session 0 (ハード編・閲覧注意)
息子が、生まれてこなければよかったと、言った。
私が、産んではいけない女だったのだと、言った。
夫が、そんなことを口にしてはだめだと、言った。
それで済むと思っている、あるいは済ますのが常識であり、普通である。
つまり普通の人々の住む普通の世界では、死にたいやつはいないことにされている。
それが現実だ。
だから大国主命はあの世へ下ったのだ。
現実で存在を許されていない思いを抱える人々や、あるいは許されない思いそのものを、受け入れ、抱きとめる場所があの世である。
しかし大国主になお死の手が伸びてくる。
そこでおもしろいのが神話で、心配した祖神が、死の国にいる須佐之男に相談してきなさいという。
死を逃れるために死の神と相談するというのは、今日的に考えると逆のようだが、古代人にとって死の国は生命の根源の世界であった。
その無時間の永遠の世界から、たまたま有限の生の世界へ来て、また根源の世界へ戻るのが人間だったから、死の国へ行くことは、一旦死んでまた別の生に生まれかわることでもあった。
生きるために死ぬ、というプロセスを大国主に与えようというのである。
死は本当の生の通過儀礼といってよいかもしれない。
『日本神話の世界』中西進著、1991年、平凡社、84p―85pより
悲惨な事件を起こしてしまった人に対して、文学が何かできなかったのかと考えるのは実は異様であるらしい。
普通は身近な人々が何かできたはずだと考えるようだ。
もっと詰めて言うならば、生身の人の力が足りなかったから彼らはそうなってしまったと思うのが普通であるということだ。
私はそうは思わない。
彼らを救うのは死者とのコミュニケーションでありあの世の力であると信じている。
大国主命もあの世へ下ったではないか。
私は文学に人を見るが、彼らは死者である。
死者とのコミュニケーションによって私は変化するが、死者は変化しない。
私の変化によって死者が変わって見えることはあっても、死者自体は決して変わっていない。
彼ら、いや私たちを救うのは、生身の人の力ではなく死者の甦りという奇跡である。
誰かを助けようとする生身の人が、生身そのものを差し出そうというならともかく、口しか動かすつもりがないのなら、本でも読んだ方がマシだ。
言葉だけなら死者のそれの方が優れているに決まっている。
ピィーチク。
パァァーーチク。
「生きる力」と、文科省の黄色い鳥が囀るのをYouTubeで見た。
――黄色いご冗談、か。
https://www.youtube.com/watch?v=wc8VdrwOMBs
「生きる力」を失わせるものが端的に云って「いじめ」であることは、古事記、大国主命の物語にも見られる通りである。
「いじめ」を「犯罪」に言い換えようとする意見があるが、奪われるものが「生きる力」であるところに着目したとき、 「いじめ」という言葉は捨てがたい。
「生きる力」と対になり得るのは、「犯罪」では無理で、やはり「いじめ」であるだろう。
また、大人が子どもを「犯罪」という言葉で脅かすのは「いじめ」であり、脅かしを用いるのはさらに陰湿な「いじめ」の再生産に手を貸すことにならないだろうか。
学校における様々な「いじめ」よって子どもの「生きる力」が削られていくと、生体の正常な防御反応によって、登校しようとしても体がいうことをきかなくなる。
比較行動学で云う「学習」の効果である。
不登校の多くは子どもが考えを重ねた末に意志し、決定した行動ではない。
子どもが登校したい、登校しなくてはならないと思っているにも関わらず、登校できないのに、その理由を゛本人に説明゛させようとするのは無理があり、酷である。
しつこく詮索すると言い訳や嘘を言わせることになり、良心のある子どもをますます葛藤させ、追い詰めてしまう。
そうしてすっかり変わり果てた子どもの姿に、多くの親がかつてあり今はない「生きる力」を見る。
