session Ⅰ (異世界?編)

ピーター・ジャクソン監督『乙女の祈り』(1994年)を、勧めてくれた女の子がいました。
彼女は18歳、私は19歳でした。
私たちは大学で出会いました。
ある日彼女は子どもの時分のことを打ち明けてくれました。
最後に、「私以外も、みんな、そうだと思ってた」と言いました。
私が彼女を信じることを、彼女が信じたのだと分かった瞬間、息を忘れた私の視界に闇の幕が下りました。
少しの後ろめたさと罪悪感とともにぐいと彼女に引き寄せられ、私たちは。
秘密を共有しました。
他の人とは話せないことを話しました。
そうして、二人で舟を漕ぎ出しました。
そこは決して初めての場所ではありませんでした。
一人森に這入った赤ずきんが、いつの間にか迷い、いつの間にか帰ってくるように区別もなく、子どもは容易にこちらとあちらを行き来しているものです。
私たちはここを覚えていました。
しかし突然、怖気付いたのです。
これは泥船だと。
二人で沈む行く末が見えた気がしました。
私はにわかに彼女の言葉が分からないふりをし始めました。
かつて兄が私にそうしたように。
お兄ちゃん、あなたは正しかった。
私も正しいと、これは二人のためであると、私は私自身にうそぶき、彼女を置き去りにして逃げました。
それなのに、彼女と見たあの景色を忘れられませんでした。
結局その後まもなく、おそらくは彼女よりもずっと深く長く、私はあちらに身を寄せることとなりました。
本を開きそこに立ち上がる死者を道連れに、ずぶずぶと呑み込まれていきました。
現実と呼ばれる世界が色褪せていき、死んでもよいからこの、極彩色の中に居続けたいと願ったことがありました。
『青い鳥』のチルチルとミチルに親(大人)の邪魔が入らなかったのは、旅が一晩で済んだからでしょう。
幾晩もアレをやっていたら、さすがに親も気付きます。
やめさせようとした大人が下手を打てば、『乙女の祈り』のように子どもに殺されかねない、と。

あちらに旅立った子どもを大人が追いかけ、連れて帰ることは出来ません。
もちろん、親であっても。
戻って来るヤツは戻って来るし、来ないヤツは来ない。
親がコントロール出来ることでも、すべきことでもない。
そうと分かってはいても、いてもたってもいられず、自ら子どもの道連れになろうとする親がいます。
親を道連れにしようとする子どもがいます。
教育者や支援者の多くは、不登校の子どもと母親がそういう事態になっているとは想定しない。

常識、つまり当たり前は゛魚にとっての水のようなもの゛と喩えられます。
水の中にいる魚は、水の中にいて水に気が付くことは出来ません。
しかし水から出たその時水の存在を知るように、学校から放り出された子どもも、それまで「世界」と「自分」を信じていたと知るのです。
もう何も信じられない、という、思いによって。
そうして子どもはひび割れ崩れ落ち、あの世へと引きずり込まれてゆきます。
「学校に行くのは当たり前」という常識を子どもにしつけたのは大人です。
その大人自らが「学校に行かなくても大したことではない」と突然手のひらを翻せば、子どもはますます何を信じてよいか分からなくなるでしょう。

年寄りである姑や夫を大好きなだけでなく尊敬もしていたあの子は、先生方に対しても親しみながらも礼儀正しく、また元気が良くて利発な、しっかり者に見えていたはずです。
登校できなくなってもしばらくの間、あの子は家で先生方との面談に応じていましたね。
先生方の前で頑張ったあの子は、その直後に荒れるようになりました。
だんだんと、面談を嫌がり、怖がり、話を持ち掛けただけで耳を塞いでうずくまり、布団をかぶって震えるようになりました。
その様子を伝えた私を、先生方は「ちょっとおかしくなっている」と扱い、あの子のことは「どこもおかしくなっていない」と信じ、「どうしてお子さんが学校に来れないのか、本当に分からないのです」とうそぶきました。
先生方があの子と会えなくなったのは、あなた方があの子の信頼を失ったからです。
私があの子の靴を隠しているわけでもないのですから、あの子にとって信じるに足る居場所が家庭にはなく、でも先生方を信じているのなら、あの子の足はあの子を乗せて学校へ向かうのですよ。

十になったばかりのあの子と、密な時間と空間とを過ごさざるを得なくなった母親である私の言葉を、もうあの子と会えなくなった先生方は信じませんでした。
ちょうど、チルチルとミチルの言葉を信じなかった二人の母親のように。
それから、゛私というおかしくなった母親゛を scapegoatにし、コトを処理していこうとされました。
先生方お得意の、鬼ごっこというわけです。
その鬼ごっこを真似た生徒らによってあの子が追いやられたことを、あの子自身で何度も先生方に訴えていたというのに。

あの子がおかしくなったと信じたくなかった先生方のお気持ちは分からなくもありませんが、私がおかしいというのなら、あの子もおかしいのです。
私のおかしさは、あの子の落ちた穴に一緒に這入った故なのですから。

trace、その能力を使い、息子と共に堕ちた私はかつて、先生方の生徒として先生方の思考を追うことで、好成績を修めていました。
「授業」という名の舞台中は、指名された時は勿論、非言語の「合図」を読み取っても挙手をし、私がそうと言うのを先生方が欲しているところをパクパクと口や身振りで再生しました。
先生方が望むところを洞察し、どう振る舞うべきかを判断し、演技によって表現していました。
そして今も、先生方が思い描く、過保護でヒステリックで、ついにはおかしくなってしまった哀れな母親像とそのストーリーを過敏に感じ取り、憑かれたようにその場でそれを演じてしまうのです。

私も、あの子に対してもう限界というくらいに能力を開放しておりますので、先生方にお会いした際は閉じる、なんて器用な技はできかねます。

いつまでもそんな役をやらさられておりますと、母親は、無力になることもありますが、ほんとうに鬼になる場合もあります。
どちらに転んでもほら見たことかと、責められ貶められるのでしょう。
勿論どちらも、そもそも母親に鬼の役をやらせていること自体が、子どもの為にもなりませんよ。
母親が、子どもと接することの出来る数少ないうちの一人であるなら、尚更です。