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映画感想 ワンダーウーマン1984

 『ワンダーウーマン 1984』をNetflixで視聴! 前作から66年後の1984年を舞台に、ワンダーウーマンの活躍を描く。監督、脚本はパティ・ジェンキンスが続投。公開されたのが、ウイルスの蔓延で混乱していたまっただ中だったとはいえ、順当な興行成績を獲得、批評家による評価も高かった作品。

!ネタバレあり!

 まず初見の印象だけど……アメコミヒーローもの映画としては、やや特殊な作り方をしている。なにがどう「特殊」なのかは、これから掘り下げていきましょう。

 時代は1984年。消費文化や映像文化がある種の成熟に達し始めた時代だ。見た目は華やかだけど、その影響下で「虚構」が現実よりも重要な地位を持つようになっていった時代でもある。「虚構」と「現実」のバランスが崩壊し始めた頃だよね。
 冒頭シーンで宝石店を強盗が襲うわけだけど、企業が理想として思い描く現実と、実際の現実のギャップが埋められず、手っ取り早く「成果」を得ようとする連中が、必要なプロセスをすっ飛ばして富を得ようと、ああいう行動に出てしまう。あの強盗一味は、時代が描いた消費文化に「幻惑」されて行動に及んじゃった……という人達だ。「物欲」をコントロールできなくなっていった時代の犠牲者だ、という言い方もできる。
 で、その強盗団達だが、見た目が貧乏くさい。あの年代の人々はなにかとド派手な格好をしていたのだけど、その中にあって地味で貧乏くさい。物欲の時代にあって、人並みの成功を得ることができなかった、という人達だ。
 主人公であるワンダーウーマンは超越した存在だけど、時代の影響下から逃れられず、ある「幻惑」に判断を誤ってしまう……これは後々出てくる話。
 まあとにかくも、80年代の消費者文化は色彩に節操がなくて……。デパートのシーン、ワンダーウーマンのコスプレ姿がむしろ埋没して見えちゃう。とにかくも、見えるものがなんでも派手だった時代だ。

 そのワンダーウーマンだが、「ダイアナ・プリンス」として博物館で研究家としての生活を送っていた。生活はそれなりに安定しているが、とにかくも孤独……。そういう暮らしだった。
 そんなある日、博物館に奇妙な「石」が運ばれてくる。石には「なんでも一つだけ願いを叶える」と刻まれていた。
 まさかそんな……。
 ワンダーウーマンは60年前に死に別れ、人生で唯一愛した男性のことを想う。
 同じく博物館にはバーバラ・ミネルヴァという研究家も務めていた。バーバラ・ミネルヴァは「いかにも地味な研究家」というタイプの女性で、男性からは無視されるかセクハラされるかだけ、という惨めな生活を送っていた。要するに女性としての性的アイデンティティに欠落を持った女性だ。
 そのバーバラ・ミネルヴァは、石に向かって、ダイアナ・プリンスの正体を知らないまま「彼女のように強くてセクシーな女性になりたい」と願う。すると翌日、バーバラ・ミネルヴァはスーパーパワーに目覚めてしまう。バーバラは意図せず、スーパーパワーを手にしてしまい、やがてその力に溺れて手放せなくなってしまう……というある種の悲劇として描かれていく。

 バーバラ・ミネルヴァの覚醒過程が面白い。
 まず翌日、目を醒ましたバーバラ・ミネルヴァは髪留めを外し、スカートを脱いでしまう。すると、「いかにも地味な研究家」という風情だった姿がパッと垢抜け、ちょっと良い感じの女性に変身する。この辺りの髪型や衣装の見せ方が非常にうまい。
 続いてパーティに出るシーンになると、体のラインがくっきり出る全身黒のドレス。どんどん垢抜けていく。周りの男性から注目され、ようやく「男性からの評価」を獲得できるようになっていく。前の「地味すぎて無視されるかセクハラされるか」しかない惨めなバーバラはもうそこにはいなかった。
 同じパーティのシーンで、ダイアナ・プリンスは真っ白なドレスを身にまとっているので、ここでくっきりとした対象を表現している。
 この後もバーバラ・ミネルヴァはどんどん変化していき、最終的にはヴィランになってしまうわけだが……。後半はファッションもワイルドになっていき、一瞬「だれだ?」ってなる。

