは既にしてこの世にはいない。ジョウはアルフがディグナムの亡霊を見たのだと揶揄い、彼はそれを聞いて驚く。

柳瀬は、これについてはこう述べる。「アルフは、リアポウルド・ブルームをパディ・ディグナムだと思い込んでいたのである。」( [柳瀬, 『ジェイムズ・ジョイスの謎を解く』, 1996年]p.103)と。つまり単なる見間違いということだ。無論、実際はそうだったかも知れない。

それにしてもディグナムという人物は、この物語が始まった時点で既にこの世にいないので、実際には登場しない。正直、彼がどういう人物であったかもよくは分からない。しかしながら、ディグナム(Dignam)の名前は、『ユリシーズ』全体で合計で85回登場する。リアルタイムでは登場しない、ということは、回想、というよりも、言及に近い登場の仕方ではあるが、彼が死者であることを考えると異様に多い気もする。同様にボイラン(Boylan)は72回登場し、それぞれ代名詞も入れれば、相当な数に上ると思われる。ボイランについては妻モリーの浮気相手であり、それを知りつつ、どうすることもできないブルームの、或る種の「影」、あるいは「もう一人の自分」、更には、自らの「可能態(デュナミス)」*[44]とも考えられるので、ブルームにとって重大な存在であることは間違いない。したがって、この登場(言及)回数は一旦、問題なしとするが、それに対して、ジョイスは、あるいは、ジョイスとは別の『ユリシーズ』の「ゼロの語り手」*[45]は、何故に死者ディグナムにかくもこだわっているのだろうか?

あるいは作者のジョイス、あるいは「ゼロの語り手」は単にこのことを面白がって書いているだけかもしれない。無論それもあるだろう。というかそうでなければ誰が好き好んで、こんな大変なことをするだろうか。いや、でも、しかし、そこにはなんらかの意味があるような気がするのだ。

例えば亡霊、あるいは幽霊と訳される「ghost」。この言葉は『ユリシーズ』全編で合計42回登場する。無論全部が全部ディグナムの亡霊ではないが、いずれにしても、この「ゼロの語り手」のghost好きはいささか常軌を逸したところがあるのではないか?

この「ディグナムと亡霊」の問題は別稿で触れたい。

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てもよいと思うが、そのことが「俺」の飲酒を排除したり、「俺」が犬であることを論理的に裏付ける訳ではないのだ。

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コラム ☕tea for one

 

~「ゼロの語り手」~

 

作者でもなく、表層上の語り手とも違う、第三の主観、意識、話者のことを指す。ロシア文学者・江川卓は、その著『ドストエフスキー』(1984年・岩波新書)において、この「ゼロの語り手」( [江川, 『ドストエフスキー』, 1984]p.p.73-86)という概念を提出した。

そこでは、必ずしも明確に定義づけがされているとは思えないが、わたしなりにまとめてみよう。

まず、江川が、作者とは異なる、「別の語り手」に注目したのは、ロシア・フォルマリズムのボリス・ミハイロヴィチ・エイヘンバウムの「ゴーゴリの『外套』はどう仕立てられているか?」(1919年)という論文での「語り(スカ―ス)」という概念であるとしている( [江川, 『ドストエフスキー』, 1984]p.73)。

 

「語り(スカ―ス)」とは、小説の「語り手」が作者その人ではなくて、作者が擬制した別の人物になっている場合をいう。( [江川, 『ドストエフスキー』, 1984]p.73)

 

ゴーゴリが現れた頃、同様な「語り」、「語り手」の問題は、たとえばレールモントフの『現代の英雄』にも現れている。

 

この小説には、作者、その分身たる「私」、作中人物の二等大尉、主人公ペチョーリンと、少なくとも四人が「語り手」として登場する。一人代名詞だけでも、「筆者」、「私」、「わたし」、「ぼく」、「おれ」と、五つは動員しなければならない。( [江川, 『ドストエフスキー』, 1984]p.75)

 

しかし、 この問題にもっとも自覚的に取組んだのは、やはりプーシキンであった。彼の『べールキン物語』は、語り手と文体に関するいわば実験小説集のような観を呈している。まずこの作品では、プーシキン自身はたんなる「刊行者」である。『物語』の作者は「故ベールキン氏」だが、それぞれの短編は、どれもべールキン氏自身の創作ではなく、彼がさまざまな人物から聞いた話の再話ということになっている。もとの話し手の名前や肩書も明記されていて、たとえば「駅長」は九等官A・G・N氏の話がもとである。つまり、あの短編の「語り手」たる「私」は、プーシキンでも、べールキンでもなく、A・G・N氏だというわけだ。( [江川, 『ドストエフスキー』, 1984]p.76)

 

すなわち、

 

作者とは独立の語り手を設定し、しかもそれを複数化することで、小説に複数の目、複数の声をもちこみ、「原ストーリイ」を新たによみがえらせる。これがプーシキンの狙いであった。( [江川, 『ドストエフスキー』, 1984]p.77)

 

以上の蓄積の上での、満を持してのドストエフスキーの登場となる。当然のことながら、これらの「語り手」の問題を十分理解した上での彼のデビュー作となる訳だが、一見素朴を装って書かれた書簡体小説『貧しき人々』からして、相当念入りな「からくり構造」を持っていたことも江川は、彼の代名詞ともなった『謎とき『罪と罰』』で明らかにしている。

全てをここにご紹介する訳にはいかないが、例えば、江川は日付に注目する。ドストエフスキーにとって日付が重要な意味を持つことも、江川が明らかにしている。この『貧しき人々』という物語は9月30日に終わっている。当然のことながら、その翌日は10月1日である。「ロシアの暦では、十月一日はポクロフ祭(聖母祭)と呼ばれている。」( [江川, 『謎とき『罪と罰』』, 1986]p.27)。「ポクロフ」は「聖母」の「衣、庇護」のことである( [江川, 『謎とき『罪と罰』』, 1986]p.27)。「ドストエフスキーの念頭にこのポクロフ祭のことがあったらしいことは、ワルワーラの以前の恋人で、若くして病死する大学生を「ポクロフスキー」(「ポクロフ」の関係形容詞)と命名していることからも知られる。」( [江川, 『謎とき『罪と罰』』, 1986]p.27)。

さて、「ロシアの農事暦では、ポクロフ祭は冬のはじまりを知らせる日である。」そこから「ポクロフ祭は大地を覆う」という諺が知られているのだが、「ポクロフ」が男性名詞、「大地(ゼムリャー)」が女性名詞であるところから、「結婚にあこがれる乙女心」をも意味しているという( [江川, 『謎とき『罪と罰』』, 1986]p.28)。ご存知のように、この物語はジェーヴシキンの、ワルワーラへの愛情が、彼女の結婚によって悲恋に終わるという話だが、その意味ではこの日付は忠実にストーリーをなぞっているといってよい。

しかし、問題はここからなのだ。「ポクロフ」の「動詞「ポクルイチ」には、「覆う」という原義だけでなく、家畜を交尾させる、雄と雌をつがわせる、という意味もあるからである。」( [江川, 『謎とき『罪と罰』』, 1986]p.28)さらに「ワルワーラを連れ去る地主はブイコフという姓を持っている。ブイコフは「ブイク」(牡牛)から派生した姓である」( [江川, 『謎とき『罪と罰』』, 1986]p.28)という。

こうなってくると、或る種の偏執的な創作上の思考回路が働いているとしか言いようがない。一体誰が、こんな日付のからくりに気づくというのか。ここで江川はこう考える。一体誰がこんな仕掛けを考えたのか。これらのからくりは「作者が設定したもののように見えながら、実は作者を超えるだれかから与えられたものではなかったか」( [江川, 『謎とき『罪と罰』』, 1986]p.29)と。そしてこう言う。

 

それは、黙示録の作者ヨハネにかずかずの幻を見させた神に似た存在、あえて言えば、(中略)人知にとらえられない存在なのである。( [江川, 『謎とき『罪と罰』』, 1986]p.29)

 

と、なにやら神がかってきたが、恐らくドストエフスキーにとっては、確かに「神」とも思われる存在だったかもしれない。いや、確かに神だったろう。神が啓示する「ドラマ」をただ憑りつかれたかのように文章として書き起こす、それが彼にとっての小説作法だったのかも知れない。いずれにしても、この辺りから江川の分析は止まってしまい、なにやら狐につままれた印象を残すのはいささか残念だ。

ただ、個人的な見解を付け足しておくとすれば、これをして、作者の「無意識」と呼ぶことはできないだろうか? すなわち、本人が意識することはないし、意識することもできないが、その人の精神、あるいは精神と肉体を統合するものとしての「生命」が持ち得る働きこそが、小説作品などでは、作者や、登場人物の「声」とは別の「ゼロの語り手」として、その「声」を発するのではなかろうか?

この問題を考えるのには小説と「夢」の関係を考えるのが妥当だと思う。夢を題材にする作家は少なくない。夢を夢として描く作家もいれば、見た夢を題材にして、それを元に小説的な脚色を施し、作品として成立するようにする者もいる。後者で言えば、日本の筒井康隆の「エロチック街道」や「ヨッパ谷への降下」、あるいは「夫婦遍歴――RPG試案」などが記憶に浮かぶ。余談だが、前二者はいずれもラストで「落下」というモチーフが現われていて、大変興味深い。

それに対して、ドストエフスキーは前者、すなわち夢を夢として作品の中に登場させる、それも頻繁に登場されることで知られている。典型的なものが、多くの論者が取り上げているように『罪と罰』の中心人物・ラスコーリニコフの見る「白昼夢」・「ネヴァ河の幻影」とラスト近くで見る「世界終末の夢」である。ここでは詳細な分析は控えるが、夢を見ているのは確かに本人であって、本人自身の「心」を見ているにも関わらず、あたかも、自分の世界とは異なる他の世界を見ている、見させられている気がする。したがって、予想に反する出来事や、理由が判然としないことが、極めて微細なところまで巧妙に仕組まれているような気がする。そかし、それは確かに自分自身なのだ。けれども、それは確かに自分自身とは異なる、あるいは自分自身が今まで知り得なかった自分自身なのではないだろうか。

ジョイスの『ユリシーズ』はしばしば「意識の流れ」と評されることが多いが、むしろ、この意味においては、「無意識の流れ」あるいは、「無意識の浮かび」、「無意識の現れ」というべきではなかろうか?

