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映画感想 この茫漠たる荒野で

 映画の冒頭で、「Netflixプレゼンツ」とわざわざ翻訳で出すのは、そこを見ている人にアピールしたいからなんでしょうね。Netflixは映画の業界では新参で新興。「配信会社が作る映画」を世間的に認めてもらいたい……という意思があるんでしょう。

 『この茫漠たる荒野で』は2020年アメリカで公開された映画。日本では劇場公開されなかったが……もしかすると時期的に例のウイルスが原因だったかも知れない。
 主演はもはや名優トム・ハンクス。監督は後期『ボーン』シリーズといったエンタメ映画から、『ユナイテッド93』といった社会派の映画手がけるポール・グリーングラス。この2人が西部劇をいかに描くか……がポイントだ。

 まずはストーリー紹介。

 主人公のジェファーソン・カイル・キッドは街から街へと巡り歩き、人々に新聞を読み聞かせる仕事をしていた。
 そんなある日、街を離れたところで横転した荷馬車を発見する。側には吊されて殺されている黒人。その胸には「テキサスは白人の地だ!」と書かれた紙が。すでに惨劇の後……というそこに、一人の少女がいた。残されていた「インディアン管理局」の書類から、少女はジョハンナ・リオンバーガーという名前であることがわかる。
 しかしジョハンナはインディアン(※)のカイオワ族で、話しかけても言葉が通じない。たまたま通りかかった軍の一行に事情を話すと、「レッドリバーの指揮所へ連れて行ってくれ」と頼まれる。
 レッドリバーの指揮所へジョハンナを連れて行くのだが、インディアン担当の軍人は不在。戻ってくるのは3ヶ月後。
「3ヶ月待つか、あなたが連れて行くか、決めてくれ」
 ジョハンナの叔母夫婦がいるらしいカストロヴィルまで640キロ。ジェファーソンは決めかねるが、その夜、ジョハンナが雨の中逃げ出してしまう。そしてジョハンナが、雨で増水した川の向こうで行進しているインディアンたちに向かって、何かを叫んでいる姿を目撃する。
 それから間もなくして、ジェファーソンは「私が連れて行く。私が保護したのだから」と決心する。

 ここまでが前半30分のあらすじ。

※ 正しくは「ネイティブアメリカン」。作品の時代背景に準じて、ここでは「インディアン」と表現する。

 まず時代背景を見ていくとしよう。

 年代は1870年。南北戦争が終結したのが1864年なので、戦争が終わって間もなく……という時代だ。ジェファーソンも南部側として参戦し、今でも「大尉」を名乗っている(南北戦争には4年間従軍したようだ)。
 南北戦争について掘り下げていこう。南北戦争はアメリカが南北に分裂して争った、アメリカ史上唯一の内戦だ。南部側となった地域では黒人奴隷によって支えられた綿花プランテーションがあったが、北部では急速な工業化が進んでいた。工業化する北部と、奴隷制とプランテーションが根付く南部とで、次第に経済格差が生まれつつあった。
 北部側の都合では黒人を奴隷の立場から解放し、労働人口を確保したいが、南部の人々にとっては綿花プランテーションは黒人奴隷に支えられているから、奴隷制を手放したくない。それに南部の人々にとっては、黒人を奴隷の立場から解放させ対等な立場にするのは、「アイデンティティ」の側面からも受け入れがたいことだった。
 1860年。リンカーンが大統領に就任し、奴隷制廃止へと北部側が動き始める。すると南部側が反対し、戦端が開かれてしまう。

 映画の話に戻ろう。
 『この茫漠たる荒野で』はそうした戦争を終えて間もなくの時代なので、南部側はまだアメリカ連合国(ユニオン)と呼称している。アメリカ合衆国から離脱している立場だった。そして黒人に対する差別が猛烈に強い。映画の冒頭、黒人が吊されているのは、そういう時代背景による。
 南北戦争で黒人奴隷の意義そのものが問われたが、そのことが南部人の中にむしろ黒人差別を助長することとなってしまう。吊された黒人は、そうした時代の犠牲者であった。