当たり前すぎて見えなかったものが、失われたものとして初めて姿を現わす例である。
その様子を、「生きる力」を失った子どもを見たことがない人に伝えようとしても理解されない。
訴えるのが母親であればアタマと心が弱いとでも思われてオシマイである。
それくらい、「生きる力」は子どもにあって当たり前である。
ないと思った大人が傲慢にも与えよう伸ばそう育てようとしていじくり回せば、子どもの「生きる力」は歪み、削られる。
それもまた「いじめ」である。
家庭、学校、塾、習い事、各種サークル等において、教育の名のもとにいじめられていない子どもはいないだろう。
「学校」が子どもから「生きる力」を奪ったと責めた親は、責められる。
例え口に出さなくても、思っただけで自分自身によって自分に返ってくる。
そういう親の子だから、子も自分で自分を責めている。
そういう子の親だから、なのかもしれないが、気付いたときには既にどちらが先か分からない。
だが、わが子の不登校の原因が学校における教師や生徒による「いじめ」にあるとはっきりしている場合、親は絶対に「うちの子にも悪いところがあったと思いますが…」「親にも至らないところがあったと思いますが…」等申し出てははならない。
「学校」という組織を相手に、そんな態度では子どもを守れない。
子どもに対し悪かったと反省したのなら家で子どもに謝るべきであり、家庭の事情を「学校」に晒しても、子どもに謝るべきことを増やししかしない。
「学校」に対して下手に出てもこちらの真っ当さや誠意の呈示にはならず、言質を取られて不利な立場に追いやられるだけである。
先生一人一人は色々でも、「いじめ」と「不登校」のコンボの前に「学校」が取る態度は、不祥事の報道で知るようなあれになると覚悟すべきだ。
「いじめられる方にも理由がある」と言うこと自体がいじめであるが、その論理に手を貸すことにもなる。
いじめられた子どもにいじめられる理由があったと云うのなら、その「いじめられる理由」なるものを持たない者はいないことを、本当は子どもはみんな分かっていて、だからみんな自分の番になるのを恐れている。
「いじめられる方にも理由がある」と堂々と言う奴は単に幼稚で鈍いか、そうと思い込ませて相手を支配しようとするいじめっ子のどちらかである。
先生がそう言うのはしゃれにならないが、口には出さないだけで子どもより゛分かってない゛先生がむしろ多数派と思われるのはぞっとする。
先生方は、ご自身がいじめをしているご自覚がなさすぎる。
「悪気はない」と「遊びでやった」は、いじめの加害児童の言い訳であると同時に「学校」の常套句でもある。
家でその言い訳がアリと子どもが思うのは家庭教育の結果であるが、学校でもそれで通用すると思っているのは、学校における生徒指導の成果である。
「子ども同士のトラブル」は、「悪気はない」と「遊びでやった」の二つを合わせたやはり学校の常套句である。
被害児童と家族からは、「学校」は加害児童と同じ論理を持って、加害児童を庇っているようにしか見えない。
笑いと共に投げ付けられた言葉と暴力はゴミであり、オレはゴミ箱だと、息子は言った。
息子から辛さ、苦しさをぶつけられた私は、身をもって息子の云うところのゴミを受け取り、感じた。
その手触りと臭いは確かに汚物であり、「悪意」としか思えなかった。
登校出来なくなった息子は、たった十歳のその身に余る「悪意」を抱えていた。
泣き、叫び、暴れ、体が疲れきることで嵐が過ぎると呆然とし、こんなことしたくなかった、こんな自分になりたくなかったと弱々しい声で呟き、さめざめとまた泣いた。
毎日がその繰り返しだった。
背中が痛いと訴えるので、触ってみるとガチガチで、とても子どもの身体とは思えなかった。
顔つきも変わった。
明るく、素直で、元気だった子が、笑顔も何も無くなった。
