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人間の拡張 ――村上春樹「眠り」考

村上春樹試論 Ⅴ 

  

人間の拡張

――村上春樹「眠り」考

 

1 夢見るための目覚め

 

「夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです」

 

 これは村上春樹の言葉、というよりも村上の著書、インタビュー集の書名である*。しかしながら、村上自身の或る種の実感がそこに表れていると言ってよいだろう。

 

*村上春樹『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです――村上春樹インタビュー集 1997⁻2009』2010年・文藝春秋。

 

 眼が覚めると夢の中だというのだから、現実と夢想の世界が丁度反転している形になっているということだろうか。

 もちろん、そうではなくて、直接的には、村上は小説という、共有可能な夢を紡ぐために起床しているのだという意味だろう。書名の元になったインタビューの題名は「書くことは、ちょうど、目覚めながら夢見るようなもの」*だからだ。

 

* 「書くことは、ちょうど、目覚めながら夢見るようなもの」2003年/前掲『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』。

 

 しかしながら、単に職業作家だけが持つ感覚というよりも、冒頭でも述べたが、そこに或る種の感覚、夢の世界の方がリアリティがあり、現実の日常生活の方がむしろ空疎な、あるいはどこかしら底抜けの感じがして摑みどころがない、という感覚は広く一般の人々にも感じられているのではなかろうか。

 言うなれば、夢の世界は、例えば小説の世界でもあるし、広く、映画やテレ‐ヴィジョン・ドラマ、あるいは演劇などの世界にも敷衍することができるかも知れない。

 無論、現実の社会情勢や具体的な事実に竿を差した作品も多く見られることだろう。しかしながら少なからぬ、文学に限らず、現代の表現者たちが、夢の世界に捉えられていることは間違いないと思われる*。

 

*この問題、すなわち多くの文学者たちが夢の世界、すなわち「幽霊」に囚われていることを論じたのが三浦雅士「孤独の発明 または彼岸の論理」(原題「孤独の発明」/『群像』2010年1月号~2011年6月号・講談社。未刊行)に他ならない。

 

 ただ、今回述べたいと考えていることはそういうことではない。そのことを考察するために、村上の短篇小説「ねむり」*を挙げてみたいと思う。

 

*村上春樹「眠り」/

①雑誌初出『文學界』1989年11月号・文藝春秋/

②単行本  村上春樹『TVピープル』1990年・文藝春秋。

③全面改稿、アートブック 村上春樹・イラストレーション カット・メンシック『ねむり』2010年・新潮社。本稿では③を使用した。

 

2 「ねむり」

 「ねむり」は簡単に言えば「不眠症」の話である。「専業主婦」という言い方がOKなのかどうか不明だが、一旦このまま続けると、30歳*の専業主婦の女性が「不眠症」になって「十七日目になる」**。だが「不眠症」ではなくて、「ただ単に眠れないのだ」。「でも眠れないという事実を別にすれば、私は至極まともな状態にある。まったく眠くないし、意識はクリアに保たれている。むしろ普段以上にクリアだと言ってもいい。」***と言うのだ。したがって、あるいは「病気」(の一種)かも知れぬが、何しろ本人に今のところ、全く害がない、むしろ以前よりも快調のようにも読めるぐらいだから、問題はなさそうだ

 

*『ねむり』p.19。

 

** 『ねむり』 p.7

 

*** 『ねむり』 p.12

 

3 覚醒、あるいは人生の拡大

 眠れなくなって彼女はどうなったのか。夜中は起きている。というか24時間ずっと目覚めている。今まで飲んでいなかったブランディーを口にし、夫が歯医者のため禁止されていたチョコレートを食べ、そして『アンナ・カレーニナ』を異様な集中力で読み続ける。最初の一週間で3回も読んでしまう。その都度新しい発見をする。そして、

 

どれだけ意識を集中しても私は疲れなかった。(中略)いくらでも読み続けることができた。どれだけ意識を集中しても疲れを覚えなかった。どのような難解な箇所も難なく理解することができた。(中略)そして深く激しく感動もした。(『ねむり』p69)

 

そして彼女はこう言う。

 

これが本来の私のあるべき姿なのだ、と私は思った。大事なのは集中力だ、私はそう思った。(『ねむり』 p.69)
 

「覚醒」というのはまさに今まで眠っていたものが目覚める、あるいは隠されていた可能性が開花することを意味するが、まさにそれだ。

要するに彼女に訪れたのは、今まで睡眠という形で一日の中の何時間が「無駄に」消滅していった時間が、有効に使えるようになった。つまり一日の時間が増殖したということになるというのだ。それは言い換えるなら「要するに私は人生を拡大しているのだ」*ということになる。

 

* 『ねむり』 p.67・下線部、原文は傍点。

 

 無論消費できる時間が増えているのだから「拡大」ということになるが、先述した、主人公の「不眠」以後の様子を見ていると別の言い方が浮かんでくる。彼女は眠れないのではなくて、眠らないのです。そのことによって、「人間の拡張」をしているのだ、と。

 しかし、そうは言っても、実際にはなかなか「人間の拡張」までは行っていないように思える。せいぜいが、本来のあるべき姿を取り戻しているぐらいが関の山かも知れない。また作者自身の意図としてもそこにはないかも知れない。

