【掌編】紅梅

 そこに梅が咲くとは覚えていたが、元旦からだったか。さだかでないが、今年はそうだった。

 きれいな花の写真がほしくなり、にわかに花を探し求めて歩くも見つからなかった。ずっと、そんなものは目に入れずにいた。私のお気に入りは朽ちた花や折れた茎だった。それらに美が見出されているとは絵画やらを見れば分かるが、そういったものでない、ただきれいなお花がよかった。

 梅は、どうか。

 梅の美しさに目覚めたと感じたのは、都内にほど近い旧い町の一軒家の、便所であった。
 ターコイズブルーから群青まで、グラデーション鮮やかに敷き詰められた玉砂利風タイルは磨き上げられ、冴え冴えと清潔だった。和式の便器は真白に輝いていた。見覚えのない二階建てのような設えの機能を推量し見下ろすと、汲み取り式の底には光と風の流れがうかがえ、外の世界と繋がっているのだ、と、思い描いた。
 隅に、一輪挿しがあった。ざらりとした肌の火色の卵型に、ごく短く手折られた紅梅が活けてあった。
 家はまもなく建て替えられた。時代遅れも美しいそこはなくなり、ビニールクロスと合板に囲まれた洋式となった。
 さて数年後、家主に訊いてみる。あれは、いい花器だったのかしらと。あら、お土産で、たしかお酒が入っていたわと返ってきた。朗らかだった。恥ずかしかったが、卑屈な気持ちは起こらなかった。
 箏、和歌、茶道と一通りを家主が嗜んでいると、この頃には知り得ていた。ありがとう、うれしかったのよ等の言葉とともに、たびたび和歌の贈り物をいただいた。ほんものだった。
 でも今は。ほんものでもなんでもない、かわいいだけのお花がほしかった。

 寒空というにはぬるくほのかな空色と、梅のピンクを見上げた。スマホをかざして写真に収め、確かめる。
 こんなものかと、終いにした。


 数日後、夜、華やかに強く梅が匂った。
 振り仰ぐと、 一月の夜気に濡れた梅は赤らんでいた。


(了)