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謎々『ユリシーズ』その12 哄笑する「語り手」の影*[1]――「第12挿話 キュクロプス」を読む

Κύκλωψ

エラスムス・フランキスキ(Erasmus Francisci)の著書に見られるキュクロープスの挿絵(ウィキペデアより援引)





謎々『ユリシーズ』その12

 

哄笑する「語り手」の影*[1]

――「第12挿話 キュクロプス」を読む


【凡例】

・『ユリシーズ』からの引用は集英社文庫版による。鼎訳・巻数、ページ数で示す。単行本からの引用は、鼎訳・単行本・巻数、ページ数で、柳瀬尚紀訳からの引用は、柳瀬訳・ページ数で示す。また、英語原文はwebサイト『Project Gutenberg(プロジェクト・グーテンベルク)』(Ulysses by James Joyce - Free Ebook (gutenberg.org))によった。

・『新英和中辞典』(研究社・電子版)はwebサイト「weblio」からの引用であり、以下「新英和」と略記し、最終更新日、閲覧日については省略する。一般的な訳語についての語註は「weblio」の見出しから取り、「weblio」と表記する。

・綿貫陽、宮川幸久、須貝猛敏、高松尚弘、マーク・ピーターセン『徹底例解ロイヤル英文法』改定新版・2000年・旺文社からの引用は「ロイヤル」と略記する。

・引用文の傍線(下線)、傍点の類いは何の断りもない場合は引用者によるものである。



〈登場人物〉

²  「おれ」

²  トロイ爺

²  煙突掃除屋の野郎

²  ジョー・ハインズ

²  泥棒狐

²  モーゼズ・ハーゾッグ

²  ゲラッティ 《途中》

 

 

1.   極端な言い方をすると、本挿話に至って初めて、初読目から「面白い」と感じました。他の挿話は、まず大抵は初読目は意味が摑めず、いわゆる読書の楽しみとは懸け離れた、或る種の苦行のようなもので、再読目でじっくり読むことで、じわりじわりとくる面白さを味わうことが辛うじてできます。いずれにしても、本挿話は、言うなれば、筒井康隆の文体や方法論、あるいはその作品世界と通底するものがあるようにも思います。筒井さんのエッセイや評論にジョイスを論じたものがあるかどうかは不明ですが、恐らく影響関係というよりも、結果的に相似形をなしてしまったのかなとも思います。問題は、筒井さんが小説の実験性と同時に或る種のエンタテインメントを担保し、常に第一線で活躍しているのに対して(その是非、功罪は一旦措くとして)、ジョイスは余りにも実験性が行き過ぎてしまい、いわゆる文学好き、小説読みからも敬遠される存在になったことは残念ではありますが、その責の大半はジョイス本人に帰されるものだと思います。本挿話そのものとはいささかズレますが、『フィネガンズ・ウェイク』まで視野に入れるとすれば、一体、何がジョイスをここまで「追い詰めた」のでしょうか? 何故にジョイスは文学世界の孤高の狼への途(みち)を択ばざるを得なかったのでしょうか?

2.   「Who’s the old ballocks*[2] you were talking to?」(p.657)/「おめえがはなしてた凸凹おやじは誰だ?」(鼎p.281)/「いま話してた老いぼれ睾丸(きんたま)は誰だ?」(柳瀬p.497)とありますが、「ballocks」を「金玉野郎」とかとするのを避けた(下品だから?)としても、いくら何でも「凸凹おやじ」はないだろう、と思います。せいぜい「ポンコツ爺(じじい)」ぐらいかと思いますがいかがでしょうか?

