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8月26日 ドキュメンタリー『デップVSハード』に見る、欧米白人たちの「社会動物」度

 Netflix配信ドキュメンタリー『デップVSハード』……視聴したのは8月だけど、8月はトピックスが多かったので、9月の感想文として出すことにした。

 ジョニー・デップとアンバー・ハードの離婚騒動は世界的に大騒動になったから、もう知っているよ……という人も多かろう。私もニュース記事でだいたいの内容は知っていた。でも改めてどういう経緯だったのか、裁判の時なにが起きていたか……改めて確かめよう、という目的で視聴。

 まず時系列的な話から始めよう。

 2009年3月。ジョニー・デップとアンバー・ハードは映画『ラム・ダイアリー』の撮影の中で出会う(映画は2012年公開)。ジョニー・デップはこの時、「運命の女生と巡り会えた」とアンバー・ハードに夢中になる。

 しかしジョニー・デップはハリウッド・スターであるため超忙しく、アンバー・ハードとの関係はなかなか進まなかった。
 2014年にようやく婚約を発表。
 2015年バハマで挙式。この時の結婚も、「撮影の合間」をぬってようやくこぎ着けたもので、結婚式を終えた後、2人は映画の撮影のために再び離ればなれになる。

 ようやく2人がオーストラリアのホテルで合流できたのは、その1ヶ月後だったという。ハリウッド・スターとなるとそんなに大変なのか。
 ホテルでようやく合流した2人だったが……どうやらこの時点でもうアンバー・ハードによるDVは始まっていたらしい。
 アンバー・ハードはジョニー・デップを罵倒し、瓶を投げつけて指を切断させる。ジョニー・デップは病院に運ばれ、医者が「指」を回収するためにホテルに入ったが、そこは嵐が通り抜けたように荒らされていて、あちこち血が飛び散っていた。どれもジョニー・デップの血だったようだ。

 2016年、離婚申請。この時、アンバー・ハードはマスコミに向けて「ジョニー・デップにDVを受けた」と告白。マスコミはアンバー・ハードの言い分を信じて報道し、これによってジョニー・デップが出演予定だったすべての撮影が中断する。ここから数年、ジョニー・デップはハリウッドで「干された」状態になる。

 2022年、ジョニー・デップとアンバー・ハードの裁判がネット中継されることになる。双方ともに「名誉毀損」を訴えての裁判だった。

 裁判はジョニー・デップ側の提案でネット中継されることになったのだが、すぐにネットユーザー達が「なにかおかしいぞ?」と気付き始める。この時、まだ世間的には「ジョニー・デップがアンバー・ハードに暴力を振るった」……ということになっていたのだが……アンバー・ハード側の証言や証拠品として提出されたものがどこかおかしい。どれもこれも嘘っぽい。
 一方、ジョニー・デップ側の証拠品はどう見ても本当っぽい。
 これはひょっとすると……実際に暴力を振るっていたのはアンバー・ハードであって、被害者はジョニー・デップのほうなんじゃないか。
 気付き始めたネットユーザー達がアンバー・ハードを揶揄する動画を作り始めた。この裁判をネタにしたYouTube、TikTok映像が大量に作られて、映像クリエイターたちはトータルとして数百万ドル稼いだとされている。
 結局のところ、アンバー・ハード側の証拠品のほとんどは「捏造」と判定され、さらに精神鑑定の結果、アンバー・ハードに精神障害があることが判明する。境界性パーソナリティ障害、演技性パーソナリティ障害だ。

 これまで文字情報として伝わってきたものは読んでいたのだが、実際の動画を見ると恐ろしいのはアンバー・ハードのサイコパスっぷりだった。証拠として提出された、アンバー・ハードの罵倒音声は、ホラー映画に出てくるサイコパス女そのもの。本当にあんなのがいるんだ……と驚くとともに怖くなるほどのものだった。

 次に驚いたのは、どうやらアメリカの社会は、「男性から女性へ暴力が振るわれる」ということはあっても、「女性から男性へ暴力が振るわれる」ということはない……と考えていたようだった。
 アンバー・ハードはジョニー・デップに「言ってみるがいいさ! DVを受けていたのは自分だってな!」と罵倒している(録音音声が証拠品として提出されている)。ジョニー・デップがDV被害を訴えても、世間は信じないだろう……とタカをくくっていたわけだ。実際に、裁判のはじめの頃は誰も「男性が女性に暴力を受けている」なんて信じなかった。
 裁判が終わった後、アメリカの「DV被害者協会」のようなところが声明を発表していたのだが、やはり「女性が男性に暴力を振るっていた」ということが驚きだったようだ。
 おいおい、欧米には「恐妻家」という言葉はないのか? 女性の方が主張が強く、男性が暴力の被害に遭って、それをじっと黙って耐えている……というのは昔からよくある話じゃないか。欧米にはそういうのってないの? 「男女間の暴力は男性から女性に向かうもの」……という前提しかなかったことが驚きだ。