 作中、ジェファーソンがグラント大統領に関する新聞記事を読む下りがある。
「修正条項は奴隷制の廃止と、元奴隷の投票権の確保。戦争債務の返済を含む」
 それを聞いたテキサスの人々は激高する。「俺たちが苦労したのは、北部の金持ちのためじゃねぇ!」――頑迷なる南部の人々は、南北戦争終結後も黒人奴隷を手放すつもりはなかった。
 戦争を終えた後の「平和な時代」ではあるが、人々を隔てるものは多く、大きかった。
(グランド大統領について、南部人たちは「人殺しの大統領」と罵る。これはグラント大統領が南北戦争時代、北部側の将軍だったからだ)

 そんな時代背景に、主人公ジェファーソンはインディアンの少女を引き取り、親元へ連れて行くために旅をする決意をする。言葉も通じない少女だ。当時のアメリカでは、アメリカ先住民は開拓をしていく過程で邪魔な存在。「駆逐」の対象だった。インディアンは黒人以上に権利を持たない人々だった。
 ジェファーソンは街から街へと歩き、新聞を読む仕事をしている。言うなれば“言葉”を色んな所に伝える仕事だ(小粋なことに「ニュース」ではなく、途中から「ストーリー」と表現している)。しかしジョハンナはその言葉すら通じない。白人と黒人の分断が色濃く残るこの土地で、言葉すら通じないという“分断”をいかにして埋め合わせるのか――これがこの作品が描こうとしているテーマだ。

 開拓時代のアメリカを描いたこの映画は、メキシコでロケされたらしい。その自然の風景が素晴らしい。どこまでも続く荒野。俯瞰構図になると地平線が見える。ある場面では、地平線の向こうから上がってくる月を映している画があった。山がち森ばかりの日本では絶対に見ることのできない風景だ。
 映画の前半、土砂降りの雨が描かれるが、周囲の川が泥だらけになって増水している様子も描かれている。当時の南部は開拓も進んでおらず、灌漑工事もろくに施されていない。雨が降ったら増水して氾濫し放題だ。そんな自然の荒々しい光景もしっかり描いている。
 そうした地平線が見えるくらいの荒涼とした場所に、粗末な家がぽつぽつと建てられて、街らしきものを作っている。そうした光景が俯瞰構図の画として出てくるとなんともいえない説得力が出てくる。パッと見ても50軒そこそこの建物しかない上に、牛の大群が画面を横切っている風景が出てくると、果たしてこれは映画かドキュメンタリーか……というくらいに映画の世界に気持ちが入っていける。

 道もあるようでないようなもの。あったとしても、誰かが通った跡にできた轍跡だけ。街から街は地平線のはるか向こうだから、馬に乗って何日も旅を続けなければならない。そうした時代感だから、人々は隣町で起きた出来事すら何も知らない。「陸の孤島」状態だ。だから新聞を読みにやってくるジェファーソンがやってくると、みんな進んでお金を出して、聞きに行こうとする。
 お話は頑迷な考えが残る南部を舞台としていて、しかも環境的な分断が映像として描かれている。時代背景や世界観が、作品のテーマを補強してくれている。

 インディアンの少女、ジョハンナを掘り下げていこう。
 映画の前半、ジョハンナにアメリカ人の服を着せようとすると、強硬に反抗する。またスプーンを差し出しても手で食べようとするのをやめない。
 これは単に近代的な習慣を持たないインディアンだから……ではなく、それが民族としてのアイデンティティだからだ。その民族の服を着ること。その民族の食べ物と、その民族特有の食べ方。民族としての危機に直面すると、その民族の出自にまつわる生活を頑強に手放そうとしない。これが民族の有り様として大切になってくる。これが作中で描かれたインディアンの立場だ。
 現代はどこの少数部族でもTシャツを着ているが、あれはもう部族としてのアイデンティティが崩壊して、資本主義の思想に飲まれている……ということを意味している。
(私たち日本人はとっくに民族としてのアイデンティティは崩壊している。だからどこの国かわからない町並みに、どこの国かわからない格好をしていても、平気でいられる)
 現代人の私たちは、そうした民族の生活を「劣った生活」であると見なし、近代的な生活感を受け入れることを良いこととし、エンタメの世界ではそれを達成目標とする物語を描きがちだ。でもそれは民族としてのアイデンティティを捨てさせている……ということを忘れてはならない。そうしたところも、おそらく作品はテーマにしているのだろう。
 インディアンの少女と接する、ということはそういう意味での分断も乗り越えなければならない……ということがテーマとして描かれる。文化の分断も本作は描いている。
 まあ、服に関してはわりと簡単にアメリカ人の服を受け入れてしまうけども。