 ところで、バーバラに対してセクハラをする男だが、登場シーンを見ると、公園のベンチで寝そべっているような男だ(見た目からすると仕事は持っているようだが……)。察するに「底辺」である。冒頭の強盗団一味も、見るからに貧乏くさい格好をしていた。底辺が底辺を罵り合う……最近の映画でよく見られる描写の一つだ。
 バーバラは博物館勤務という社会的立場としては成功者の側にいるはずなのに(実は結構いい家に住んでいる)、見た目がいまいちパッとしない女性であるがゆえに、社会的成功から外された底辺男に絡め取られてしまう。そういう女性の立場も描いている。要するに、見た目が垢抜けていない女性はもやは底辺なんだ……と。キツい描き方をするけど、これが女性から見た真実でもある。

 この辺りの展開からわかるように、『ワンダーウーマン 1984』ははっきりとフェミニズム映画。女性の立場と自立についてをテーマにしている。女性の社会進出……といっても、職場では男性からは無視されるかセクハラされるか……。女性の立場なんてそんなものでしかなかった。バーバラはスーパーパワーを手にして一気に垢抜けていくが、結局のところ、「男性の評価」がなければ社会の中で地位を獲得することができない……という皮肉もまた描いている。
 バーバラ・ミネルヴァは石の力によって、ワンダーウーマンと同等の力を得て、女性としての自信を身につけていく。そんなバーバラに対し、ワンダーウーマンは「それは本当の力ではない」みたいに言って諭そうとする。
 しかし、バーバラからしてみれば、ワンダーウーマンの言葉は「傲慢」にしか聞こえない。バーバラのような弱い立場の女性がスーパーパワーを失ったら、元の「無視されるかセクハラされるか」だけのパッとしない女性に戻ってしまうだけ。ワンダーウーマンの立場から説教されても、「お前は力を持っているから良いけどさ……」となる。「その力を手放しなさい」と言われても、バーバラからしてみれば「嫌だ」となるのは当然。
 そこでワンダーウーマンという存在に対しても疑問符を突きつけている。ワンダーウーマンはスーパーパワーを持ってしまった女性に対して、そこまで言える権利はあるのか……と。
 こういった映画を通して、女性が女性として社会の中で自立していくためには、結局はワンダーウーマンくらい抜きん出たパワーを持っていないとどうにもならないんだ……。そういう社会に対する冷めた目線と風刺が込められている。

 この映画にはもう一つストーリーラインがある。ダイアナ・プリンスが石に願ったために復活してしまうスティーブ・トレバーだ。
 復活したスティーブ・トレバーは1980年代の街の風景を見て驚く。ちょうど、前作で初めて人間の都市にやって来て驚くダイアナ・プリンスと対象になる描き方をしている。
 でもワンダーウーマンは、復活したスティーブ・トレバーがまやかしでしかないことに、すぐに気付く。気付くけれども、なかなかスティーブ・トレバーを手放そうとしない。スティーブ・トレバーを復活させたために、代償として力の大部分は失われてしまっていることに気付いていたのにもかかわらず。
 なぜなら、ワンダーウーマンも80年代に蔓延していた幻想に「幻惑」されていたから。この辺りが、虚構と現実のバランスが危うく、「物欲」だけが肥大化していった時代の影響を表現している。
 最終的にワンダーウーマンはスティーブ・トレバーという幻想を手放すのだけど、それは80年代的物質主義の幻想を捨て去る……ということでもあった。

 この映画にはさらにもう一本、ストーリーラインがある。それが事業家マックス・ロード。  物語のキーアイテムとなる「石」だが、作中に説明があるように、要するに「猿の手」。なんでも願い事を叶えてくれるが、望まない形で叶えた挙げ句、何かしらの代償を払わせてしまうというもの。
 ワンダーウーマンはスティーブ・トレバーの復活を願ったためにスーパーパワーの大部分を失ってしまい、バーバラ・ミネルヴァは本来持っていた人情を失ってしまう。
 マックス・ロードは何を願うのか……というと、自分が「願いを叶える石」そのものになること。そして色んな人に会って願い事を叶える代わりに、代償として相手が持っているものをどんどん奪っていってしまう。
 マックス・ロードの役割はなんなのかというと、80年代を象徴する物質主義、物欲にコントロールされた時代そのもの。「あれも欲しい、これも欲しい、なんでも欲しい」……物欲のシンボルであるから、次第に「物欲」をコントロールできなくなってしまう。