 

因みに以下の内容については、わたし本人は不勉強で、比較して論ずることができない。スイマセン。

ジョイス学の中ではこれに相当すると思われるのが「arranger(アレインジャー)」という概念ということらしい。デイヴィド・ヘイマンが『『ユリシーズ』――意味の力学』(David Haymann, Ulysses: Mechanics of meaning, 1969,Prentice-Hall.)においてこの概念を初めて使用したらしい(on line講義『22Ulyssesージェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』への招待』2022年7月1日における、横内一雄・関西学院大学教授の教示による)。

 

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8 ガリーオウエンの飼い主は誰なのか?

 

これもいささか些末な問題かも知れないが、触れておく。普通に読めば、酒場バーニー・キアナンに「市民」とともにいる犬・ガリーオウエン(なかなかいい名前だ)は「市民」の飼い犬だろうと誰しもが思う。

そのガリーオウエンはこんな風に登場する。

 

So we turned into Barney Kiernan’s and there, sure enough, was the citizen up in the corner having a great confab*[46] with himself and that bloody*[47] mangy*[48] mongrel*[49], Garryowen, and he waiting for what the sky would drop in the way of drink.( [Joyce, 2003/07/01up]p.664)

 

そこでおれたちはバーニー・キアナンの酒場に行ったんだが、するてえと果せるかな、市民の奴が端っこで、独(ひとり)言(ごと)を言ったり、あの糞ったれな疥癬(かいせん)やみの駄犬ギャリーオウエンを相手にしたりしておだをあげ、天からおしめりが酒のかたちで降ってこねえもんかと待っていやがった。

( [ジョイス, 鼎訳, 1922年/96年-97年/2003年]文庫第Ⅱ巻p.288)

 

如何にもガリーオウエンは「市民」の愛犬のように読める。

さらに、こうも記述される。最初の台詞はジョウによるものである。

 

And how’s the old heart, citizen? says he.

—Never better*[50], a chara*[51], says he. What Garry? Are we going to win? Eh?

And with that he took the bloody old towser*[52] by the scruff*[53] of the neck and, by Jesus, he near throttled*[54] him.

( [Joyce, 2003/07/01up]p.666)

 

ときに市民、機嫌はどうだい?

――最高よ、 《相棒》、 と彼は言う。どうだ、ギャリー? おれたちはうまく行ってるかな? え?

こう言ってあん畜生は、 こきたねえ老いばれ犬の首根っこをつかまえたもんだから、 糞ったれめ、 あやうく絞め殺すところだったぜ。

( [ジョイス, 鼎訳, 1922年/96年-97年/2003年]第Ⅱ巻p.290)

 

というようなやり取りを見ていると、「市民」とガリーオウエンはなかなかの「相棒」振りだということが感じられる。ところが柳瀬はこう断言するのだ。

 

ガリーオウエンは誰の飼犬か?

答えはテリー。

( [柳瀬, 『ジェイムズ・ジョイスの謎を解く』, 1996年]p.118)

 

「テリー」は酒場バーニー・キアナンのバーテンダーなのだが。柳瀬はこう続ける。「このバーテンは、ガリーオウエンという犬を連れて勤め先を転々としているのだ。」*[55]とのことだが、仮にそうだとしても、それが何か意味するところがあるのであろうか? わたしの読解力と想像力が不足しているために、ここの意味が分からない。

ちなみに根拠らしきものは書かれていない気がする。

強いて言うとここだろうか? ここは柳瀬の解釈の入っている柳瀬訳から引用することにしよう。

 

So he told Terry to bring some water for the dog and, gob, you could hear him lapping it up a mile off. And Joe asked him would he have another.

—I will, says he, a chara, to show there’s no ill feeling.Gob, he’s not as green as he’s cabbagelooking. Arsing around from one pub to another, leaving it to your own honour, with old Giltrap’s dog and getting fed up by the ratepayers and corporators. Entertainment for man and beast. And says Joe:

—Could you make a hole in another pint?

—Could a swim duck? says I.

—Same again, Terry, says Joe. Are you sure you won’t have anything in the way of liquid refreshment? says he.

—Thank you, no, says Bloom. As a matter of fact I(……)

( [Joyce, 2003/07/01up]p.707)

 

そこでやつは犬に水をもってこいとテリーに云いつけ、すると、どべッ、あん野郎かぐぐぐっとやっちまったのは一マイル先でも聞えたろうよ。するとジョウがもう一杯やるかと訊く。

――そりゃもちろん、と、やつは云う。同志ですもんね。別に恨みがあるじゃなし。

どべッ、こいつは碌(ろく)でもない阿呆面ほどには青才六(あおさいろく)じゃねえや。老いぼれジルトラップの犬といっしょにパブからパブを渡り歩いて、あとは知らんぜだ、そうやって税も納めて選挙権もあるちゃんとした客たちにたらふく食わせてもらう。畜生連れの働き口か。するとジョウが云う。

――もう一パイントで溺れてお陀仏ってんじゃないだろ?

――鴨と同じで溺れるもんかよ、俺は云う。

――同じの、 テリー と、ジョウが云う。あんたはほんとに酒は駄目かい? やつが云う。

――ええ、けっこうです、と、ブルームが云う。実は、わたし……

( [柳瀬, 『ジェイムズ・ジョイスの謎を解く』, 1996年]p.p.119-120)

 

 この傍線部を読めば、確かにテリーが犬連れでパブを渡り歩いていると読めなくもないが、普通に読めば「市民」が他の客からたかって呑み歩いているとも、当然読めるはずだ。ましてや、この犬ガリーオウエンがテリーの飼い犬だという証拠にはならない。むしろどうでもいいことではないだろうか。

 

9 そもそも「俺」は誰なのか?

 

  さて、「俺」は犬であるとして、更に柳瀬の追究は止まることを知らない。ここからいささか、――原作に基づくとは言え、汚い話になる。ご容赦頂きたい。

 第8挿話で、ブルームは遅い昼食後、「一匹の餓えたテリアが饐えた骨肉の食い戻しに喉を詰まらせて舗道の敷石へ吐き出し、またがつがつと貪り始めた」[56]様子を見ている。柳瀬はこう言う。「このテリアが、すなわち、〈俺〉である。」*[57]と。

 さらには、このテリアはブルーム家がかつてシティ・アームズ・ホテルでお隣さん(?)だったリオーダン夫人の飼い犬のスカイテリアと同一物だという*[58]

つまり「俺」からするとブルームのことは昔から知っているのに、ブルームの方は一貫して「俺」のことを「俺」だと分かってくれない。「〈俺〉としちゃあ、そりゃ、癪にさわらァァァ!」*[59]、ということになる。

 最期に「俺」が小用を足しに行く場面があるが、したがって、そんなものを拾い食いをした「俺」は下痢をしているのだという*[60]

問題は、仮にそうだとしても、それが何を意味しているのか、ということである。この場合の「意味」とは、必ずしもジョイスが意図した意味ということではない。むしろ、ジョイス本人も気付いていなかった、作品が本来的に持つ意味、ということである。場合によっては、その意味は作者自身が気付いていないが故に、作者を驚かせる。場合によっては作者の立場を脅かすやも知れぬ。場合によっては作者は怒り狂うかも知れない。そのことによって、その作品が持つ、通時的な意味、あるいは共時的な意味が更新される、そのような意味での「意味」ということだ。

残念ながら、柳瀬の主張する「俺」=犬説は、そうかも知れない、その可能性は無きにしも非ず、とは言えなくもないが、確かにそうだ、そうでなければならない、ということは全くない。そうとも読めるかも知れない、という次元にとどまっている。問題はそこから先の問題なのだ。

わたし個人の考えは、「俺」は、あるいは犬かも知れないが、人間かも知れない*[61]。もし人間であれば犬と同じような扱いを受けている最底辺の階層にいる人間であろう、とは思うが、実のところ、そこははっきり言ってどうでもいい。

むしろ問題なのは、「俺」に「固有名詞」がない、ということではないのだろうか?