昼夜の別がなくなり、入浴しなくなり、歯磨きをしなくなり、爪を切らなくなり、あいさつをしなくなった。
それらをクリアしながら、赤子だった息子が人間になっていった道のりと、幸せだった日々を思った。
退行した息子はしかし、幼児に返ったというよりも、獣を思わせた。
息子は私に八つ当たりをした。
夫は息子を叱り止めさせようとしたが、息子を一人ぼっちで苦しませるつもりなのかと、私は夫に訴え、反発した。
息子から「悪意」を投げられ、持ち分が減ることで息子が楽になるならと、それを望んだ。
辛さ、苦しさを分けて欲しかった。
しかしすぐにそういうやりくりは成り立たないと知った。
私と息子は「悪意」を分かち合うことは出来なかった。
「悪意」は私に取り憑き、私をも変えた。
伝染することで、むしろ増殖したのだ。
始終苛立ち不機嫌になった私は息子を傷付けた。
息子もやられっぱなしにはならず、家の中に閉じ込められた二人は傷付け合った。
私の目は釣り上がり、声は尖った。
寝ようとして横になっても、頭痛がし、眉間にきつく皺が寄った。
初めて経験する感情だった。
目が釣り上がるのも、眉間に皺が寄るのも、頭が痛いのも、比喩ではなく、感情がそういう身体変化を起こすと知った。
頭痛の芯がめりめりと盛り上がり、角になってもおかしくないとまで思えた。
堪えられず、今度は私が夫に八つ当たりをした。
そして私のしつこさに負けた夫が初めて声を荒げた瞬間、息子も私に八つ当たりしたくはなかったのだと分かった。
夫が正しかった。
ぼろぼろ泣きながら、息子をこんな気持ちにさせてしまったのだと、後悔した。
追体験のような形で私は様々な息子の辛さと苦しさを知ったが、゛相手を理解する゛とはそのことであるなら、そこに救いはなかった。
夫に「悪意」が伝染していなかったはずはない。
でも、取り憑かれて振り回されることはなかった。
息子も母親である私も「悪意」の思う壺だが、父親の自分までそうなるわけにはいかないと言って、実際そうした。
夫にとって休息と安らぎの場所だった家庭は修羅場となっていた。
仕事から帰ると、家では、笑いながらじゃれ合う母と子だった二人が虎となって、血で血を洗っている。
夫の心の中にも血に血を掻き立てられる虎がいて、でも夫は虎も自分も殺して耐え抜いた。
夫は努めて冷静だったが、体は悲鳴を上げていた。
眠れず、胃腸の調子が優れず、ガリガリと痩せて、見る見るうちに髪が白く染まった。
通院の回数と持病の薬が増え、医療費が跳ね上がった。
わが家は、奪われるものはますます奪われるというループに迷い込んた。
「学校」の木で鼻を括ったような対応はわが家の「悪意」を増幅させた。
公共相談機関も似たり寄ったりだった。
喋らせるというガス抜きで宥められるだろうくらいのつもりで設置しているのかもしれないが、人を舐めたその態度は、ガス抜きどころかやはり人を傷付けるものでしかなかった。
教育センターでの二度目の母子別面談から戻った息子は泣きそうな、すがるような目で私を見たが、その様子に気付かない相談員は「こちらに来て頂くことがなくなるのが、私どもの仕事ですから」と息子の前でぬけぬけと言い放ち、けらけらと笑った。
相談員について相談員に相談しても、「合わなかったんですね」の一言で済まされてしまう。
心理療法に入っているのでもあるまいし、合う合わないというレベルの話ではないはずだ。
仮に、合う合わないの話だったとして、既に不登校になっている子どもに相談員ショッピングやカウンセラーショッピングのような真似ができると思っているのだろうか。
信頼できない大人と出会えば出会うほど、息子の表情は陰気に沈んでいった。
場所と記憶が結び付くことは知られている。
信頼できない大人がいるところは、息子が近寄れない場所となり、息子の世界はどんどん狭められた。
何度も裏切られたと感じるうちに、傷付きも、怒りもしなくなった息子は、無気力になっていった。
