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映画感想 未来のミライ
この記事はノートから書き起こされたものです。詳しい事情は→この8か月間に起きたこと。
うーん……。困った映画だな……。
ネタバレあり!!
『未来のミライ』は細田守監督が2018年に発表した作品だ。4歳の子供を主人公とする、アニメ作品としては非常にユニークな作品だ。
細田守監督は、自身の人生と制作する作品を結び付けて描いてきている。結婚して相手方の親戚と交流した経験から『サマーウォーズ』を制作し、子供を出産した経験から『おおかみこどもの雨と雪』(細田守自身が出産したわけではない。念のため)、そして『バケモノの子』。『未来のミライ』は情報を収集していないので、細田守自身のどんな経験が反映されているかわからないが、おそらく現実の中で近しい経験があり、それをヒントに描いているのだろうと想像する。
最初に作品の美点を挙げていこう。
まず4歳の子供を主人公にしたこと。4歳の子供の描写が異様にリアルだ。ファンタジーの要素についてさて置くとして、4歳の子供の行動・思考が非常によくできあがっている。
視点の低さもいい。これは4歳のクンちゃんを取り巻く大人の物語ではなく、クンちゃん自身の物語だ。クンちゃんの視点を再現するために、カメラ位置は非常に低いし、クンちゃん自身のクローズアップも多い。「周囲の光景がどうなっているのか?」という客観的視点よりも、対象をじっと見ているクンちゃんの視点、それにクンちゃんが見ているもの、クンちゃんには世界がどう見えているのか、が中心に描かれている。
クンちゃん家の構造も面白い。縦長極小住宅という設定を活かし、中庭を中心に置いて全体が階段状になっている。クンちゃんの低い目線でも、奥の方までずっと見えるし、映画的な画の面白さにも繋がっている。構造自体はシンプルなので、始まって数分でそれぞれの位置関係が把握できるのも良い。
細田守描写の特徴でもある、背景をPANさせながら時間経過を表現する手法は、今回の場合はななめにカメラが移動していく。カメラがななめに移動する面白さ、空間のイメージが次々と変わる面白さがある。
細田守らしいディテールの詰め方。影なし作画も今回も健在だ。
しかし……この映画、面白くないんだ。
4歳の子供を主人公にするユニークさ、設定のユニークさ、あらすじのユニークさ、どれを取っても「面白そう!」と思える要素なのだが、実際の映画を見ると面白くない。映画を見ながら「なんで面白くならないんだ?」と疑問ばかりが浮かんでくる。
カウンターを見ながら「まだ20分か……」「まだ40分か……」と時間の流れがやたらとゆっくりに感じられた。とにかくも展開が退屈。
それで今回は、なんで面白くならないんだろう? どこが駄目だったんだろう、と考えることになった。
『未来のミライ』はクンちゃんの物語である。妹のミライちゃんが生まれたことで、家の中で最も愛される存在としての立場を失ってしまったクンちゃんの葛藤と成長が描かれた作品である。その成長のプロセスが、ファンタジーとして描かれる。
まず人間の姿をした(愛犬)ゆっこが現れ、クンちゃんが家に来るまで、もっとも愛される存在はゆっこであったことが告げられる。
次にミライちゃんが現れ、「雛人形を片付けてほしい」と懇願される。
なぜクンちゃんの周囲にこんなファンタジーが現れるのか。考え方がいくつかあると思うが、この映画におけるファンタジーはリアルなものではなく、あくまでもクンちゃんの頭の中でのみ起きたこと。クンちゃんの想像であるが、しかしクンちゃん自身は自分の想像であるという自覚がない。現実と空想の区別が充分ではない子供の頭の中を描いているから、こんな描写になる。だから人間になったゆっこが現れるし、自分がもっとも愛される存在だったのに、というのはクンちゃんが「自分が来る前のゆっこは……」と想像して描き出した物語……というわけだ。
しかしミライちゃんの登場は少し事情が異なっている。というのもミライちゃんは子供の頃の「お兄ちゃん」と交流を求めてやってきたかのように見える。クンちゃんの空想の存在という以上に、ミライちゃん自身で自分の意志や動機が語られているように感じられる。
そこで考えたのは、タイプリープの力を持っているのはクンちゃんではなく、ミライちゃんのほうだ……ということだ。『時をかける少女』であったように、ミライちゃんはタイムリープしていて、何かしらの未来に重大な問題をもたらす切っ掛けとなる雛人形を片付けにやってきた(雛人形がバタフライエフェクトを起こす切っ掛けだった)。で、その最中にクンちゃん自身も気づかないうちにタイムリープの力を手にしてしまった……。いや、でもこれだとお話の整合性が……。
それにしてもこの雛人形を片付けるというミッションが退屈で退屈で……。これが映画の画としてまるで映えない。頑張って面白く展開させようとしているのはわかるけども……。ありとあらゆるものがわざとらしく感じられて白けてしまう。ミッション自体が面白くなりようがないので、画の作りに限界があるように感じられた。
役者の演技ははっきり良くない。画も演出も一流のスタッフが制作して、かなりいいものができあがっているのだが、声の演技がどれもこれも二流。これが作品への没入感を妨げる原因になっている。主人公のクンちゃんは明らかに声が合ってない。4歳児の声に聞こえない。
ミライちゃんは広告で見ていたビジュアルが可愛く、かなり期待していたのに、声を聴いて幻滅だった。絵に合っていない。芝居も下手。本渡楓さんに成長したミライちゃんも演じてもらえばよかったのに。なんで素人を起用したのか。え? あれ素人じゃないの?