 

10 中間報告

 

問題の所在は、『ユリシーズ』第12挿話に登場する「語り手」=「俺」が、柳瀬が主張するように「犬」かどうか、ということが問題ではなく、その「語り手」=「俺」に固有名が与えられていないことの方が問題であり、それは何故なのか、あるいは何を意味するのか、ということなのだ。この問題を考えるために3本の補助線を引く。

1本目、固有名の不在について、夏目漱石の『吾輩は猫である』の「語り手」=「猫」に名前=固有名が何故ないのかという問題を、丸谷才一を通して検討する。

2本目、同様の問題を、江藤淳の「名前のない猫」と共に考察を進める。

そして、3本目として、柄谷行人の「固有名をめぐって」という、現在『探究Ⅱ』に収録されている論考を取り上げたい。

 

11 固有名の問題①――丸谷才一「あの有名な名前のない猫」

 

『ユリシーズ』の翻訳者の一人として知られている丸谷才一の批評家としての着想のユニークさを示すものに『闊歩する漱石』という批評集がある。文字通り漱石論集であり、『坊つちやん』と『三四郎』、そして『猫』を対象として、例のごとく縦横無尽過ぎる自由さで論じていく。

と、ここまで書いて、そういえば以前これについての書評めいたものを書き置いていたなと思い出した。参考のために再掲することにしよう。

 

コラム ☕tea for one ~丸谷才一『闊歩する漱石』~

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~丸谷才一『闊歩する漱石』~

 

テーマは良かったけれど……。

丸谷才一『闊歩する漱石』

 

■丸谷才一『闊歩する漱石』2000年7月28日・講談社。

■1,600円(税別)。

■中篇批評集・エッセイ集(夏目漱石・近代日本文学・世界文学)。

■装幀・装画 和田誠。

■244ページ。

■採点 ★★☆☆☆。


質問にうまく答えるよりも、うまく質問する方が難しくて、大切なんだ、と言ったのは、かの小林秀雄だった気がする*[62]

その意味では、問題はよかったのではないか。

ただ、残念ながら丸谷才一らしからぬ歯切れの悪さを感じた*[63]

正直言えば、これだけの結論であれば、どこかのエッセイにちらりと書き付けておく、ということでもよかったのでは、とも思う。要するに長過ぎる、ということだ。

本書には以下の3本の中篇の批評が収められている。


①「忘れられない小説のために」(原題「『坊つちやん』と文学の伝統」)

②「三四郎と東京と富士」

③「あの有名な名前のない猫」それぞれのテーマ(問題)は以下の通りだ。


①これは原題通りで『坊つちやん』に登場する「坊っちゃん」の罵り文句が日本文学の「列記」という伝統を引いている。

②『三四郎』で主人公が上京する際に、広田先生に富士山を見るように言われるが、汽車の中でも、東京でも富士山を見上げるシーンがないのはなぜか?

③これまた『猫』が世界的な文学的伝統(メニッペア)を引いている。


という訳なのだが、①については、まーその通りなのであろうが、針小棒大というしかないので、このまま措く。

②はいささかならず重大であろう。丸谷はこう述べている。


すなはち、富士山はまさしく、はじめは大事な主題でありながら次第に後退してゆく「日本の状態」の象徴のやうなものであつた。/それにもともと漱石には富士山に対するアンビヴァレントな感情があつて、もちろん愛着はあるけれど、それを素直に表明しにくく、また、表現の仕方がむづかしいのかもしれない。 ( [丸谷, 『闊歩する漱石』, 2000年]p.149)


どうだろうか? これについては一考の余地があると考える。

まずもって富士山が日本の「象徴」なのか、どうかという問題、仮にそうだとしても、それが漱石にとってはどうだったのか。あるいは「見上げる」とか「遠望する」という、そのような人間の行動の意味を「避けて」いたのかも知れない。では、そこにどんな意味があったのか?  

 

また、③について問題にすべきは、これはきっと既に誰かが書いているだろうが、「猫」に名前がないのは何故なのか? という問いに答えねばならぬであろう。これはもちろん、名詞、固有名詞の問題と通底すると思われる。

(webサイト『鳥――批評と創造の試み』2021年4月17日更新)

📖

 

 以上のような次第であるが、「猫」に名前がないのは何故なのか? という問題は極めて重大であろう。言うまでもなく、この動物を「語り手」、あるいは主人公として物語を展開したのは、何も漱石が初めてではない。丸谷の具体的な記述に教えられて書くが、1751年にフランシス・コヴントリによって発表された『チビ犬ポンペイ物語 あるいはある愛玩犬の生活と冒険』はロンドンの社交界において話題を呼んだという*[64]。他にも……と書き始めると、途端に日が暮れてしまうので、端折ることにするが、無論、語り手や主人公が動物であっても一向に差し支えはない。だが、矢張り問題なのは、名前がないということなのだ。

丸谷は漱石の『猫』についてこう述べる。

 

動物が口をきくといふ枠組を設定したとき、奔放で野放図な話術が手にはいつた。

( [丸谷, 2000年]p.195)

 

そして、丸谷はミハイル・バフチン*[65]の「メニッペア論」*[66]を引いて、『猫』がこのメニッペアの伝統の中にあることを指摘し、その特徴として14の項目を挙げていくが、ここではその3番目を引用しておく。

 

異常な状況を作り出すのは思想的=哲学的な目的のためである。登場人物の、個人としてあるいは社会類型としての、性格を研究するためではない。メ二ッペアの内容はイデ工もしくは真理の冒険旅行だ、とバフチンは言ふ。

猫が口をきいて自分の一生を語るのは、これとまつたく同じだらう。あの語り手兼主人公である猫に名前がないのは、彼が個人として、あるいは社会類型として存在するのではないことの比喩的表現かもしれない。この、名前がないといふことについては後述するけれど。伝統的なメニッぺアの主人公たちはオリンポスの天に昇つたり、死者の国へ行つたり、鯨の胎内、ランプの国、チーズの島などへ旅したり、奇妙な体験をする(これはルキアノス*[67]の場合)。英語教師の家の飼猫が町内を徘徊して他の猫と語りあつたり、飼主の家に泥棒がはいるのを観察したりするのは異常さの度が低いものの、しかし写実主義的あるいは個人主義的作中人物の行動ではなく、思想的=哲学的な性格のものだといふ点では変りがない。それが最もよく出てゐるのは最後の死のくだりで、ここには禅的な解脱(げだつ)へのあこがれが示されてゐる。( [丸谷, 2000年]p.196)

 

猫に話をさせるという「異常な状況を作り出すのは思想的=哲学的な目的のため」というのは、いささか首を捻るが、したがって、引用部最後の「ここには禅的な解脱へのあこがれが示されてゐる」というのも更に首を捻らざるを得ない。それは漱石がもともと持っていたもので、喋る猫とは直接は関係ないだろう。いや、例の「則天去私」というところから、「私を去る」、すなわち「無名」ということが言いたいのか?

また、「語り手兼主人公である猫に名前がないのは、彼が個人として、あるいは社会類型として存在するのではないことの比喩的表現かもしれない。」という指摘は分らぬでもない。「猫」が「個人として、あるいは社会類型として存在するのではない」というのは、その物語世界において、具体的な姿をもって存在するのではなく*[68]、そこから一歩次元の違う世界に存在する、あるいはそこから物語世界を見下ろさせる、ということだろうか?

さらに、丸谷はこう述べる(議論の整理のために番号を付ける)。

 

名前のない猫が語り手であり主人公であることは、どういふ効果をもたらすか。前にわたしがバフチンを援用して言つた、哲学的=観念的になるといふことのほかに、①名前といふ制度に反撥し逆らふ快さと寂しさとを味ははせることにならう。そこには自由と解放の、気楽と切なさとが二つながらあって、作者の抱懐する、②禅的なアナーキズムとでも形容するしかないやうなもの、

 

無 人 島 の 天 子 と な ら ば 涼 し か ろ

 

といふ彼の発句とかなり縁があるやうな気持がのんびりと寝そべつてゐた。苦沙弥はこの猫に対して冷淡だから名前をつけないのではなくて、いはば③彼の人生観ないし世界観としての不人情を猫に共有させるため、たとへば女の子たちや坊ば(男の子)が何かありあはせの愛称で呼んでも頑としてそれを認めなかつたのではないか。 一体に漱石は名前のない登場人物が好きで、④『坊つちやん』の主人公も名前をつけてもらつてゐない。あるいは姓名を拒んでゐる。これは⑤国

コラム ☕tea for one ~村上春樹初期作品の無名性~

コラム ☕tea for one

 

 

~村上春樹初期作品の無名性~

 

ここでは、あまり大声で話すわけにはいかないが、村上春樹の初期作品の無名性についても、一言だけコメントしておく。いま手元に資料がないのでうろ覚えで書くことを諒承されたい。

出世作『ノルウェイの森』(上下・1987年・講談社)に至るまで、彼の初期作品の「語り手」=「僕」には名前、固有名詞がない。唯一の例外が、やがて『ノルウェイの森』の中心的人物となる「直子」*[69]である。その他の登場人物たちも名前がないか、あるいは「鼠」や「羊男」などの象徴的な名前、綽名で呼ばれる。

かつて新潮社には「純文学書下ろし特別作品」という、今聞くといささか鼻白(はなじろ)む名称を持つ看板シリーズがあった。安部公房や大江健三郎、あるいは遠藤周作といった第一線の作家たちの新作はほとんどここから出ていたのだ。今から考えると驚異的だ。このシリーズには挟み込みでその作品の解説のような対談が付けられていた。また、これは同じ内容のものが、新潮社のPR誌『波』にも同時掲載された。宣伝だから、これはお約束のようなものである。

村上は1885年に『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を同シリーズから刊行するに際して、この「お約束」に異を唱えたものと思われる。対談をする代わりに「小説という制度」というエッセイを『波』(1985年5月号か?)に書下ろし発表した。

 そこで、村上は次のように述べて、小説の持つ「制度」的なものに対して痛烈に批判している。

 

と、ここで引用に入るのだが、その資料がないのだ(´;ω;`)。確実に実家のあの段ボール箱の奥底に沈められているのは分かっているのだが……。(これは引用ではない)

 

 

村上自身が固有名を与えられなかったことについてはどこかで触れているかとは思うが、それはそれとして、恐らく、固有名を与えることによって、いかにも「小説」です、という「制度」、「お約束」に取り込まれるのを忌避したためではないか。

いずれにしても、初期村上のなかでは「固有名」を与えることがマイナス要素になっていたことは確かである。

この問題は根が深いので、別稿を立てることとする。

 