3.   「There’s a bloody*[3] big foxy*[4] thief beyond by the garrison church at the corner of Chicken lane(……)」/「そこのチキン小路の角の守備隊教会のそばに糞ったれの泥棒狐が住んでいて(下略)」(鼎p.282)/「べらぼうな大狐泥棒がいてよチキン小路の角のギャリソン教会のとこだ(下略)」(柳瀬p.497)の「foxy thief」ですが、これはすぐ出てくる「ゲラッティ」のことだと思いますので人間のことです。したがって直訳は「狐のようにずる賢いこそ泥野郎」という意味で「泥棒狐」として、これは実際には狐かも知れないという含みも持たせるということでいいのかと思います。どころが柳瀬訳の「狐泥棒」としてしまうと、「狐を泥棒する者」という意味になり、おかしなことになりそうです。しかし、「狐」は第二挿話で墓を漁り、母を探す表象として登場する、――わたし個人の考えですが、極めて重要な意味を持っていると思います。柳瀬さんは何か意図があって、こういう、あえて誤読ではないかと思われる訳語を選択されたのかと思いますが、いかがでしょうか?

4.   「Moses Herzog」(p.658)/「モーゼズ・ハーゾグ」(鼎p.282)のあだ名とされる「a hop-of-my-thumb」(p.658)という表現は慣用的なものとして存在するのでしょうか? 鼎訳は「一寸法師」(鼎p.282)、柳瀬訳は「ちび公」(柳瀬p.497)と訳していますが、「おれの親指で一弾(ひとはじ)き(一(ひと)跳(は)ね)」と直訳してみると、「一寸法師」は言わずもがな、「ちび公」というよりも、それほど「軽い奴」というような意味か、とも思うのですが、いかがですか?

5.   「—Devil a much, says I. There’s a bloody big foxy thief beyond by the garrison church at the corner of Chicken lane—old Troy was just giving me a wrinkle about him—lifted any God’s quantity of tea and sugar to pay three bob a week said he had a farm in the county Down off a hop-of-my-thumb by the name of Moses Herzog over there near Heytesbury street.」(p.657)

6.   「—What about paying our respects to our friend? says Joe.」(p.660)/「――おれたちの友達に敬意を表して一杯やるってなあ、どうだい? とジョーは言う。」(鼎p.284)とありますが「おれたち友達」とは一体誰のことですか? 文脈的には「the citizen」/「市民」のことかとは思いますが、そうなのでしょうか? 「respects」/「敬意」というのは皮肉か何かで言っているのでしょうか?

7.   「—It’s the Russians wish to tyrannise.」/「ロシアは世界征服をもくろんでいる。」(p.289)とありますが、帝国主義の流れの中では、どこの国でも、多かれ少なかれ、「世界征服」をもくろんでいたと思います。そんなことを言えば、まず大英帝国をこそ指弾すべきでしょう。しかし、ここでロシアが言及されるのは、この当時、世界の仮想敵国のような役回りをロシアが「担っていた」からなのでしょうか? それとも、日露戦争のことが念頭にあったからなのでしょうか?

8.    

《中絶》

 

3272字(9枚)

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*[1] この題号は、かの江川卓の『謎解き『罪と罰』』(単行本化改題『謎とき『罪と罰』』1986年・新潮選書)の『新潮』連載第一回のタイトル「哄笑する人形師の影」(『新潮』1983年3月号)を意識している、というよりもほとんどパクリのようなものである。江川は、その著『ドストエフスキー』(1984年・岩波新書)において「ゼロの語り手」( [江川, 『ドストエフスキー』, 1984]p.p.73-86)という概念を提出しているが、そこでは、必ずしも十全に説明が尽くされている訳ではないが、ここの言う「「語り手」の影」というのは、この江川の「ゼロの語り手」を概念のモデルとしている。詳細は別稿にて論ずる、と言いたいところだが、わたしが元気であれば、という条件が付くが……。

*[2] ばかげたこと、たわごと、睾丸(こうがん)、きんたま(weblio).

*[3] 限定用法の形容詞 (比較なし) 《英俗》 ひどい,いやな,べらぼうな 《★【用法】 しばしば単に強意語として用いられる》.(weblio).

*[4] 1キツネのような; ずるそうな,こうかつな./2 aきつね色の./b〈紙など〉きつね色に変色した. (weblio).

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