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私には「哲学者」になった友達がいる
今日は、私の面白い友達の話をしようと思う。
先月ぶりに会った彼は「哲学者」になっていた。
もう出だしの時点で面白い。面白すぎて困る。
彼は今「自由」について考えているようだ。私も思考のお手伝いをしながら、「自由」の本質に迫れないかと必死で考えていた。
この議論が繰り広げられたのは、地元のマクドの角の席。なんという状況なんだろう。
高校生や子供連れがいる中、奥の角の席で頭を突き合わせながら私たちは「自由とは何か」について議論していた。
この光景が私の理想郷だ。
「人間は考える葦だ」と的確に人間の本質を捉えたパスカルを尊敬する。「考える」ってだけでこんなに面白いなんて、人間は贅沢であり自由である。
今回は「自由とは何か」ではなく、そもそもなんで「自由とは何か」を議論しているのかを考えたい。
私の友達は変な人が多い。
今日「自由」について議論した彼は、地元の同級生である。
一言で表すと「哲学者」であり、昔から「哲学者」であったけども、今日から彼は「哲学者」になった。
抽象的な問いに対する答えを探すことが好きで、勉強よりもスポーツを頑張ってきたタイプなのに、意味わからないくらい思考できるのは、彼が本の虫であったからだろうか。
外見はぱっと見「いかちぃ奴」だが、彼の個性といえば聞こえが良い。
実際、彼は洋服へのこだわりが強く、どう考えても「いかちぃ奴」になるのだが、1周まわってめちゃめちゃ洒落ている。と個人的に思う。
そんな洒落てる哲学者は、「愛」や「自由」や「普通」について思考を巡らせ、答えのない問いに対して自分なりの回答を見つけようと、たくさんの人を巻き込んでいる。
私はこの哲学者を素直でとても面白い奴だと思っている。
なんかモヤモヤする、とちゃんと違和感のセンサーが働く系の人間。私はそのような自我を持つ人間が好きだ。
私は「違和感や疑問を持つこと」に人間らしさを感じる、人間は考える葦であるからだ。
その違和感や疑問について考え、答えを出そうとする系の人間も同時に好きである。
「考える種を拾って自発的に行動をすること」にも人間らしさを感じる、やはり人間は考える葦である。
貧弱な葦であっても粘るその姿勢は、誰でも応援したくなるものだ。
私たちは日常の中で、様々な違和感や疑問を抱く。
同時に、いろいろなものを与えられ、感じた違和感や疑問を解決してゆく。
一方で、違和感や疑問を十分に解決できないことがある。
この時に働くのが「思考」である。
私たちは「考える」ことができ、言葉があるから「伝える」こともできる。
どんなに抽象的な違和感や疑問でも、1人で思考を巡らすこともできれば、行き詰まった時に他人と意見を交換したり議論したりすることができる。
自分で抱いた違和感や疑問に、自分の答えを模索できるなんて、なんて贅沢なんだろう。
ここで、ちょっと思った。
私たちは、欲求を満たす最低限の道具として「考えることと伝えることの権利」を与えられたのではないだろうか。
過去から引き継がれてきた「言語」と「思考」を、なぜ多くの人々は使わないのか、使おうとしないのか、そもそも使うという選択肢すら持たないのか。
調べただけで満足する人、与えられただけで満足する人、そもそも何も批判的に見れない人。
本当に、現代にはモノと情報が過剰すぎる。
でも、私はその過剰さに助けられて生きてきた。だから否定はしない。
要するに、現代の長所でもあり短所でもあると言うことだ。
しかし、多くの人が「モノや情報がたくさんあってよかったな」と本当の意味で言えるように「違和感センサー」を働かせる力を持ってほしいと切に思う。
望めば手に入る世の中で、能動的に考えて動いて新しい発見をすることの楽しさをわかってもらいたいから、とにかく行動して発信しろと言っている。
まじで大変なのはわかっている。
それでも、楽しいと思えるなら、その楽しさは本物だと思う。
そんな楽しんでいる姿を見て誰かが刺激されるなら、本望であるとさえ思う。
だから私はこんな過渡期でも、自らの思考でたどり着くであろうロマンを追う人を応援したい。
じゃあ、ここまで読んだら大丈夫だね。
知的好奇心の向くまま、楽しんで!!