 

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家の定めた戸籍といふ制度にせめてこんなところで異を唱へたいのかもしれない。さう言へば夏目金之助といふ青年は兵役のがれのため北海道へ戸籍を送った(送籍した)ことがあった(『「コロンブスの卵』所収『徴兵忌避者としての夏目漱石』を参照)。

⑥明治国家とか、帝国大学とか、博士号とか、 一切の鬱陶しいものから脱出したいといふ欲求は漱石においてはなはだしかつた。これは⑦彼の生れながらの気質、反骨、漢籍が培(つちか)つた隠遁趣味、その他いろいろなものの綜合だらうが、ノイローゼもきつと一役買つてゐるはずだ。( [丸谷, 2000年]p.p.234-235)

 

いくつか、別に論じるべき点が入っている。まず④の「坊っちゃん」は、ばあやである清(きよ)が彼を呼んだ呼称がそのまま定着しているし、他の登場人物たちの名称「マドンナ」や「山嵐」や「赤シャツ」と同様ほぼ固有名詞と言って差支えがない。その意味では②「禅的なアナーキズム」*[70]、③の「不人情」も今一(ひとつ)首肯できぬ。

このように考えてきて、我々読者も納得可能な、丸谷のなかにある「猫の無名性」に対する一定のイメージは

①名前といふ制度に反撥

⑤国家の定めた戸籍といふ制度にせめてこんなところで異を唱へたい

⑥明治国家とか、帝国大学とか、博士号とか、 一切の鬱陶しいものから脱出したいといふ欲求

ということになり、その根源はどこにあるかと言えば、

⑦彼の生れながらの気質、反骨、漢籍が培つた隠遁趣味、その他いろいろなものの綜合

というようなことになりそうである。

わたしなりに翻訳すれば、要はこういうことか(丸谷はこうは言ってないが)。

漱石は生来の面倒くさがりで、家にたまたま居ついて、飼い猫になったと思しき猫に名前を付けなかったのは、飼ってるつもりがない? (どういう訳か、そこにいる?)ため、ということもまずあったろうが、そもそも面倒だ、猫なんか、ただの猫だ*[71]、という意識が働いていたのかも知れない(これは単なる推測)。それが、偶々(たまたま)執筆した写生文「吾輩は猫である」にも必然的に踏襲された。長期連載、書籍化という経過を経ても、その猫の無名性をそのまま踏襲、維持し続けたのはなにやら「制度」的なものに絡み取られるのを本能的に忌避したためではないか。この場合の「制度」は、文脈的には社会的制度や、国家的制度、あるいは文化的な制度とも言えるかもしれない。

したがって、我々は、丸谷とともに、猫の無名性を肯定的に捉えることが可能だと思う。

 

12 固有名の問題②――江藤淳「名前のない猫」

 

  「Throwaway/throwaway」/「スロウアウェイ」は、『ユリシーズ』本文では

「ビラ」とか「もう要らない」という意味で使われているが、どういう訳かブルームが裏情報(?)で知り得、後々(と言ってもたった1日のなかでのことだが)物議と混乱(?)を齎す勝ち馬の名「スロウアウェイ」としても登場する。様々な意味を含みながらも『ユリシーズ』全体として「Throwaway/throwaway」という言葉は合計18回登場する。インターネット上の辞書サイト「weblio」では「使い捨てのもの、(学校・家・社会から)追い出された人」とされている。

 柳瀬がこの「Throwaway」という馬の名前を「モイラナイン」と翻訳したのは素晴らしい名訳と言わなければならない*[72]

 というのは登場する回数もさることながら、「使い捨てのもの、(学校・家・社会から)追い出された人」という意味を持つこの「throwaway」すなわち「もういらない」と呼ばれる「人」や「物」に微妙な含意が込められている気がするからだ。

 ところで、一旦話を本稿の問題に戻すが、「猫」に名前がないのは何故なのか、という問題だった。我が国において、漱石と言えば、取りも直さず江藤淳ということになるが、その江藤は、この猫の無名問題について、何か書いていたのだろうか? 

 残念ながら江藤が、自らのの出世作『夏目漱石』、第一部・第六章において「「猫」は何故面白いか?」*[73]という問題提起をしている段階で、既に江藤は何か「誤解」をしているのではないかと思わざるを得ない。『猫』が人気を誇っていることは事実であろうが、それは必ずしも『猫』が、字義通り「面白い」からではないだろう。むしろ、『猫』という「小説」(?)は極めて暗鬱な話であって、逆説的にそこに面白みが出る、という意味は確かにあるとは思うが。

 後に、この江藤の一連の仕事を充分に吸収したと思われる文芸評論家の三浦雅士は、その著『漱石――母に愛されなかった子』において、「『吾輩は猫である』の重要な主題のひとつが自殺であることは明らかです。」*[74]と述べているが、普通に読めば、「面白い」というよりも、随分暗い話だな、というのが素朴な感想ではないだろうか。

 それはさておき、猫の無名問題に戻るが、江藤は、その代表作とも言える『漱石とその時代』を1970年に、その第一部、第二部を同時刊行の後、23年間の長きに渡る中絶期間の後、「第3部」をまさに「名前のない猫」との1章で書き始めている。そこにおいて、江藤は、大変興味深いことに、ロシア・フォルマリズムの文芸理論家ヴィクトル・シクロフスキー*[75]の「非日常化」あるいは「異化」という概念を紹介した上で、以下のように述べている。

 

それにしても、「異化」の構造といえば、

 

《吾輩は猫である。名前はまだ無い》

 

という、『吾輩は猫である』巻頭の一行ほど、この小説の破壊的な構造を端的に表示しているものはない。それは「吾輩」という、明治の知的・特権的日本人によって用いられた一人称と「猫」とをイクォールの等号で連結させ、「猫」に語り手の視点を置いて終始一貫させている。この文が、一見「SはPなり」という形式論理学の定式の形を踏んでいるだけに、パロディ化されたこの擬似定式の内包するねじれと嘲笑とは、ほとんどグロテスクな凄味を漂わせるのである。

つまり、「猫」とは、この小説に現われる一切合財を、「異化」し尽すための基本的な仕掛けにほかならない。(中略)

だが、それだけではない。「吾輩は猫である」が「SはPなり」のパロディだとして、それなら「名前はまだ無い」とは一体何を意味するのだろうか。

( [江藤, 『漱石とその時代』第三部, 1993年]p.p.21-22)

 

 そこで、江藤は、漱石が、というよりも「二十六歳の文科大学生夏目金之助」が「老子の哲学」(1892年)なる論文を書いていることに注意する。金之助は「老子」の説く「道」について以下のように述べている。

 

道の根本は仁の義のと云ふ様な瑣細な者にあらず無状の状無物の象とて在れども無きが如く存すれども亡するが如く殆んど言語にては形容出来ず玄の一字を下すことすら猶其名に拘泥せんことを恐れてしばらく之を玄之又玄((げんのまたげん))と称す玄之又玄衆((しゅう)妙之門(みょうのもん))とは老子が開巻第一に言ひ破りたる言にて道経徳経上下二篇八十章を貫く大主意なり

玄とは相対的の眼を以て思議すべからざる者を指すの謂にして必ずしも虚無真空をは言ふにあらず名くべきの名なき故に無と云ふのみ

( [夏目, 1892年/1996年]p.p.14-15)

 

これに続けて江藤はこう述べる。

 

いかにも、漱石の指摘する通り、『老子』には繰返して「無名」の始源的世界に関する言及が行われている。例えば、

 

《道可道非常道。名可名非常名。無名、天地之始。有名、万物之母。(道の道とす可(べ)きは常道に非(あら)ず。名の名とす可(べ)きは常名に非(あら)ず。名無し、天地の始には。名有れ、万物之母にこそ)》(「體道第一」)

 

そしてまた、

 

《有物混成、先天地生。寂兮寥兮、独立而不改、周行而不殆、可以為天下母。吾不知其名。(物有り混成し、天地に先だって生ず。寂(せき)たり寥(れう)たり、独立して改(あらたま)らず、周行して殆(おこた)らず、以て天下の母と為(な)す可し。吾、その名を知らず)》(象元第二十五)

 

このように、『老子』によれば、「無名」の世界、「不知其名」の世界とは、とりも直さず「玄」つまり「殆んど言語にては形容出来」ない世界にほかならない。そうであれば、『吾輩は猫である』の「猫」に「名前はまだ無い」のは、「猫」がこれ以外のどの世界でもない「無名」、即ち名辞以前の世界に属していることを示す表示以外の何ものでもないということになる。「猫」は「生涯」この「無名」の世界に、少くともその「猫」という「名」によって表示される以外のあらゆるものを託しているのである。

( [江藤, 『漱石とその時代』第三部, 1993年]p.p.23-24)

 

以上のような次第で、江藤によれば、「猫」に名前がないのは『老子』の、言うなれば「名辞以前の世界」を象徴していることになる。

成程、確かにそうであろう。論理的に考えれば、そういうようなところに落ち着くのだろうと思う。

だが、しかし、それだけであろうか。江藤にしても、丸谷にしても、そうであるなら、漱石は積極的に猫に名付けをしなかったことになる。その意味では猫が無名であることは推奨されることになる。果たしてそうなのであろうか。

先程も言及したが、三浦雅士の『漱石――母に愛されなかった子』はこの問題に別の視角を与えてくれる。この小冊の副題「母に愛されなかった子」というのは、そのまま漱石自身を表しているが、同時に『坊つちやん』の中心人物「坊っちゃん」も表しているの同様に「猫」のことも表している。よくよく読めば、「猫」は「捨て猫」、つまり、人間風に言い換えれば「捨て子」なのだと三浦は言う。更に言えば、この「猫」は書生という獰悪な種族の手にかかって、あるいは池の中に放り投げられようとしていたかも知れないのだ、とも三浦は言う。

