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藤と蜂
そういえば、今年も藤の花を見そこなった。
小一から中一まで暮らしていたわが家には藤棚があった。
東にある引き戸の玄関を入ってすぐ左、両親の主寝室の南の掃き出し窓が、藤棚と続いていた。
共働きの両親は、日中家にいなかった。
子どもの私はしょっちゅう両親の部屋に出入りし、藤を臨む窓に腰掛け、風と光と影を楽しんだ。
五月に藤の花を見上げてお茶をし、テラスに散った花びらを愛で、また、掃き、夏の朝には藤の緑の下で打ち水をやり、蚊取線香を炊いた。
初めて藤の実を発見した年は、大騒ぎした。
花も長ければ実も長いのだと思った。
引っ越す時は、藤と離れがたかった。
子ども時代が終わったように感じた。
大人になり結婚した私はマンションの5階に住んでいた。
息子に恵まれ、幼児と一緒に過ごしていると、自分がそうしたように息子にも土と近い生活を送らせてやりたくなった。
ある日夫に昔話をした。
いつかまた藤棚のある家で暮らしたい、最後にそう言った。
夫はできた人なので、私が引越しを要求しているとは受け取らずに、私の話をふんふんと聞いていたが、「でも、おれ、蜂に襲われるんだよね。だから藤が家にあると怖いかな。」とポツリと言った。
ん??
なんかいろいろ突込みたかったが、「え?藤があると蜂が来るの?」とまず聞いた。
夫は「そうだよ。知らなかった?」と言った。
知らなかった。
私は藤も好きだが、蜂も好きだった。
子どもの頃から蜂をかわいいと思っていた。
蜂がぶんぶんと飛ぶ中で、子どもの私がにこにこしていると、母が危ないと騒いだ。
騒ぐから危ないんだよと思っていた。
私が言うことを聞かないので、母はそのうち言うのを諦めた。
ある日、二階の自室の窓から、屋根に蜂が巣を作っているのを見つけた。
うれしくて母に報告すると、数日後におじさんがやって来て退治してしまった。
おじさんは「これで安心だね。」と私に笑った。
そうなるのかと分別した私は次からは蜂の巣を見つけても秘密にしていたが、何故か母は勘づいて退治の手を回す。
いたちごっこのようにそれが繰り返されたのは、そもそも家に藤があったからだったのか。
「そうだったのかな?」と夫に聞くと、「そうだと思うよ。」と言う。
ふ~ん。
じゃあ、そうだったんだ。
続けて、「私は蜂に襲われないけど?」と言うと、「あいつら、おれは襲うんだよ。」と言う。
「特別に襲われるの?」と聞くと、「うん。」と言う。
いやいや、そんな訳ないだろう。
対蜂フェロモンでも出しているつもりか。
私はそっちは信じなかったが。
数年後。
息子が小学校に上がり、五月の夏日にあった運動会で、夫と私が並んで見学をしていると、蜂が夫をめがけて突っ込んできた。
「うわぁ。」と夫は身を避けた。
嘘だろう?
いや、本当だった。
蜂は確かに夫に対し真っ直ぐに狙いを定めていた。
その日、場所を変えても蜂は夫をつけ狙い、追ってきた。
蜂は、一緒にいた私には見向きもしなかった。
「蜂に襲われるって、本当だったんだね。」と夫に言った。
「本当だったでしょ。」と夫は言った。
家に帰って、息子にこの話をした。
「お母さんは、お父さん何言ってるんだろうって、信じてなかったんだけどね・・・。」
「あっ!おれも蜂に襲われるよ。お父さんと一緒だ!」と息子は言った。
や、キミは違うだろ!?
一緒にいて、お母さんはそんなところは見たことがないぞ。
キミのお父さんには、本当に、蜂が突っ込んでくるんだってば。
その日以来、息子は自分も蜂に襲われると信じこんでしまった。
この男共と同居している限り、私の庭に藤の花が咲くことはなさそうだ。
それとも、まさか蜂に好かれる夫が藤だとか?