![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/171924704/rectangle_large_type_2_b0d4c3c371b4801e9a02b6b73613c8f9.jpeg?width=1200)
【論考】 第一部|150年を考えるにあたり。-展示『150年』について考えたこと-
ごきげんよう!
SNSで話題となった展示『150年』が今日最終日を迎えました。
今日は「展示『150年』について考えたこと」について、論考(エッセイ)として記事を書きたいと思います。
ちなみに、記事のサムネイルは会場で撮影しました。久しぶりにカメラを持ち出しました!
※本当は考えたこと全部書く予定だったのですが、到底半日で書き切れるものでないくらい書いています。ですが、どうしても展示最終日の今日に出したかったので、記事を分けて二部構成になりました。今回は第一部として展示『150年』を考えるにあたり、展示に行く前に考えたことについて書いています。
土曜の深夜にふとみたら、公式開場時間の1時間前にはいれるプレミアムアーリーチケットが最終日だけ残ってたので買ってみました。
(寝て起きたら完売だったので最後の2枚をゲットしたのかもしれない、ラッキーだなぁ✌️)
入場だけで5000円は、これまでみた美術展示の中で1番高価なチケット。購入に躊躇はせず、単純に人数が少ないのが確約されているインスタレーションの鑑賞に期待を寄せて、はるばるつくばから東池袋へ赴きました。
展示『150年』は以下のような内容の展示です。
総監督は田中勘太郎さん、脚本は布施琳太郎さん。作家はおふたりを含めて14組と多い面々で、ほとんどが新作の作品となっているそうです。
会場は、再開発によって取り壊しが決定している東池袋の一区画の建築群、全6棟の広大な敷地である。そこには戸建て住宅から町工場、複数のオフィスが入居する雑居ビルなどが密集している。それぞれ築年数の異なる建築群だが2025年には一斉に取り壊される予定だ。
本展は、巨大ビルを舞台に日本美術の現在地を描き出して大きな話題を呼んだ展覧会『惑星ザムザ』以来となる田中勘太郎と布施琳太郎のタッグによる共同企画である。前回は布施がキュレーションを担当したが、今回は田中が総監督をつとめる。
本展タイトルの発案者でもある田中は、展覧会にかかわる作品設置の現場や展覧会の方針を監督する。さらに、それぞれまったく異なる空間を持つ6棟の建築群に大穴をあけたうえで、独自の仮設通路を貫通させる。パラレル状の道、鑑賞導線によってバラバラの建築は壊されながら結びあわされて、ひとつの展覧会『150年』となるのだ。
このような舞台で開催される本展が相手取るのは、150年『前』や『後』ではなく、ただの時間の量としての『150年』である。
それは人類にとっては先祖の顔、あるいは未来の発展といった現実がギリギリで想起できない時間量だ。
参加作家たちによる多様な作品を通じて150年は様々に現実化する。150年が建築群に受肉される。ここで提示されるのは、複数的な時間旅行である。その旅行は、いまここにある建築群の過去に束縛されない。各作家が準備しているのは互いに異なる150年のかたちなのだ。
気が付けば同時代性がたんなる権威づけの手段として使われる今日の現代アートに対して、複数の作家たちが『150年』という時間量を設置する本展は、芸術作品を通じて〈無から傷を生じさせることはできるのか?〉を問う。それは矮小化した現代アートとはまったく別の時間感覚に向けた賭けだ。
ここに集積される異形の時間たちとの出会いによって来訪者のイマジネーションを暴走させること。それが本展の賭けであり、いまもまだ芸術に残された可能性だと信じている。
今回の記事では、行く前に展示について考えたこと、行った後に考えたことの二部構成となっており、各部の中を細かい節で区切っております。
※本記事は第一部です
計算機と写真と現代美術を渡り歩く私からみた展示『150年』を、美術を知らない人でもなんとなく気持ちがわかるかも?くらいのギリギリ丁寧めに論考として残そうと思います。
<展示に行く前に考えたこと>
ここでは、展示に行く前に私が考えたことについてを振り返ります。前日の夜に調べ、当日の朝電車で書きました。
現代美術と同時代性
展示『150年』を考えるのに必要なキーワードは「同時代性」。展示会のウェブサイトを読みながら、この展示がなぜ注目されたのか紐解いていきます。
まずは、同時代性とは何かから考えたいと思います。
「同時代性」とは、辞書的に"物事が同じ時間に起こる、または同時に存在すること"を意味します。特に、現代美術の文脈では"今生きている時代で話題になっている事柄をテーマに制作された作品"に対して、同時代性のある作品/アートだねというように使います(あくまでも私の解釈です)。
例えば、私が主なテーマにしている「写真」においては、アプロープリエーション(流用・盗用)というひとつの潮流で制作されたものが、同時代的な作品/アートとして例に挙げられます。
200年前に写真が発明された当時は、いかに写実的(リアル)に風景や人物を描写するかということに特化した職業画家と呼ばれる人たちがいました。しかし、写真という最も写実的に瞬間を記録できる装置/手法が発明されたことによって、美術という分野で、絵画のもつ権威が写真にとられてしまうのではないかと危惧されていました。
このような背景から、写真が登場したことによって、美術とはなにかという本質的な問いを考えるにあたり重要な潮流が多く生み出されました。その一つがアプロープリエーション(流用・盗用)です。