つまり、「捨て子」同然に親から愛されなかった漱石が、「捨て子」であった「猫」に感情移入しているという訳なのだ。

無論、三浦は猫の無名性については触れている訳ではない。だが、その「猫」が「捨て子」であり、また、「捨て子」のままであり続けたことを暗に象徴しているのが、「猫」の「無名」ということではないのか。すなわち、この世に生を享けて存在するにも関わらず、「もう(ス)いらないん(ロウアウェ)だ(イ)」と捨て去られたことの象徴こそが「名前がない」ということなのだと思う。

そのように考えてきて初めて、『ユリシーズ』第12挿話の「語り手」=「俺」に名前がないことも、また、「Throwaway」/「モイラナイン」という、よくよく考えれば飛んでもないない名前を与えられた競走馬の意味もなんとなく分かってくるような気がする。

 

13 固有名の問題③――柄谷行人「固有名をめぐって」

 

3本目の補助線として、柄谷行人の「固有名をめぐって」という論考を取り上げる。

わたしが読むところ、必ずしも柄谷は何らかの結論、少なくとも「固有名」についての結論を明示している訳ではない。ただ、本作との絡みで言えば、「語り手」=「俺」が犬かどうかは結局不明ではあるが、犬のような扱いを受けている、という意味では固有名がないこともマイナスで捉えるべきであり、そのマイナス点はどういう意味があるのかを、かなり原作を逸脱することにはなろうが、検討してみることも、あながち無駄ではあるまい。

わたしなりにまとめるとこういうことになる。

 

柄谷は若い頃から哲学が「私」(「主観」、「実存」、「人間存在」)を問うにも関わらず、それは「万人にあてはまるもの」であって、「この私」が「抜けている」ことに「異和」を感じてきたという*[76]

そこで柄谷は、この問題を考えるために、「一般」の対語として「単独性」と「特殊性」があると考えた。

 

図 1  一般と特殊性・単独性

 

例えば人間という「一般」に「私」を所属させた場合、「私」は人間という「一般」に対して「特殊」ということになる。

しかしながら、「特殊」という言葉に引っ張られて誤解し易いが、この場合、わたしは人間という共通項で結ばれているが故に、他の無数の私と、この私は結局のところ同じということになる。しかし、そんなことがあるだろうか。

柄谷はこのような一般性に回収されない「この私」の「この性」=「この」であること=「this-ness」に注目し、「単独性(singularity)」という概念を提出する。

 

私はここで、「この私」や「この犬」の 「この」 (this-ness)を単独性(singularity) と呼び、それを「特殊性」 (particularity)から区別することにする。単独性は、あとでいうように、たんに一つしかないということではない。単独性は、特殊性が一般性からみられた個体性であるのに対して、もはや一般性に所属しようのない個体性である。たとえば、「私がある」(1)と、「この私がある」(2)とは違う。(1)の「私」は一般的な私のひとつ(特殊)であり、したがって、どの私にも妥当するのに対して、(2)の「私」は単独性であり、他の私と取り替えできない。むろん、それは「この私」が取り替えできないほど特殊であることをすこしも意味しない。「この私」や「この犬」は、ありふれた何の特性もないものであっても、なお単独的(singular)なのである。

( [柄谷, 1989年、1994年]p.11)

 

図 2 私とこの私

 

 

これは柄谷自身が挙げているものだが、卑近な例を挙げるとこうなる。

 

ある個体の単独性と特殊性の区別は、つぎのようにも考えられる。たとえば、ある男 (女)が失恋したときに、ひとは「女(男)は他にいくらでもいるじゃないか」と慰める。 こういう慰め方は不当である。なぜなら、失恋した者は、この女(男)に失恋したのであって、それは代替不可能だからである。この女(男)は、けっして女(男)という一般概念 (集合)には属さない。したがって、こういう慰め方をする者は、〝恋愛〟を知らないといわれるだろう。しかし、知っていたとしても、なおこのように慰めるほかないかもしれない。失恋の傷から癒えることは、結局この女(男)を、たんに類(一般性)のなかの個としてみなすことであるから。

( [柄谷, 1989年、1994年]p.p.14-15)

 

以上のように論じてくれば、当然のことながら、この「取り替えできな」さ、あるいは「代替不可能」性に明示される「単独性」こそ「固有名」が固有名たる所以であることが了解できる*[77]

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~「ディドロとルソー 内在と外在」~

 

 

本文で触れた柄谷の「単独性」と「特殊性」の問題について、かつて、比較文学者・小宮彰が、同じような視角でディドロとルソーを取り上げていたのを論評したことがある。参考のためにその一部を掲載する。

 

*小宮彰「ディドロとルソー 内在と外在――言語コミュニケーションをめぐって――」/『思想』1983年6月号・岩波書店(以下、本論文からの引用は「小宮・1983・p.××。」と略記する)。現在この論文は、小宮彰『ディドロとルソー 言語と《時》――十八世紀思想の可能性』2009年・思文閣出版に収録されている。

 

 

元来互いに強い影響を与える友人として出発しながらも後に非難し合う仲になった18世紀の思想家ルソーとディドロも、その例外ではない。ここから、本論考「ディドロとルソー 内在と外在――言語コミュニケーションをめぐって――」は始まる。

そもそも、現代においても、ルソーとディドロの両者に対する評価の差は著しいものがある。才能の差なのか、境遇の差なのか、それとも単なる偶然なのか。

小宮はひとつの理由としてディドロの「著作の形式の多様さ」*を挙げている。すなわち「ディドロにおいては、ルソーの場合のように思想的な核をなす著作が論述の形式では書かれていないことだ。」**

 

*小宮・1983・p.40。

**小宮・1983・p.40。

 

したがって「ディドロは独自の仕方で自らの仕方で自らの思索を表現しているのだが、私たちはその言語表現を了解できない。」* 実はこの点、「言語表現を了解できない」ということにこそ重大なポイントがあるのである。

 

*小宮・1983・p.40。

 

小宮はそこでディドロの『盲人についての手紙』*を取り上げ、次のような問題を問いかける。「すべての認識は感覚(sensation)に由来する」**、ということは「一切の感覚経験を欠いた主体にはいかなる認識もありえず、したがって言語をもつ可能性もない」***。つまりは実際の経験がないものが、それについての認識を、それについての言語を持てるのか、という問題だ。それにもかかわらず「なぜ彼ら(視覚が不自由な人々・評者註)の間でだけで通じる言語をもつのではなく、視覚をもつ人々と共有の言語をもつのだろうか。」****

 

 

*ドニ・ディドロ「盲人に関する手紙」小場瀬卓三訳/『ディドロ著作集』第一巻・1976年・法政大学出版局。

 

**小宮・1983・p.42。

***小宮・1983・p.42。

****小宮・1983・p.42。

 

この「盲人についての手紙」は主として盲目のイギリス人数学者、ソンダーソンについての伝記で占められているが、彼は「巧妙な表現」*をふんだんに用いたという。それは言い換えるなら「視覚にとって比喩となる表現」**ということだ。

 

*小宮・1983・p.43。

**小宮・1983・p.43。

 

これは視覚が不自由なソンダーソンに例外的な事例であろうか。いや、そうではない、ディドロにとってこの事例は「言語伝達にかかわる本質的な事態のあり方としてとらえられている」と、小宮は述べる*。

 

*小宮・1983・p.47。

 

臨終に際して牧師ホームズと交わしたとされる会話のなかでソンダーソンは次のような奇妙な発言をする。

 

 

「しかし、秩序とは、そんなに完全なものじゃありませんよ、いまでも時折は、怪物のようなものが現れることがあるくらいにはね」(小宮・1983・p.47。下線評者)

 

ソンダーソンは自らの視覚が不自由な様を指して「怪物」だと述べているのだ。これは一体どういうことか。「この言明の意味することは、ホームズの言語伝達の試みに対する、ソンダーソンの拒否の表示である」*。「ホームズはソンダーソンを自らと同類の存在と見なして、そうであるなら認識しうるし、また認識しなければならない真理として、宇宙の秩序と神の叡知の存在を主張した」**。すなわちそれが認識できないソンダーソンは「同類」ではないとするが、彼にとっては「別種の存在であって、決してホームズの同類の欠如したものではない」***のである。

 

*小宮・1983・p.48。

**小宮・1983・p.48。

***小宮・1983・p.48。

 

 すなわち、

 

ソンダーソンがホームズの言語を拒否するのは、それが、証明されていない仮説にすぎない、話し手と受け手の世界経験の同質性の可能性を無条件に前提して押し付けてくるからである。(……)/ここにこの著作における、言語による伝達についてのディドロの基本的な立場を見ることができる。それは、主体間の同質性の仮定に基づく言語の拒否、異質性を認知した上での〈比喩的な〉言語コミュニケーションの可能性の主張である。(**小宮・1983・p.48)

 

 

ところが、それに対してルソーにおいても、同様に〈比喩的な〉言語コミュニケーションから出発しつつも、着地点としては全く正反対の位置に辿り着く。

 

すなわち、ルソーにおいて、言語コミュニケーションは、自己と他者の間の差異を廃棄しうる共通の一般概念(「人間」(オム))*に、言語主体である自己と他者の両者を同一化させることによって可能にされる、と。

 

*小宮・1983・p.52。

 

つまり、言語コミュニケーションの基盤を、ルソーは、互いの「同一性」に求めたが、ディドロは互いの「差異性」=「他者性」にこそ求めたのだ。この点こそがルソーとディドロを分かつ点であり、この比較の上で、ディドロの立場を再度確認すれば、