もし、期待するから裏切られるのだと責められるのなら言わせて欲しい。
他人から諭されるまでもなく、経験によって息子は世の中に期待はできないと学習し、そして引きこもった。
精神科医の高岡健は著書『不登校・ひきこもりを生きる』(青灯社、2011年)の中で、自分が自分自身との間で対話を繰り返すことが、ひきこもりの本質であり定義であるという考えを述べている。(138p)
また、小説の中の人間は架空の他者であり、架空の他者と対話をすることは、自分と対話することにつながるという。(172p―173p)
若い頃、いや子どもの時分から、架空の他者なるモノと思う存分対話を重ねてきた私に異論はなかったが、精神科医である著者がカウンセリングやセッション等の生身の他者との対話に全く触れていないのは疑問だった。
しかし相談員やカウンセラーの実情が知れてしまえば、精神科医だからこそ生身の人間同士の対話を信頼していないのかもしれないと思えた。
私だって、架空の他者――死者とばかり言葉を交わしてきた。
息子と私は言葉も、感情も、生身同士でぶつかり合ったが、泥沼になった。
息子が学校に行けなくなりしばらくは、律儀にママ友に相談していた。
私にはない知恵を持っているであろう他人を頼ることは、息子の為に母親の私が出来ることであり、すべきことだと思われた。
義務感に駆られていたが、話しながら苦しかった。
親からの注意、説教・説諭は勿論、提案も子どもを追い詰めることは不登校の子どもの親として勉強すれば分かる。
他にも親がやってはいけないNG行為は多々あるが、多くのママ友のアドバイスはそれら、NG行為そのものだった。
お気持ちはありがたかったが、不登校に少しの理解があれば、言えないことばかりだった。
的外れをやんわり説明しようとしたり、言っても通じるとは思えないので曖昧に濁して話を逸らそうとしたりすると、相手を苛々させてしまう。
そして、そんなことでどうするのとがんがんと責められるはめになった。
不登校の子どもと親の間で起こりがちなやり取りが、私とママ友の間で再現され、なるほど、子どもはこんな気持ちになるのだとよく分かった。
それでも息子が友だちを求めていたこともあり、心配してくれているママ友を無下にはできずお付き合いは続けていた。
相談ではなく、報告になるよう、話を持っていきたかったが、上手くいかなかった。
だがある時、熱心に心配してくれているように見えた彼女たちが、苦労知らずでのほほんとしたイメージの私のことを、実はずっと気に入らなかったのだと腑に落ちた。
苦虫を噛み潰しながら私と付き合っていた彼女たちにとって、息子が窮地に陥ったおかげで、私はいじめても良い存在になっていたのだ。
そうと気付いた私がちょっと強気に出ると、相手は途端にオロオロして下出に出てきた。
罪悪感はあるのだろう、全く馬鹿らしかった。
息子が不登校になっても変わらず接してくれた数人を除いて、ママ友付き合いを無くした。
ベストな選択のつもりではあったがいよいよ取り残されたようで、不安に目の前が暗くなったように感じた。
ピーピー。
ピーピー。
わが家が住むマンションの管理人は初老の男性で、他の子たちもそうだが、息子も幼稚園の頃から可愛がってもらっていた。
あんなに元気で明るかった息子がと、心配してくれるお気持ちはありがたかったが、色々と尋ねられるのは辛く、誤解を警戒しながら言葉を選んで話を作り答えていくのは苦しく、でもかつてのママ友と同様お付き合いをしないわけにはいかない相手だった。
お優しい住人が多いのか苦情を受けたことは一度もなかったが、昼夜逆転かつ荒れた生活の音や声が、ご近所に迷惑をかけていないはずはないと思う、負い目もあった。
ある日、管理人に書類を依頼した。
後日電話があり、記入して欲しいところがあるので、マンションの敷地内にある集会所に来て欲しいと言われた。