 ジョニー・デップVSアンバー・ハードの裁判はネット中継されて、それでアメリカ中が大騒動になった……ということもあり、ドキュメンタリーでは一般ユーザーが作った動画が大量に引用されていた。これが最初に見たとき、「邪魔だな……」と正直思っていた。一般人の感想なんてどうでもいいよ。そういうのはサクッと切って、裁判の経過をじっくり見せてくれよ……と思っていた。
 しかし間もなく気付くのは、アメリカ人の「社会動物」っぷり
 よく欧米の人は、個人が自立した個を確立していて、他人がどう振る舞っているのか特に気にしてない……というけど、あれは大嘘だった。欧米の人もしっかり「社会動物」だった。

 「社会動物」とは何か?
 もともとはアリストテレスが提唱したものらしいが、その定義はさて置きとして。人間はその社会の中で、自分がどういうポジションにいるのか、人々がどういう話を話題にしているのか、他人がどう振る舞っているのか、過剰に気にして、そのなかで自分の立場を決めようと考える。
 どうして人間がそのように考え、振る舞うクセがあるのか……というともともとはカタストロフを防ぐためであった。人類がまだ狩猟採取の暮らしをしていた頃、自分の身の回りでどんな異常があるのか、常に気にしていなければならなかった。天候の異常はないか、森の獣の動向に異常はないか。その一つでも兆候を逃すと、集落の全員が死ぬ。そういう危機があるから、狩猟採取民は常に情報収集、情報交換に気を張っていた。
 ところが時代は変わり、世の中の情報にそんなに気を配らなくても、カタストロフに直面することはなくなった。が、人類の感覚まで急に変わることはなかった。今でも人類は、狩猟採取民時代の感覚で、人々が何を話題にしているのか、今なにが流行しているのか……を気にするようになった。
 そういった関心が「本当の危機」に向かえば問題はないのだが、現代人のほとんどは「特に意味のない情報」に夢中になるようになった。知っていても身につくこともなければ、知っている必要もない。そういう情報の最新のものを知りたい……という欲求に取り憑かれるようになってしまった。
 これが私たち現代人が、ネットのくだらないニュースに取り憑かれてしまう理由である。
 よく言われる話として、「どうして日本のネットはあんなにいつもいつも誰かを罵倒してばっかりなんだ?」と言うが、日本だけじゃなかった。どこの国でも同じだった。どこの国のネットを覗き込んでも、いつもいつも誰かが誰かを罵倒している地獄だった。欧米人は個が確立しているから……というのは大嘘だった。本当に個が確立していたら、まわりが何を言っているとか、何が流行しているかなんて気にしないはずだ。欧米白人だって社会動物で、周りの人が何をしているのか、何を考えているのか、知りたくて知りたくてしようがなかったのだ。
 ジョニー・デップとアンバー・ハードの裁判は、そんなアメリカ人の社会動物っぷりを炙り出す事件だった。

 私たちはネットという秒ごとに情報が刷新されるメディアを手にしてしまったことにより、むしろ「動物化」が進んでしまっている。たぶん、ほとんどの人々は気付いてないが、私たちはむしろ「野蛮人」に近付いていっている。目の前を通り過ぎた、知る必要もないどうでもいい情報を「知らなくちゃ!」と思い込んで追いかけ続けてしまう。猫が目の前にチラつかされた紐に飛びつくのと同じだ。
 そういう状態になっているのだけど、私たち現代人はほとんど気付いていない。なぜなら情報を手にした瞬間、「最新の情報を手にした自分」という優越感を持てるからだ。狩猟採取民時代からの心理構造として、情報さえ手にすれば満足する……という機能を私たちの脳は性質として持っている。自分だけが最先端の情報を持っていると思えたときは、周りよりも一段優れた人間になれたと錯覚する。それも狩猟採取民時代に作られた心理構造だ。
 それは文明人として洗練された振る舞いではなく、むしろ本能に振り回されている。本能に振り回され続けて理性が後退している。野蛮人へ一歩一歩向かっている状態であるといえる。情報を手にして自分の立場がより上位へ刷新された……と思っているとしたら、それは錯覚に過ぎない。