 

およそ言語コミュニケーションを可能とするものは、言語主体どうしの同質性ではなく、各主体が別々の存在としてこの世界をともに生きることだ(小宮・1983・p.55)

 

 ということになる。

 

 言うまでもなく、ここで問われていることは、ただ単に「言語コミュニケーション」の問題だけにとどまらず「悪」の発生現場に、我々は立ち会っていると言える。

 

(「悪の倫理学・覚え書き――その9 小宮彰「ディドロとルソー 内在と外在」について」/webサイト『鳥――批評と創造の試み』2017年3月9日更新・ただし現在非掲載)

 

📖

 

 

結 語 その1

 

 つまり、ジョイス『ユリシーズ』第12挿話に登場する「語り手」=「俺」は固有名を剥奪されることによって、彼(彼女?)の「単独性」、すなわち「かけがえのなさ」が奪われているのではないだろうか*[78]

 恐らく、柳瀬が、この「語り手」=「俺」に「犬性」、「犬っぽさ」を感じ取ったのはその辺りにあるのかも知れない。例えば、「語り手」=「俺」は犬故に、あるいはあたかも犬であるかのように、相棒ジョウと話が噛み合わない。ジョウはあたかも「語り手」=「俺」の話が理解できないかのように話がすれ違う。酒場に至っては、「主役」*[79]の座を「市民」たちに奪われて、「語り手」=「俺」は茶々こそ入れるが、話にはまるで参加していないかのようである。

 それに引き換え、飼い主こそ不明ではあるが犬の「ガリーオウエン」はなんと立派な固有名を持っていることだろうか。つまり、「語り手」=「俺」は犬以下の存在として描かれているのだ。

  そして、この「物語」では他の登場人物たちと比べて、比較的には、「弱者」に心を注ぐ存在であるブルームにすら一瞥さえされないのだ。

 恐らく、ジョイスは、いや、この「物語」の「ゼロの語り手」は、このような犬以下にも相当するような尊厳性を奪われた人間を強調するために暗黙下で固有名を奪い、しかしながら、そんな彼にも本来的な「単独性」はあるのだ、中心人物レオポルド・ブルームを「sheepsface」*[80]/「例の羊づら」*[81]と揶揄するぐらいには自尊心もあるとでも言いたっかたのか?

 

結 語 その2

 

  「語り手」=「俺」に「名前がない」、ということをもう少し考えてみたい。「名前がない」ということは、言うなれば、「誰でもない」ということではないか。この第12挿話で、べらべら喋っている「俺」は、実は「誰でもない」のだ。だから、名前がないのだ。「誰でもない」は「no-one」であるが、この「no-one」は『ユリシーズ』全体で36回出現する。無論文脈は様々であるが故に、軽々に論ずることは差し替えねばならないが、興味深い問題である。

例えば、こういう下りがある*[82]

 

No-one spoke.

( [Joyce, 2003/07/01up]p.210)

 

丸谷他訳では「誰も口をきかなった。」*[83]となっていて、別に誤訳でもなんでもない。が、素直に読めば「誰でもない者(モノ)(物(モノ)?)が話した」とも訳せる。

 この「誰でもないモノ」が、この「物(モノ)語」には横行しているのではないだろうか?  それは、時としては「物怪(モノノケ)」≒「亡霊(モノノケ)」(?)として、あるいは、誰とは特定できない、「浮遊する語り手」*[84]として、あるいは頻繁に「物語」を勝手に横断する鳥*[85]やら蝙蝠やら犬猫などの動物として。

 言うなれば、「語り手」=「俺」は、あるいは、この「誰でもないモノ」(no-one)に憑依かれて喋り倒しているのかも知れない。だから、本来的には、彼はそこにいるにも関わらず、「そこ」にはいないのではないか?

 それと対照的な存在が「市民」である。彼は「語り手」=「俺」が「誰でもない」(no-one)存在であるのに対して、「誰でもある」(everyone)のだ。だからこそ、彼は市民から「市民」と呼ばれるのだ。彼は、その意味で、どこにでもいるありふれた存在であり、言葉はよろしくないが、交換可能な存在である。つまり、今「市民」が坐って管を巻いているところに、明日は「市民B」が坐っても、明後日は「市民C」が坐っても何ら問題はないということになる。

 先に述べた柄谷行人の「特殊性」と「単独性」の対比を流用すれば、「市民」は他の市民といつでも何度でも交換可能な「特殊性」を持っているが、「語り手」=「俺」は、本来的には「この」「俺」性を持っているべきにも関わらず、その「単独性」を剥奪されている存在だと言える。

 つまり、「誰でもある」にはそもそも特定の「誰か」は存在しない。逆に「誰でもない」は、「誰か」が存在しないにも関わらず、逆説的に「誰か」、すなわち「単独性」を持ち得る特定の誰か、その不在を照射すると考えられる。


図 3 「市民」と「俺」の対比

  「語り手」=「俺」に固有名がないのは、以上述べたような背景めいたものを想定することも、あるいはできるかも知れない。

 

あと(ポス)の(ト・)祭り(フェストゥム)に

 

 以上述べたように、柳瀬の「語り手」=「俺」=犬説にわたしは与しない。

 しかしながら、わたしのような者の言うことではないが、柳瀬の主張は一石を投じたという意味以上の、それ相応の意味があると思う。まずもって、固定観念に囚われてはいけない。もっと自由な発想をすべきである、という点である。そもそも文学には正解などないのだ。仮に作者がそれは違う、と言っても、その意見がより作品の内在する力を発見/発現する読み方であれば、その方がより「正解」に近いかも知れない。

 とは言うものの、柳瀬の読解は残念ながら、「語り手」=「俺」=犬説が固定観念になり、それに固執する余り、彼が本来持ちえた読解力を曇らせてしまった、ということも一つの事実ではないかとは思う。

 柳瀬は本書「あとがき」においてこう述べる。

コラム ☕tea for one ~柳瀬尚紀 ジェイムズ・ジョイス関係の本~

コラム ☕tea for one

 

 

~柳瀬尚紀 ジェイムズ・ジョイス関係の本~

 

〈単著〉

1. 『フィネガン辛航紀――『フィネガンズ・ウェイク』を読むための本』1992年・河出書房新社。 

2. 『辞書はジョイスフル』1994年・TBSブリタニカ/1996年・新潮文庫。

3. 『ジェイムズ・ジョイスの謎を解く』1996年・岩波新書。

4. 『ユリシーズ航海記――「ユリシーズ」を読むための本』2017年・河出書房新社。

〈共著〉

5. 羽生善治との対談『対局する言葉――羽生v.s.ジョイス』1995年・毎日コミュニケーションズ/1996年・河出文庫。

〈翻訳〉

6. ボブ・ケイトー、グレッグ・ヴィティエッロ『肖像のジェイムズ・ジョイス』1995年・河出書房新社。

7. ジェイムズ・ジョイスのテキストからの抜粋、松永学写真『ユリシーズのダブリン』1996年・河出書房新社。

8. ジェイムズ・ジョイス『フィネガンズ・ウェイク』全2巻・1991 - 1993年・河出書房新社/全3巻・2004年・河出文庫。

9. ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』3冊(未完)1996 - 1997年・河出書房新社。

10. ジェイムズ・ジョイス『ダブリナーズ』2009年・新潮文庫。

11. ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ――1 - 12』2016年・河出書房新社。

(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』を参照した)

📖

 

「〈俺〉=犬という方程式」はどこからも崩れないという自信はあるが、細かな変化手順に煤がかかっているかもしれない。犬明にして賢明なる読者の叱声は快く受け入れたい。

( [柳瀬, 『ジェイムズ・ジョイスの謎を解く』, 1996年]p.229)

 

まずもって、自説を「方程式」と書く段階で首を傾げざるを得ない。そんな万能な理論が文学に存在するのだろうか? しかし、それほどまでに「どこからも崩れないという自信」があったのであろうかと思うと逆に胸が痛む。

  もしも、柳瀬が天寿を全うして、中絶してしまった『ユリシーズ』全巻の完訳を成し遂げ、更には、柳瀬の歿後に追悼として刊行された『ユリシーズ航海記――『ユリシーズ』を読むための本』をも完成させたとしたら、その過程で、あるいは別の考えに至ったかもしれない。

 このような駄文を以て「天才」と言われた翻訳家に手向けるのは甚だ心苦しいが、わたしなりに真摯に向き合った結果である。

 柳瀬尚紀氏の余りにも早い死を心より悼み、あとがきに代えさせていただく次第である。

 

【主要参考文献】

JoyceJames . (2003/07/01up). Ulysses. 参照先: 『Project Gutenberg(プロジェクト・グーテンベルク)』.

ジョイスジェイムズ. (1922年/2016年). 『ユリシーズ1ー12』. (柳瀬尚紀, 訳) 河出書房新社.

ジョイスジェイムズ. (1922年/96年-97年/2003年). 『ユリシーズ』. (丸谷才一・永川玲二・高松雄一, 訳) 集英社/集英社文庫ヘリテージシリーズ.

ジョイスジェイムズ, 柳瀬(訳)尚紀. (1939年/1991年-1993年). 『フィネガンズ・ウェイク』(和訳全2巻). 河出書房新社.

夏目漱石. (1892年/1996年). 「老子の哲学」. 著: 夏目漱石, 『漱石全集』第二十六巻. 岩波書店.

丸谷才一. (2000年). 『闊歩する漱石』. 講談社.

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江川卓. (1986). 『謎とき『罪と罰』』. 東京: 新潮選書.