指定された時間は正午過ぎで、管理人の休憩中と思われた。
行くと、まず飲み物を勧められたので頂いた。
書類の記入はすぐ済み、マンションのエントランスで事足りる用件と思われたが、いや、息子さんが心配で話を聞きたくてと、切り出された。
そんなことじゃないかと思っていたので、驚きはしなかった。
しばらく話し、そして、押し倒された。
抵抗して揉み合い、逃げ、集会所を出た。
未遂で済んだ。
わが家に着き、シャワーを浴び、湯を溜めながらバスを使った。
居間では何も知らない息子がゲームをしている。
一人、湯に浸かりながら考えた。
どうしてあんなに大人しく対応したのだろう。
大好きな息子とは望まずに修羅場となり、手を挙げたことはなかったが、物に当たって叩いたり蹴飛ばしたりしたことはあった。
怒鳴りながら言い合いになることはしょっちゅうだ。
なのに管理人に対しては手も挙げず、声も上げなかった。
管理人のやり方は卑劣だ。
辛い状況にある息子をだしにして、心配を装い、私が泣き寝入りする獲物かどうかを吟味していたのだ。
息子が酷いいじめにあったことは話していた。
今頃家で腹を立て、悔しがってどうするのだ。
管理人には何もせずに、この身体に受けた汚いモノを、私はまた息子や夫にぶつけるつもりなのか。
息子に気付かれないよう、声を押し殺して泣いた。
しかし、これで、息子の゛気持ちに共鳴゛するのではなく、ほんとうに、息子と同じ穴に落ちることが出来たとも云えた。
息子は、多人数にやられた。
私も、弱ったところを狙われた。
マンションの前は通学路であり、加害者の子どもも、息子が顔を合わせると気まずいクラスの子どもも通る。
朝夕、孤独に引きこもった息子の耳に、笑ってはしゃぐ子どもの声が届く。
私も、日中に外出しようとすれば、管理人と顔を合わせるかもしれないとびくびくしなくてはならず、また、管理人とマンション住人の楽しそうな立ち話の様子を見かけることもあるだろう。
学校や加害者に文句を言ったり、何かを求めても無駄であり、こだわって囚われれば息子が不幸になるだけである。
加害者を責めて恨んでいたら、奴らと同じになってしまう。
学校が全てじゃない。逃げていい。
楽しい場所、楽しいこと、楽しい人間関係によって息子が幸せになることが大事である。
管理人に謝罪や反省を求めても無駄であり、そんなことにこだわり囚われても私が不幸になるだけだ。
管理人を責めて恨めば、同じ穴のムジナになる。
家はここだけじゃない、引っ越しという手もある。
辛かったら、管理人からもマンションからも、逃げていい。
管理人が気にならず、コトも忘れてしまうくらい、楽しいことをして、幸せになろう。
笑えない冗談だ。
泣けば泣き寝入りだが、笑えば泣き寝入りにはならないのか。
そんな考えでいたから、付け込まれ、襲われそうになったというのに。
管理人を断罪しようと警察や管理会社に訴えたなら、こだわるな囚われるな仕返しのつもりかと、相手を恨めば被害者が加害者と同じだと、責められるとは。
何をどうしたらこっちが強姦魔や猥褻魔になれるものか。
一緒に楽しく遊んでいたとでも思うのか。
何故こちらが金まで持ち出して転居し逃げなくてはならない。
被害者が大人であれば、どれもありえない、馬鹿な話だ。
息子よりも私の方が酷い暴力と悪意を受け、傷付いたとは思えなかった。
いや、絶対に息子の方が酷い目に遭い、傷付いていた。
子どもであれば被害を軽く見積もり、黙らせておく方向に誘導するのか。
そう、それが私たちの常識であるのだ。
性的な被害を受けたのは初めてではなかった。
子どものとき、やはりレイプはされなかったが、もっと脱がされ触られ弄られ、もっと悪意を受けたことがあった。
少しは泣いたり悔しがったりした覚えもあるが、親にも誰にも言わず、子どもの私は一人で何もなかったようにご飯を食べ、歯磨きをし、寝て、起きて、被害の場であろうが保育園で過ごし、学校に通い、遣り過ごした。