 実は私は……日本のネットの状況は「まだマシなんじゃないか」と考えていた。といっても、「仮説」の話。日本人はまだ理性的に物事を考えて判断している――欧米の人々に較べれば。世界のネットがどんな状況なのか調べてないので、「そうなんじゃいか」という話だけど。

 ここ数年くらい……いや10年くらいかな。欧米で交わされている意見や主張を見ていて、「それ、おかしくないか?」というものが一杯あった。
 例えばあるとき、「男女間で筋力格差が存在する」……と言ったら「性差別だ!」ということになった。例え男女間で筋力格差があったとしても、それは発言してはならない、ということになっていた。
「格差などは存在しない! 平等なのだ! 格差があるということを指摘するのは、差別に当たる!」
 いや、でも男女間の筋力格差は存在するじゃないか。体格も違うし、性質も違う。男女で得意なもの、苦手なもの、の分野も違う。男女で興味を持つものの傾向も違う。これは差別ではなく、現実にある“差”だ。ついでにこういう差はあらゆる個人にもある。

 ところが、「あらゆる男女差別はダメだ!」ということになり、するとハリウッド映画で描かれる女性像がどんどん変わっていった。どの映画を観ても「戦う女性」が出てくる。
 私はこの流れが嫌いだった。というのも、欧米の人々はそういうものが「女性の自立」「男性社会からの解放」……というつもりだったようだが、私には逆に女性を一つのカテゴリーに押し込めている、と感じていた。率直にいって野蛮な描き方で、エレガントさに欠ける……と思っていた。
 思っていたけど言えなかったんだけどね。「差別だ!」って言われるから。むしろ日本のアニメの中で描かれるヒロイン達のほうが、欧米人のイメージする女性像より10歩や100歩も先をいっている……と思っていた。アニメで描かれる女性像のほうが、よほど男性社会から解放されている。フェミニズムはそこに気付いていないようだけどね。

 それが今はどうなっているかというと、LGBTが来て、どの映画を観ても物語の進行と意味もなくゲイが出てくる。意味もなく障害者が出てくる。もともと白人のキャラクターが、黒人に変更される。そういう「少数派」を題材にすればアカデミー賞も獲れてしまう。
 映画の世界だけではなく、環境問題もなんだかおかしなことになっている。芸術品にペンキを塗りたくったり、トラックの前に座り込みをしたり。SDGsだ! といって森を皆伐伐採してソーラーパネルを敷き詰める……ということが世界中で起きている。あんなことしたら土地の保水力がなくなって、地滑りを起こすだけ。移民問題も混乱が極まっていて、移民に反対すると「人種差別だ! レイシストだ!」という非難が来る。いや、移民を受け入れるとして、その人々をどこに住まわせるんだよ、働く場所あるのかよ、文化の軋轢が起きたらどうするんだよ……その前提こそが大事なのに、そういう現実的な話題をするとみんな逃げ出す。
 LGBTもSDGsも初期の頃から「それはおかしい」と言っている人たちも一杯いた。しかしそういう人たちは「差別主義者だ!」「レイシストだ!」「みんなで排除しろ!」と袋叩きにしていた。でも数年経って、「それはおかしい」と言っていた人が正解だったとわかった。そういう最初から問題を指摘していた人たちのことを人々はすっかり忘れて、今は多くの人々が数年前と反対のことを言っている。まず、自分たちが「レイシストだ!」と言ってた相手に対し、謝れよ。でも現代人は3分前のことすら覚えてないから、数年前から正解を指摘していた人のことも、自分たちが罵倒していたこともみんな忘れてしまっている。もう誰がどう見ても野蛮人だ。

 前から思っていたこととして、欧米の人々は「一つのある潮流」が起きたら全体が染まる。それ、おかしいんじゃない? とちょっとでも異論を唱えたら「差別だ!」「許せない!」と大騒ぎになる。まるで社会全体がカルト教団に騙されているみたいだ。社会全体で「壺を買えば救われる」みたいになっている。
 いや、そうじゃない。一歩引いて全体を見ろよ。お前らおかしくなってるぞ。お前らが「環境のため」とか言ってやっていることの大半は無意味だぞ。
 そういう意味で日本よりむしろ欧米の方が「ヤバい状況」になっている。欧米の人々の「蛮族化」が進んでいる。いや、欧米の人々って最初から蛮族だったよね。