劇場オリジナルアニメに声優を使わない。というこのアニメ界の因習がどんな問題をもたらすか、改めて見たように感じられた。『未来のミライ』のクオリティは、明らかに演技のレベルで引き下げている。ここをきちんとしていたら、もうちょっとストレスなく見られる作品になったはずなのに。
本編の話をしよう。
ファンタジーの導入として、いつも中心にあるのは中庭の樫の木だ。この樫の木が輝いてから、何かしらの変化が起きる……ということになっているが。
これがファンタジーが始まる導入に相応しくない。異世界を描くにあたり、異世界の描写が大事なのはわかるが、その導入・境界も同じくらい大事だ。なぜ異世界へ意識が移動したのか。その原理・理由をきちんと描かなくてはならない。しかし『未来のミライ』はその予兆も助走もなく、ポンと異世界へ行き、ポンと現実に戻ってくる。狭間が描かれていない。だから見ているほうの気持ちとしても、異世界へ行ったという気持ちにさせてくれない。
原理もきちんと描かれていなければならない。映画の終盤になって樫の木の正体について、ミライちゃんから語られるが、納得いかない。これまでに起きた様々な不思議現象を一発で解決するような設定になっていない。しかもこれが未来ちゃんのセリフだけで説明されてしまう(このセリフが、「台詞」ではなく「説明」になってしまっている。これでは作り手の言い訳にしか聞こえない)。その説明を納得させるような「描写」がどこにもない。
「理屈」は何でもいいが、「納得感」は絶対に必要だ。シンプルでも強引でもいいが、納得感がないと理屈はつかない。
描写のバランスも引っ掛かるところで、過去の映像はリアルであるのに対して、未来の映像がファンタジーになっている。未来の光景は明らかにクンちゃんの内面世界が作り出した画になっている。家族の過去、未来と交流する物語としてはどうなんだろう?
その最後……これから盛大なネタバレをするが……クンちゃんは両親から一方的に愛をねだることを断念して、「ミライちゃんのお兄ちゃん」としての自覚を持つに至る。4歳の子供の、妹ができた子供の、赤ちゃん返りした子供の、小さいけど大きな成長の一歩――これがこの映画が語りたいことだった。「ミライちゃんのお兄ちゃん」としての自覚を持つことによって、断絶の可能性のあったミライちゃんとの交流が復活し、クンちゃんもミライちゃんも救われる……というストーリーだ。
最終的に「ミライちゃんのお兄ちゃん」である、という自覚に至る成長物語のお話だが、しかしだとするとそれまでの過去にタイムリープしてでの家族の交流物語にどんな意味があったのだろう? これが最終的な「ミライちゃんのお兄ちゃん」である自覚に至る物語にどうして繋がるのだろう?
この連なりがどうしても見えてこない。祖父が結婚に至る物語や、自転車に乗れなかった父親の物語が、いったいクンちゃんの成長物語にどのように作用・援用されるのか、全体の一貫性が見えてこない。すべての描写がテーマに対して齟齬を起こしているようにすら感じられる。家族という大きな系譜の物語を描きたいのか、クンちゃんという子供の自立を描きたいのか、どちらをメインテーマにしたいのか見えてこない。テーマの軸にブレがあるから、映画を結末まで見てもスッキリしない。「そこが着地点なのか?」と感じてしまう。
もう一つの引っ掛かりは、それぞれのキャラクターが「物語」を語っていないことだ。
犬のゆっこがくたびれた王子になって登場し、自分がかつてもっとも愛された存在であった……ということが語られるが、これは「設定説明」であって、「物語」ではない。キャラクターが監督の言いたいことを「代読」しているだけ。キャラクターが物語を紡いでいない。
ミライちゃんにしてもそうだ。物語を語っていない。ミライちゃんというキャラクターや背景に相応しくないセリフが延々出てくる。キャラクターとしての振る舞いがどこにもないから、ミライちゃんにキャラクターとしての厚み、存在感、愛らしさが出てこない。ミライちゃんが背負っている世界観も見えてこない。あくまでも監督の言いたいことを「代読」しているだけ。
ゆっこもミライちゃんも、説話を語るためのキャラクターなのだが、映画を見ている間は「説話」であることを悟られてはいけない。あくまでも映画の中の世界観とキャラクターに徹していなければならない。でも『未来のミライ』のキャラクターたちは映画の中から物語を語らず、外の立場にいて、あたかも「この映画はこういうテーマですよ」と監督の意向を代読しているようにしか聞こえない。語りに物語を感じない。
ゆっこもミライちゃんも見た目は可愛らしい姿をしているが、まったく愛せない。声芝居がショボいことはさて置くとして、ゆっこもミライちゃんもその世界観におけるキャラクターとして存在しているように感じられないからだ(要するに薄っぺらい)。
とはいえ、こうやって映画のシーンを一つ一つ思い返しながら感想を書いていると、良いシーン、良い設定は一杯あったはずだ。印象に残るシーンは一杯あったはずだ。細田監督は優れた才能を持っているから、シーンの一つ一つはしっかり描いている。
なのに、なぜか面白くない。どこにかけ間違いがあったのだろうか、と映画を楽しむどころではなく、ずっと考えてしまう。
「物語のテーマが小さい」という意見もあるかもしれないが、『となりのトトロ』だってあんなに小さな物語なのに、あちらは大傑作だ。テーマの大きい小さいは関係がない。
映画を見ながら、見終えた後も残念な気持ちになる、惜しい作品だった。
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