アプロープリエーションとは、「すでに流通している写真や広告などを「引用」の範疇を超えて作品に取り込み、文脈を書き換え、再提出する方法論のこと」
シェリー・レヴィーンの『アフター・ウォーカー・エヴァンズ』は、既存の写真作品を複写し展示することで、オリジナリティの概念を攪乱しました。ウォーカー・エヴァンズによる写真作品の図版を複写し、印画紙にプリントしたものを自身の作品として展示することで、イメージのオリジナリティの帰属先が決定不能となるシミュラークル(模造)の現象を生み出したのです。同様に、シンディ・シャーマンの『アンタイトルド・フィルム・スティル』は、ハリウッド黄金期の映画のワンシーンのような場面設定と演出で自らを被写体として撮影し、スターを鑑賞するという体験を創出しました。
これらの作品は、バーバラ・クルーガー、リチャード・プリンス、ルイーズ・ローラーなど、多くの女性アーティストによって牽引され、美術史における男性中心的な創作観を脱構築する試みでもありました。従来、ルネサンスから近代まで女性美術作家は皆無であったのに対し、写真という比較的アクセスしやすいメディアの登場により、新たな表現の可能性が開かれたのです。
ここでいう、「美術史における男性中心的な創作観を脱構築する試み」こそ同時代性です。女性の社会進出や差別の解消というものが現代における社会的/政治的な話題であり、今生きている時代で話題になっている事柄(=女性の社会進出や差別の解消)をテーマに制作された作品であるため、同時代性のある作品といえます。
アプロープリエーションだけでなく、現代美術においてこのような"今生きている時代で話題になっている(社会的/政治的)事柄"をテーマに作られる作品は多いのです。これは、現代美術の特徴※である"自身の個人的な経験や視点"から作品を作り上げるという部分にも関連しています。
※それまで美術は、宗教がおおきなテーマだったりしました。
展示『150年』のステートメント①同時代性からの脱却
ここで、展示『150年』に戻って考えてみます。この展示のテーマのひとつは「同時代性からの脱却」と考えられます。
気が付けば同時代性がたんなる権威づけの手段として使われる今日の現代アートに対して
ここで「同時代性がたんなる権威づけの手段として使われる」と述べられていますが、まさに前述したように、現代美術は同時代性の印象が強く、逆に「同時代性があるからこそ現代美術なのだ」と言ってるようにも思えてしまいます。これが、「たんなる権威づけ」という言葉の意味だと思います。
つまり、展示『150年』を通して、現代美術のいわば十八番となっている同時代性=ある種の伝統的な文脈に抗おうとしているのです。
これは言い換えると、近代までの美術においてキャンバス(タブロー)に抗うくらいの強い意向があるのではないでしょうか。
今回は、布施さんをはじめとして、出展している作家のみなさんも学生を含む30代以下と若手の面々です。これからの現代美術を担っていく世代が伝統に抗うという二項対立が目の前に勃発しているこの時代に展示を直接体験できるというのはとても代え難い経験だと思って展示に行きます!
展示『150年』のステートメント②"150年"の時間スケール
この展示において、もうひとつテーマとなるのは展示題目にもなっている「150年」です。
150年という時間スケールについて、このように述べています。
150年『前』や『後』ではなく、ただの時間の量としての『150年』である。
これは歴史上の今この瞬間における前後数年が「同時代性」だすると、この考え方は非常に線形的に思います。
しかし、展示『150年』で扱う150年という時間は、歴史上の150年前や150年後ではなく、はたまたある期間としての150年間でもなく、ただある時間の単位としての150年を扱っていると思います。
ここの解釈はテキストでは伝わらないと思い、時間を面積比で考えるとすると、同時代性は小さい100pxの点であるのにたいして、150年は1500pxの大きな面として捉えられます。同時代性よりもはるかに大きいスケールで、かつ人々が絶妙に想像しにくいスケールでもあると思います。
この抽象的な150年という時間スケールについて、それぞれ作家が解釈・思考したものが展示されるということです。
![](https://assets.st-note.com/img/1737937848-zoVe8WKYt3GfSlRid04uE9kn.png?width=1200)
今回は、どのような作品が展示されているかは見ずに、現場で咀嚼するスタイルにしようと思います。特に、ウェブサイトで言及されている以下の部分が興味深い。
その旅行は、いまここにある建築群の過去に束縛されない。各作家が準備しているのは互いに異なる150年のかたちなのだ。
今回の展示会場は大変強い文脈を持っていると思います。再開発されるというところに感じる歴史と生活、いわゆる過去があり、それらは浅はかな想像には取るに足らないくらい濃密なものであると考えられます。その過去に本当に束縛されない150年がみられるのか、非常に期待しております!
ここまでの解釈を元に、展示に行きました。
〜第一部・終〜
第二部では、実際に行ってみてどのような作品/空間があったのか、同時代性から脱却した150年が体験できたのか、ステートメントの再解釈の3つについて書こうと思います(今卒論を投げ出していっぱい書いてる)
それでは明日の投稿をお待ちください〜!!