 ……この辺りの話は、また別の機会に独立したトピックスを作って話したい。
 といっても、何をネタにこの話をしようかな……まだ考えがまとまってない。

 と、話はだいぶ『デップVSハード』から遠ざかってしまったけど、見ながら思っていたのはだいたいこういう話。

 話を戻そう。
 ジョニー・デップVSアンバー・ハードの裁判はアメリカの社会において、一つのターニングポイントを作ってしまった。というのも裁判が始まる前まで、アンバー・ハードは「#Metoo運動」のシンボル的な存在だった。「男性に虐げられている女性」の中心的な存在で、世論はアンバー・ハードを担ぎ上げていた。アンバー・ハードもマスコミに向けて「すべての女性のために勝つ!」みたいなコメントを一杯していた。
 この頃、映画の世界もなにかと「#Metoo」で、映画雑誌を見ると毎月なにかしらの作品で「#Metoo」を題材にしていて、「#Metoo」の文字を見かけないことがなかった。
 ところがジョニーVSアンバー裁判が進行し、次第に状勢が「DVを受けていたのはジョニー・デップのほうじゃないか」ということになると、「#MeToo」運動は一気に沈静化していくことになる。
 この頃のアメリカ社会は「男性に虐げられている女性が、男性社会に鉄槌を下す!」という流れでやってきたのだが、男性も女性に虐げられていることがある……という実体を見せつけられた瞬間、#Metoo運動の旗色も悪くなっていく。
 今だと逆に「#Metoo」の声はあまり聞かなくなってしまった。
 MeTooが勢力を失っちゃったから、LGBTだ……いや、LGBTはMetoo勢力がなくなってから出てきたわけじゃないけど(それ以前からあったし)。まあ、そういう流れになっている。

 今なら言える話だが、Metooを武器にして出世や成功の足がかりを作っていた女性もいたんじゃないか。なにしろ、「セクハラされていた」といえば、職場にいる邪魔な男を一人消すことができるわけだから。自分の上にいる目障りな上司を消し、出世するためにMetooを利用していた……いや悪用していた人もいるんじゃないか。社会から消された男達は、みんな本当に悪人だったのか?

 ごく最近の話、ケビン・スペイシーが18歳の男性に対する強制猥褻で告訴されていたが、この件に関する無罪判決が出た。ケビン・スペイシーは9件の暴行疑惑で起訴されていたが、そのすべてで無罪だ。
 ケビン・スペイシーの裁判はジョニー・デップほど大騒ぎになっていたわけではないので、その内情はわからない。もしかするとジョニー・デップの事件と同じく、「嘘による告発」だったかも知れない。たった1つの嘘で、世界的大スターを消せるのだ。その力をMetooの流れに乗って行使していた人がいたのかも知れない。
 セクハラに証拠は必要ないわけだから。

 アンバー・ハードもMetooを利用してジョニー・デップを蹴落とし、そのポジションに自分が収まるつもりだったらしいが……失敗してくれて良かった。もしも成功していたら、嘘の告発で男性を蹴落とし放題、女の権力は絶対的になって、男は口出しできなくなる奇妙な社会ができていただろう。
 女のすべてが理性的で心優しい? そんなわけはない。女も攻撃的で、出世のためならなんだって利用する、怪物的な人間は一杯いる。人情のかけらもない冷血な女なんていくらでもいる。そういう気質に男も女も関係ないのだ。そういう気付きに至って、初めて「男女平等」社会が実現したといえる。

 アンバー・ハードの嘘の告発によって、ジョニー・デップはハリウッドにおけるすべての仕事を喪っていた。そのなかには大ヒットシリーズ『パイレーツ・オブ・カリビアン』もあった。ジョニー・デップが出演できない……ということになったあと、ディズニーはすぐにマーゴット・ロビーを主演に据えて「女性版パイレーツ・オブ・カリビアン」の企画が立てていた。
 しかしすべてアンバー・ハードの嘘だ……と明らかになった後、ディズニーは慌てた。ジョニー・デップのもとに3億ドルを提示して映画に戻るように説得したが、ジョニー・デップの気持ちは動かなかった。残念だが大ヒットシリーズ『パイレーツ・オブ・カリビアン』はこれで終了である。
 ジョニー・デップはどうやらこのままハリウッドを去り、ヨーロッパを中心に活動するらしい。アメリカの狂騒によって、私たちはジャック・スパロウという愛すべきキャラクターを喪ってしまった。

 どうしてこうなったのか……というと欧米白人の社会動物化。ただの動物となった野蛮人達の狂騒を、私たちは誰も止めることはできない。この裁判は、1人の俳優にまつわる事件を越えて、その一例を示す事件だった。


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とらつぐみ
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