 しかし、この作品が潜在的に持っている可能性のようなものを考えていくと、どうもこの考えをわたしには捨てきれないのだ。

 それで結局どうなるのかと言えば、深夜にドライヴに出かけた主人公が波止場に停車していると、見知らぬ男たちに、車ごと揺さぶられるがどうすることもできない。そして「何かが間違っている。」*と独白して、諦めて泣くシーンで終わるのである。

 

* 『ねむり』 p.86・原文ゴシック体。

 

4 眠りの反転

 言うまでもなく、彼女は眠れなかったのではなく、むしろ逆で、眠っていたのである。題名が「ねむり」とあるのだから、眠っているのだ。果たして、17日とか、そのような長期に渡る眠りかどうかは分からない。もし、そうだとすると昏睡状態ということになる。

 車を揺さぶっている男たちは「二つの影」*とあるから、二人です。順当に考えれば、彼女の夫と息子が眠っている彼女を起こそうとしていると考えることができる、一応は。

 

* 『ねむり』 p.85。

 

 最後のシーンで主人公が諦めて泣いているのは、むりやり現実世界に連れ戻そうとする夫と息子という「現実」を忌避しているとも考えられる。

 

5 内面の世界へ

 さて、一体これは何を意味しているのか。無論、作者村上の意図を問うている訳ではない。ここからどんな意味を汲み取ることができるのか、という意味である。

 逆と言っていいのか、同じと言っていいのか分からないが、村上の中篇小説『アフターダーク』*には2か月間眠りから目覚めない女性が登場する。この場合は昏睡状態と言ってもよいだろう。彼女はこの作品の主人公の姉だが、外部からしか描かれないため、その眠りの世界の内面は分からない。そもそもなぜ2か月間も昏睡状態なのかも分からない。

 

*村上春樹『アフターダーク』2004年・講談社。

 

 ただ、村上にとってこの状況は何がしかの、あるいはそれ以上の意味を持つものだろうということは朧気ながら伝わってくる。

 というのはこの夢想世界と現実世界、言ってよければあの世とこの世の二重構造、対比構造は村上の作品ではしばしば見受けられるものだからだ。

 典型的なものが、まさに題名通りと言うべきだが、出世作『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』*。まさにあの世とこの世である。

 

* 村上春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』1985年・新潮社。

 

 この世であるところの現実世界ではハードボイルドさながらの冒険活劇が繰り広げられるが、あの世である「世界の終り」では「自我意識」を失った人々が謐かに、そして「永久」に暮らす場所だ。実はこの「世界の終り」は「ハードボイルド・ワンダーランド」の主人公「私」の自意識のコアであるとされる。最後的に「私」は組織の暗躍? によって意識を喪い、つまりは昏睡状態になるわけだが、その奥で、「世界の終り」の主人公の「僕」は、ということは「僕」は「私」の自意識ということになるが、その「世界の終り」の世界は間違っているから脱出しようと誘う「影」、つまり「僕」の「無意識」に相当するのか、その「影」の誘いを断り、その「世界の終り」の世界は「僕」自身なのだから、逃げ出すわけにはいかない、「責任」を取るべきだとしてその世界に僕は残ることになります。

 ここは村上自身も結末の付け方を迷ったとしているが、これで「正解」ではなかったかと思う。

 「私」は物理的には意識がなく半死半生状態ではあるが、自分の意識ではあるが、「世界の終り」の世界に「僕」として、恐らく永久に生き続けるのである。

 そして、もし『アフターダーク』の姉が眠っている世界も同じような半永久的な世界だとしたら。

 そして、同じように「ねむり」の主人公が眠っている、いや、生きている世界も同じだとしたら。

 いや、確かに「ねむり」の主人公も「あの世」に行っているのだろうけれども、「世界の終り」のような謐かな世界という訳ではなく、むしろ現実そっくりである。それは主人公は現実世界で眠れなくなった、というだけで、あとは別におかしなことはないから当然といえば当然だ。

 いや、そうではなくて、先に検討したように、彼女が自分自身で言うように「人生を拡大」しているというのを、彼女の能力が拡大している、もし、彼女が「死の世界」に「生きている」とすれば、矛盾と嗤うなかれ、「不死の世界」に生きているのだとすれば得心が行くのではないだろうか。

 言うなれば、人間の能力の限界まで拡張させてみた、言い換えるなら、人間の遠い彼方へ拡張させた、ひとつの姿がここにあると言えないだろうか。

 

6 「人間の拡張」

 「人間の拡張」 と言えば、言うまでもなくカナダの文明評論家マーシャル・マクルーハンの『人間拡張の原理』*を想起する方も多いだろう。

 

* Herbert Marshall McLuhan, Understanding Media: the Extensions of Man, (McGraw-Hill, 1964). /後藤和彦・高儀進訳『人間拡張の原理――メディアの理解』(竹内書店, 1967年)/栗原裕・河本仲聖訳『メディア論――人間の拡張の諸相』(みすず書房, 1987年)

 

 マクルーハンは、あらゆるメディアやテクノロジーは人間の能力の拡張として機能すると述べた。例えば脚の拡張が車輪であり、耳の拡張がラヂオであるという具合に。

 で、あるとすれば人間を拡張するヴィークル、乗り物として「夢」はありえないどうか。あるいは小説や映画、あるいは音楽作品というものが人間の能力を、あるいは人間のあり方を拡張しているのだと言えないだろうか?



4419字(12枚)



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初稿は2021年の6月から8月にかけて執筆

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