江藤淳. (1956年/1974年/1979年). 『決定版――夏目漱石』. 東京ライフ社/新潮社/新潮文庫.

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江藤淳. (1993年). 『漱石とその時代』第三部. 新潮選書.

三浦雅士. (2008年). 『漱石――母に愛されなかった子』. 岩波新書.

柄谷行人. (1989年、1994年). 『探究Ⅱ』. 講談社、講談社学術文庫.

木村敏. (1982年). 『時間と自己』. 中公新書(中央公論新社).

柳瀬尚紀. (1996年). 『ジェイムズ・ジョイスの謎を解く』. 岩波新書(岩波書店).

柳瀬尚紀. (2017年). 『ユリシーズ航海記――「ユリシーズ」を読むための本』. 河出書房新社.


 

 

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44,403字(112枚) 20220909 1021

(初出 『鳥――批評と創造の試み』第14号・2022年9月11日・鳥の事務所)



*[1] 文学の翻訳書の訳註をどうするかというのはなかなか難しい問題である。集英社から出ているジョイスのシリーズは詳細な訳註が売り物だ。実際、素人には調べようがない、つまり、そもそも気づきようがないものもあり、確かに重宝する。だが、逆に柳瀬尚紀は訳書の本体には一切註を付けない。恐らく、読書の流れが阻害されることを恐れているのかもしれない。文学書なのだから、まずは自力で分かる範囲で良いから、読んでみよということだろうか。その代わり、柳瀬は『フィネガンズ・ウェイク』には『フィネガン辛航紀――『フィネガンズ・ウェイク』を読むための本』(1992年・河出書房新社)、『ユリシーズ』には『ジェイムズ・ジョイスの謎を解く』(1996年・岩波新書)と『ユリシーズ航海記――『ユリシーズ』を読むための本』(2017年・河出書房新社)という解説書を残している。まず、通読した後に、解説を読みたい者は読め、ということか。ロシア文学で言えば、亀山郁夫が同じ態度である。本文には訳註を入れない。その代わり、巻末に詳細な解説を収録するか、場合によっては、別冊で解説書を刊行している。どちらが正しいかどうかという問題ではないが、個人的な意見としては註や解説は本文を通読したのち、自分なりの感想なり、批評なりを持った後に眼を通すのがよいのではないかと思う。

*[2] 本挿話にはさほど登場しないが、『ユリシーズ』全体を通して登場する通称「マッキントッシュの男」も無名である。話が拡がり過ぎるので、一旦本稿ではこの人物については触れない。

*[3] [柳瀬, 『ジェイムズ・ジョイスの謎を解く』, 1996年]p.40。

*[4] 柳瀬によれば「〈俺〉は人間語を完璧に解するが、人間はまったく犬語を解せないこと。」( [柳瀬, 『ジェイムズ・ジョイスの謎を解く』, 1996年]p.46)ということだが、そうなのだろうか? 人間が犬語の細かいところまでは理解出来ぬのと同様に、犬だって人間の話の詳細は分かりかねるのではなかろうか? 

*[5] 【引用者註】circumcise  (宗教的儀式として)割礼を行なう、包皮を切り取る、陰核の包皮を切り取る(新英和)。

*[6] 一応、柳瀬はこの下りについてもそれ相応の解釈をしている。「――こんなとこで何してる? /これまた、人間語の答を予測してはいない。//ああ、 そういえば、あのユダヤ人の店のあたりをうろついていたっけ。//――割礼ユダ公か? //返事を求めているのでなく、ジョウは自分に確認しているにすぎない。――あそこで食い繋いでるんだな? //これも同じく、ジョウが自分に納得しているだけのことだ。」( [柳瀬, 『ジェイムズ・ジョイスの謎を解く』, 1996年]p.42)。と言うのだが、「俺」=犬を証明した上での話であろう。

*[7] 【引用者註】 (…に)疑いを抱いて、確信がなくて、疑いを抱いて、確かでなくて、疑わしい、はっきりしない、あやふやな、おぼつかない、ありそうもない、いかがわしい(weblio).

*[8] 【引用者註】(具体的な)借金、負債、債務、借金(している状態)、(他人に)負うているもの、おかげ、恩義(weblio). /a bad debt 貸し倒れ(新英和)。

*[9] [Joyce, 2003/07/01up]p.658。

*[10] [ジョイス, 鼎訳, 1922年/96年-97年/2003年]文庫第Ⅱ巻p.282。

*[11] [柳瀬, 『ジェイムズ・ジョイスの謎を解く』, 1996年]p.34。

*[12] [柳瀬, 『ジェイムズ・ジョイスの謎を解く』, 1996年]p.34。

*[13] 【引用者註】 包皮(weblio).

*[14] [Joyce, 2003/07/01up]p.30。

*[15] [ジョイス, 鼎訳, 1922年/96年-97年/2003年]文庫第Ⅰ巻p.40。

*[16] [柳瀬, 『ジェイムズ・ジョイスの謎を解く』, 1996年]p.35。

*[17]【引用者註】 【聖書】 エホバ,ヤハウェ 《旧約聖書の神; ヘブライ語原典の誤読に基づく呼称; cf. Yahweh》(新英和).

*[18] [柳瀬, 『ジェイムズ・ジョイスの謎を解く』, 1996年]p.36。

*[19] [柳瀬, 『ジェイムズ・ジョイスの謎を解く』, 1996年]p.37。

*[20] 【引用者註】 old Troy( [Joyce, 2003/07/01up]p.654)/「トロイ爺」( [ジョイス, 鼎訳, 1922年/96年-97年/2003年]文庫第Ⅱ巻p.281)。

*[21] [柳瀬, 『ジェイムズ・ジョイスの謎を解く』, 1996年]p.46。

*[22] 【引用者註】(ものが作られている)材料、原料、資料、要素、素質、(特定のものをささない、漠然とした)もの、物質、食物、飲み物(weblio).

*[23] says I 【引用者註】 「〈says I〉という英語は、〈said I〉の訛った音の表記、あるいはその訛を滑稽にひびかせた書き方である。」( [柳瀬, 『ジェイムズ・ジョイスの謎を解く』, 1996年]p.70)。

*[24] 【引用者註】 come around (2) ぶらりとやってくる, 立ち寄る./Come around and see me this evening. 今晩訪ねてきたまえ(新英和).

*[25] 犬である「俺」が、やはり犬であるガリーオウエンのテリトリーに入るという場合( [柳瀬, 『ジェイムズ・ジョイスの謎を解く』, 1996年]p.87)。

*[26] 「俺」とジョウが酒場バーニー・キアナンに入ったシーン( [柳瀬, 『ジェイムズ・ジョイスの謎を解く』, 1996年]p.p.71-73/ [ジョイス, 鼎訳, 1922年/96年-97年/2003年]文庫第Ⅱ巻p.p.288-290)。

*[27] ジョウが「俺」を酒場バーニー・キアナンに誘うシーンの辺り( [柳瀬, 『ジェイムズ・ジョイスの謎を解く』, 1996年]p.p.51-52/ [ジョイス, 鼎訳, 1922年/96年-97年/2003年]文庫第Ⅱ巻p.p.284-285)。

*[28] ただ、ジョイスの場合、このようなこれ見よがしの記述を鵜呑みにするのは危険である。わたし個人としては、「俺たちの友達」が誰を指すのか、正直言って分からないというしかない。

*[29] [Joyce, 2003/07/01up]p.659。

*[30] [ジョイス, 鼎訳, 1922年/96年-97年/2003年]文庫第Ⅱ巻p.283。ここで丸谷他訳で「あいちゅ」とか「わち」というような擬幼児語というのか舌足らずの言葉を何故当てているのかわたしには分からない。

*[31] [柳瀬, 『ジェイムズ・ジョイスの謎を解く』, 1996年]p.56。

*[32] [柳瀬, 『ジェイムズ・ジョイスの謎を解く』, 1996年]p.52。

*[33] [柳瀬, 『ジェイムズ・ジョイスの謎を解く』, 1996年]p.p.55-56。

*[34] [柳瀬, 『ジェイムズ・ジョイスの謎を解く』, 1996年]p.55。

*[35] [柳瀬, 『ジェイムズ・ジョイスの謎を解く』, 1996年]p.p.59-60。

*[36] [Joyce, 2003/07/01up]p.657.