ピーチチチチチ。
ラブホテルの窓には引き戸が付いていた。
外から覗かれないよう塞ぐためとは分かるが。
ラブホテルの造りは各々違っているのに、どこもどこかが変だと感じる。
そのためだけにある場所の宿命――とは大げさだか、嫌いではなかった。
暗さも、空しさも、儚さも。
戸の隙間から朝の光と車の走行音と鳥の囀りが漏れていた。
私は夫ではない男性と共にベットに寝ていた。
家が修羅場になってから、耐え切れないと感じれば、どうにかなってしまわないよう、深夜に何時間も散歩をしたり、走ったり、実家に一泊したりして凌ぐことが当たり前になっていた。
コントロールできるものではないので、突発的にそうしていた。
いつ母親である私が数時間家を空けたり、一泊しても不自然ではない、異常な状態が普通になっていた。
夜明け前の冷え込みの中をふらふらと歩き回り、車の光の流れと音の疾走に誘われ吸い込まれ、身を乗り出して激しくクラクションを鳴らされたこともあったと、ふいに記憶が蘇った。
管理人に襲われそうになったことは、夫に打ち明けなかった。
わが家のキャパはとっくに限界を越えていた。
迎え入れる悪意を増やそうとは思えなかった。
それでも夫は、この件も引き受けることを望んだだろうが…どうやって?
夫から泣き寝入りしようと言われても、訴え出ようと言われても、私は夫を許せなかっただろう。
夫は、いじめられた息子に対しては、笑えば泣き寝入りにはならない、家族で笑って幸せになろうと、そう言ったのだから。
夫の気力体力は既に尽きているはずなのに何故か持っている状態だったが、妻が管理人に襲われそうになったというだけなら、どうにか持ちこたえてくれたと思う。
しかし私は、同時に問わずにはいられないと思った。
そして、とても問うことなど出来ないと思った。
だから何も言わずに、一人で「悪意」を処理する方法を考えた。
結局一人ではなかったのだが。
彼と出会ったのは偶然であり幸運だった。
もとから、知人ではあった。
私から飲みに誘い、店を出てから可能なら抱いて慰めて欲しいとシンプルに希望を伝えた。
何かあったのかと訊かれたので、はいとだけ答えた。
ホテルに入り、ことが終わってからまた同じ質問をされたので、ぽつりぽつりと話した。
三ヶ月間頻繁に逢瀬を重ね、抱かれては喋るを繰り返した。
彼は、私の体も、心も、一番知っているのは自分だと言うようになった。
話さないことはたくさんあり、夫の話は特に避けていたが、違うとも嫌とも感じなかった。
管理人の手と唇が、彼の手と唇で上書きされた。
彼の前で、出せなかった声を上げ、忘れていた息を吹き返した。
怒りではない皺が眉間に寄った。
不思議なことに、皺に皺が重なって消えていった。
愛撫を受けながら、かわいい、いやらしい、きれいだと囁かれた。
甘やかされて甘くなり、溶け出て、何度もちょっと、あるいは深く、逝った。
気持ちが良くて興奮すれば遠慮なく涙をこぼした。
あっという間に憑き物が落ちたようになって、優しさと穏やかさを身体に思い出した。
同じように、夫と慰め合っていくことは、出来なかったと思う。
悪鬼のごとく夫に跨り、「悪意」をぶつけるように腰を振る様しか想像し得なかった。
家の外ではただ抱かれることが出来ても、家の中で抱き合えば「悪意」の擦り付け合いにしかならないと信じて疑わなかった。
私が外で「悪意」を失くしたことで、わが家の風通しは格段に良くなったと告白すれば、卑怯な正当化になるだろうか。
息子の八つ当たりを優しい気持ちのまま受け止められるようになったと同時に、そもそも八つ当たりされなくなった。
嵐は起きなくなり、穏やかな日が続いている。
少し番えば救われるはずの人々が、そうせず、一線の前で踏み留まるのにはそれだけの理由がある。
今、笑顔が還ってくると信じて待つ私はいつか正気に返り、後悔するのかもしれない。