 マックス・ロードを中心に置いているから、ワンダーウーマンとバーバラ・ミネルヴァの二人が次第に交差するようになっていく。映画の半ば辺りまで、はて、ワンダーウーマンとバーバラはいつどこで対立するのだろう……と思っていたが、マックス・ロードという人物を中心に置いたことによって、二人に対立する理由が生まれている。この辺りが自然に展開していて、かなり良い作り方だ。

 さて、『ワンダーウーマン 1984』は「アメコミヒーローもの映画の皮を被ったフェミニズム映画」という時点でかなり特殊な作りになっているのだが、時代を象徴する物欲と、女性の社会的立場を巡る物語を中心に置いていて、いわゆるな「アメコミヒーローもの映画」らしいアクションシーンがかなり少ない。「痛快な活劇映画」を期待して映画を見に行くと、まずがっかりするはず。なにしろ、冒頭の強盗一味と戦うシーン、中盤のチェイスシーン、ホワイトハウスでのバトルシーン、クライマックスでのバトルシーンと、だいたい4回しかアクションシーンがない。2時間半という尺の中を勘案すると、少ない。しかも、そこまでアクションシーンを濃密な作りにしていない。あくまでも、「願いを叶える石」を中心にした寓話を本題にしている。こういうややファンタジーな題材を活かすために、「アメコミ」という題材が採用されている……ともいえる。

 でもちゃんとヒーロー映画として作られている部分もあって、例えばワンダーウーマンがスティーブ・トレバーを手放した後、空を飛翔する。あそこで、ワンダーウーマンは過去の悲しみから本当に解放され、より超越した存在になった……ということが表現される。ヒーローとしてより高みに上りつめていった……ということを、そのまんまな情景描写・直喩表現として表現されている。
 ただ惜しいのはゴールドクロスを身にまとうまでの展開。ゴールドクロスを身にまとうのは、ワンダーウーマンがより上位存在になったことの証なのだけど、そこまでの展開がちょっと滑らかじゃない。
 空を飛んだ後、自宅に戻り、包みを解いて……というのはややモタつく。「そこで帰宅するんかーい!」って突っ込みたくなる。あそこは『聖闘士星矢』のように、ゴールドクロスが飛んできて、勝手に装着していく……みたいな描写で良かったんじゃないかな。

 もう一つ惜しいのは、飛翔シーンが嘘くさく見えること。いかにも「合成です」って感じ。現代の技術ならもうちょっとうまく撮影できたんじゃないか?
 実はアクション全般どことなく違和感があって、まず力感がおかしい。その動きで物体がそういうふうに動くのはおかしいぞ……というシーンがちらほら。ワンダーウーマンはしょっちゅうジャンプするのだが、そこも力感がない。溜めがなくぴょーんとジャンプしてしまうので、何となく違和感。
 今回の『ワンダーウーマン』はそういうアクションではなく、「1984」というタイトルに込められた風刺と寓話をどう読み取るか……そういうテーマ性の方を重視して観た方が良い。

 さて、映画の最後はワンダーウーマンの孤独な様子が描かれる。
 一見すると、スーパーパワーを持っているワンダーウーマンは、自分の人生をなんでも思い通りにして過ごしているように見える。でも、その実態はただただ孤独。そのうえにスーパーパワーを持っているから、力を持ってしまった責任として人々を密かに守り続けている。本当に人々の人情の中に入っていけず、遠くから見守る存在でなければならない……。
 人々が平和である姿を見て、そこに幸福を感じながら……。
 スーパーパワーを獲得すれば、幸福になれるわけじゃない。超越した存在だから、男性から差別されることもなければ、男性の評価も要らない。完全に自立していける存在。ゆえに孤独。本当にパワーを持ってしまった人間の哀しみを描いて、映画は終わっていく。

 『ワンダーウーマン 1984』は単に女性が主演で、女性が監督です……というだけではなく、女性が作り手となって表現者として何を描き、作品を通して何を社会に訴えるのか……というところまで突いた作品。最近は女性監督ハリウッド映画も多くなってきたけれども、そのどの作品よりも寓話的でメッセージ性が濃い。それでいて、エンタメ映画としてのスケール感もきっちり表現している。見た目の華やかさだけではなく、きちんと骨のある映画として仕上がっている。思いがけずいい映画だった。前作『ワンダーウーマン』よりも強いメッセージを感じた。


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