*[37] [ジョイス, 鼎訳, 1922年/96年-97年/2003年]文庫第Ⅱ巻p.282。

*[38] 【引用者註】 1パイント 《液量の単位; =1/2 quart,4 gills; 略 pt.》:/a《主に米国で用いられる》 0.473 リットル./b《主に英国で用いられる》 0.568 リットル.(中略)3a1 パイントの容器./b《英口語》 1 パイントのビール.(新英和)。/例文 Fancy a pint?/一杯どう? (Tatoeba例文)。

*[39] 【訳註】「パーネルの不倫を巡って国論が二分されていたとき、マカナスピという人物がパーネル擁護の長広舌をふるい、後から立った人は仕方なく「マカナスピに同じ」と言った(G)。」( [ジョイス, 鼎訳, 1922年/96年-97年/2003年]文庫第Ⅱ巻p.591)「G」はDon Gifford,Ulysses Annotated.University of California Press,1988.のこと。

*[40] [柳瀬, 『ジェイムズ・ジョイスの謎を解く』, 1996年]p.75。

*[41] 全くの余談だが、言うまでもなく「ホステス」/「hostess」は一般に「女主人」のことである。新英和によれば「1女主人(の役), ホステス(役) (cf. host1 1)./2(旅館などの)女将(おかみ)./3(列車・長距離バスなどの)スチュワーデス; (旅客機の)スチュワーデス,エアホステス (cf. air hostess)./4(ナイトクラブ・ダンスホールなどの)ホステス 《★【解説】 ハワイなどを除く米国本土や英国では,男性客をもてなすためのホステスを置くバーやクラブはほとんどない》.」とある。だから、日本語の「ホステス」は語の本来の意味では誤用ということになるが、同様に、その対語の「ホスト」/「host」も本来的には「主人」という意味だろうが、日本語のそれは、丁度「ホステス」の対語になっていて、「ホストクラブ」において、女性客をもてなす男性接客員ということになるが、どうして揃いも揃ってこのような、恐らく意図的な誤用が発生したのであろうか? と言ってもいまやホステスは、その勤務先である「キャバレー」と並んで死語になりつつあるとは思うが。こう考えてくると「キャバレー」が怪しいかも知れぬ。しかしそれはまた別の話だ。

*[42] [柳瀬, 『ジェイムズ・ジョイスの謎を解く』, 1996年]p.111。

*[43] [柳瀬, 『ジェイムズ・ジョイスの謎を解く』, 1996年]p.111。

*[44] 可能態(デュナミス)はアリストレスの言葉。スティーヴンが「主役」を務める第2挿話や第9挿話で言及される。「デュナミス (dynamis / dunamis) とは、能力・可能態・潜勢態の意味を持つ、アリストテレスの哲学の概念である。/『自然学』などで解説された。事物の生成とは可能的なものが現実的なものに発展することである、とアリストテレスは考えた。たとえば、まだ花でないものとしての種子(可能的なもの)は、発展することで花(現実的なもの)となる、と。このような時、前者を「デュナミス」、後者を「エネルゲイア」と呼んだ。」(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

*[45] コラム「ゼロの語り手」参照。。

*[46] 【引用者註】 =confabulation懇談、談笑、打ち解けたおしゃべり(weblio).

*[47] 【引用者註】限定用法の形容詞 (比較なし) 《英俗》 ひどい,いやな,べらぼうな 《★【用法】 しばしば単に強意語として用いられる》/a bloody liar 大うそつき(新英和).

*[48] 【引用者註】皮癬(ひぜん)にかかった、(皮癬にかかって)毛の抜けた、毛の抜けた、すり切れた、不潔な、みすぼらしい(weblio).

*[49] 【引用者註】雑種犬、(動植物の)雑種、合の子、混血児(weblio).

*[50] 【引用者註】とても元気です(新英和).

*[51] 【訳註】(相棒) アイルランド語( [ジョイス, 鼎訳, 1922年/96年-97年/2003年]文庫第Ⅱ巻p.591)。

*[52] 【引用者註】未詳。

*[53] 【引用者註】襟首、首筋(weblio).

*[54] 【引用者註】throttle 〈人などの〉のどを絞める,〈人などを〉窒息させる(新英和).

*[55] [柳瀬, 『ジェイムズ・ジョイスの謎を解く』, 1996年]p.119。

*[56] [柳瀬, 『ジェイムズ・ジョイスの謎を解く』, 1996年]p.145。

*[57] [柳瀬, 『ジェイムズ・ジョイスの謎を解く』, 1996年]p.146。

*[58] [柳瀬, 『ジェイムズ・ジョイスの謎を解く』, 1996年]p.149。

*[59] [柳瀬, 『ジェイムズ・ジョイスの謎を解く』, 1996年]p.146。

*[60] [柳瀬, 『ジェイムズ・ジョイスの謎を解く』, 1996年]p.196。

*[61] 著名なジョイス学者である大澤正佳・日本ジェイムズ・ジョイス協会初代会長はこの件につき「人のような犬でも、犬のような人でも、同じじゃないの?」(趣旨)と或る鼎談の場で発言したらしい(on line講義『22Ulyssesージェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』への招待』第13回(2022年8月5日)での横内一雄・関西学院大学教授による教示による)。

*[62] 「実際、質問するというのは難しいことです。本当にうまく質問することができたら、もう答えは要らないのですよ。」(小林秀雄『学生との対話』2014年・新潮社・p.116)/「ベルグソンは若いころにこういうことを言っています。問題を出すということが一番大事なことだ。うまく出す。問題をうまく出せばそれが答えだと。」(小林秀雄「人間の建設」(岡潔との対談)/『小林秀雄全作品』25・2004年・新潮社・p.187)

*[63] なにしろ、いつもの見開きの左側にある*印の註がない。題名がいささか意味不明。

*[64] [丸谷, 2000年]p.176。

*[65] ミハイル・バフチン『ドストエフスキーの詩学』望月哲男・鈴木淳一訳・1995年・ちくま学芸文庫。

*[66] 「メニッペア」とは丸谷によれば、「前三世紀前半の人と推定されるシリアの文人=哲学者、好んで風刺とパロディをものにしたガダラのメニッポスに由来する」( [丸谷, 2000年]p.186)もので「いはばカーニヴァル文学の代表格であつて、一定の型にとらはれず、変幻自在に形を改めながら、混沌としたもの、祝祭的感覚を表現することができた」( [丸谷, 2000年]p.190)ということらしい。外国の古典を例に挙げても例にならないだろうから、要は日本では漱石の『猫』を考えればいいということになるだろうか。

*[67] 【引用者註】ルキアノスは「120年ないし125年頃 - 180年以後)は、ギリシャ語で執筆したアッシリア人の風刺作家である。」(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

*[68] 「社会類型として存在するのではない」という下りも引っかかるが、丸谷本人が、さほど厳密な議論をしようとしているとは思えないので、まあ、一旦よしとしよう。

*[69] 『1973年のピンボール』(1980年・講談社)に登場。

*[70] しつこいが、「則天去私」とつなげたいのか? それにしても「アナーキズム」なのか?

*[71] もう少し、補足しておくと、こういうことか。要はその猫に名前を付ける(=固有名を与える)必要性を感じなかったのではないか? つまり、他の猫とわざわざ区別する必要性を漱石は感じていなかったのではないか。余談ではあるが、わたしの家にはメダカがいる。可愛がっているつもりではあるが、名前はまだない。――というか永久にない、多分。たくさんい過ぎて、区別できないから名付けようがないのだ(´;ω;`)。

*[72] [柳瀬, 『ジェイムズ・ジョイスの謎を解く』, 1996年]p.p.1-20。

*[73] [江藤, 『決定版――夏目漱石』, 1956年/1974年/1979年]p.p.58-70。

*[74] [三浦, 2008年]p.32。

*[75] ヴィクトル・シクロフスキー「パロディの長篇小説」/『散文の理論』1925年/水野忠夫訳・1983年・せりか書房。

*[76] この段落は [柄谷, 1989年、1994年]p.10第1段落の要約。

*[77] ここの下りは、柄谷の思想の紹介としても不十分であり、とりわけ、柄谷自身が取り上げている「可能態」の問題と「偶然性」の問題は固有名を考えるのに極めて重要な視角だと思うが、十分展開できなかった。他日を期したい。

*[78] この挿話には「市民」と呼ばれる一癖もありそうな人物が登場するが、この「市民」は本名ではないにせよ、通称であり、人々からもそう呼ばれているとことからすると一旦は、固有名扱いと考えてよいのかも知れない。要するに「坊っちゃん」と同じである。したがって「語り手」=「俺」と同列には論じられない。むしろ、この場合の「市民」(the citizen)は「国民」(the nation,the people)と同じような意味であって(と言っても、アイルランド独立は1922年のことだから、物語の現在である1904年にはアイルランドという国家は存在しなかったが)、彼「市民」はあたかもアイルランド市民(国民)を代表するかのような態度と口振りだと言える。そういう人々、つまり市民があちこちの酒場にいたのではないかと推測する。無論、作者(たち)はそれを揶揄っているのだが。

*[79] まあ、元々、「主役」でも、何でもなかったが。

*[80] [Joyce, 2003/07/01up]p.682。

*[81] [ジョイス, 鼎訳, 1922年/96年-97年/2003年]文庫第Ⅱ巻p.402。

*[82] 「No-one spoke.」と「物・語り」についてはon line講義「22Ulyssesージェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』への招待」第7回(2022年5月6日)における道木一弘・愛知教育大学教授の発表「「物・語り」から頭韻・アナグラムへ――テクストの自律性について」による。

*[83] [ジョイス, 鼎訳, 1922年/96年-97年/2003年]文庫第Ⅰ巻p.238。

*[84] 『ユリシーズ』第11挿話「セイレーン」には、女給たちの対話の合間に差し挟まれる傍白のような言葉が10数か所存在する。「悲しい気持ちで。」( [ジョイス, 鼎訳, 1922年/96年-97年/2003年]文庫第Ⅱ巻p.192)、「男。」( [ジョイス, 鼎訳, 1922年/96年-97年/2003年]文庫第Ⅱ巻p.193)、「ブルーム。」( [ジョイス, 鼎訳, 1922年/96年-97年/2003年]文庫第Ⅱ巻p.194)、「しかしブルームは?」( [ジョイス, 鼎訳, 1922年/96年-97年/2003年]文庫第Ⅱ巻p.196)などであるが、小説世界を全て熟知している「作者」の視点とは異なり、登場人物たちと同じ地平にいるかと思えば、自由自在にこの世界を移動する視点とも言える。或る意味では無責任に合いの手をいれてくる存在だが、言うなれば「幽霊」のような存在がこの世界とは無関係に呟く「浮遊する視点」と言ってもいいかも知れない。

*[85] 『ユリシーズ』に登場、というよりも跋扈する鳥やら動物、――まさに「鳥獣戯画」とも言うべきではあるが、大変重要なテーマだと思う。是非別稿「鳥獣戯画としての『ユリシーズ』」を立てたい。

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