 こんなテーマだから、難しい話か……というとそんなことはない。ここがこの作品の上手なところで、お話自体は(誘拐され)迷子になった女の子を、叔母夫婦のところへ届けに行くだけ。その道中で、様々な厄介ごとに巻き込まれ、少女を守りながらジェファーソンというオジさんが頑張るお話。その過程で次第にジョハンナとの絆が結ばれていく……。
 誰が見てもわかりやすい、楽しいエンタメがフレーバーとして載せられ、そのドラマを追いかけるだけでも傑作級に面白い作品になっている。読み込んでくると、南北戦争後という時代背景や現代アメリカに通じる分断の問題が見えてくるのだが、そんなこと考えてみなくても、単純にお話が面白い。戦争のトラウマを抱えたオジさんと、少女の心の交流のお話……というこの部分だけでも滅茶苦茶によくできているドラマだ。

 ポール・グリーングラス監督といえば『ボーン・スプレマシー』と『ボーン・アルティメイタム』といったアクション映画のおかげで異様なほどカット数が多い映画監督……という印象で語られるが、『この茫漠たる荒野で』においてはカット数はかなり控えめ。中盤、銃撃戦のあるアクションシーンはあるが、カット数は少なく、そこにある最低要素だけで重々しく描いている。
 エンタメ映画を撮る時は『ボーン』シリーズのようにこれみよがしにカット数を多くして、激しいバトルを描くこともできるが、作品に合わせてトーンダウンさせ、落ち着きのある、重さのあるアクションも撮れることを見せている。ここで監督としての実力の高さを充分に読み取ることができる。

 で、その銃撃シーンだが、やはりロケーションが見事。そこに至るまでの道程も素晴らしいのだが、あの岩場の風景、その風景を十全にいかした描写は本当に見事だった。
 という話をし始めると切りがないのだが。この作品、とにかくどのシーンもロケーションが見事だったから。

 どうして“西部劇”というジャンルで、この“分断”というテーマを描いたのか。おそらくは「単に西部劇が好きだから」ではなく、現代を風刺、あるいは現代をどう捉えるか、という喩え話として西部劇を描いたのだろう。
 開拓時代はアメリカの歴史が始まった最初の時代だし、アメリカ人が自国の歴史を思い浮かべる時、心の底に根付いている風景だ。日本人が見れば単純に「西部劇格好いい」くらいの印象でしかないが、歴史の浅いアメリカ人にとっては自分たちのアイデンティティに深く結びついている、ある種の“心象風景”でもある。
 そして「アメリカの分断」は昨日今日始まった話ではなく、開拓時代から終わっておらず、今もって南北戦争の名残みたいなものがずっと続いている。アメリカの分断は、アメリカが始まった時代から、アメリカ人の精神の深いところに温存され続けている病の一つ……。そういうことをこの物語を持って語りたかったのだろう。西部劇を描くことで、むしろ現代のアメリカの有り様を際立たせることができる……そう考えてこの物語にしたのだろうと感じた。


 お話だけを見ると、インディアンの女の子を、送り届ける……それだけだ。でもその内面に描かれたものは実に奥深い。それに映像に落ち着きがあり、ポール・グリーングラス監督の手腕が既に円熟期に入りつつあることもわかる。その重さのあるテーマを受け入れ、印象的な演技を見せるトム・ハンクスも素晴らしい。ストーリー、映像、テーマ、どれを取っても見るべき秀逸な1本だ。


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とらつぐみ
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