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2021年4月のご挨拶

 みなさんこんにちわ。
 とらつぐみです。

 ……先月の続き。

 最近、漠然と考えていることは、50人、あるいは50世帯くらいを上限とした「村」を作って住むのはどうだろうか……という話。
 なぜ50人まで、というと先月話したけれども、人間の認知能力の限界は150人くらいだ。ずっと言われ続けていることの一つに「地域の連帯が~」といった話があるが、数百人や数千人単位の町で「地域の連帯」がどうこうという話をしても、それは人間の認知能力を越えるので無理がある。
 私はこの町でずいぶん長いこと過ごしているが、隣の人がどんな人かぜんぜん知らない。挨拶もしない。田舎とはいえ、ある一定以上の人数を越えると、隣に住んでいる人ですら誰なのかわからなくなるし、興味も持てなくなってしまう。コミュニティは増えすぎると連帯感を失い、むしろ結びつきを解体してしまう現象が起きてしまう(私の場合、人間に興味がないからそれが極端に出ちゃう)。だからどんなに「地域の連帯が…」どうこう言ったって、認知能力の限界なので無理なものは無理。理想家がどんなに「人はより大勢の人と結びついていなければいけないんだ!」と力一杯叫んだところで、人間には認知能力の限界があるんだから、できないことはそもそもしないほうが良い。
 そういう認知能力の限界があるなら、いっそ50人程度を上限にコミュニティの規模を小さくしてしまう。なぜ50人なのか、というと将来子供を産んで増えることを想定している。住人は不特定多数の誰かから募集するのではなく、職業や思考・思想で繋がりあえる人のみで集める。なんなら同じ職人同士が固まって住むというのもいいかも知れない。
 子供が生まれる想定で、だいたい100人前後くらいであれば、そのコミュニティ内で起きている問題や課題に対して当事者意識を持てる。村の在り方に対して当事者感覚を持てるから、その村の中でゴミのポイ捨ても壁への落書きも立ち小便もしなくなるだろう。コミュニティの問題を、自分の問題として考えることができる。「どこか知らない偉い人がコミュニティのルールを勝手に決める」みたいな感覚ではなく、自分たちの問題として考えて、意見を言おうと思ったらそれくらいを限界にしたほうがよい。

 それで外部との連携は基本的に断つ。先月書いた通り、私は「多様性」や「寛容性」といった言葉を信じていない。そんなの無理だ。人間はイデオロギー的な存在で、意見の合わない者は排除しようと考える。「多様性」や「寛容性」を主張する人間が、それに異を唱えようとする他人をこれみよがしに攻撃する現象なんて、探せばいくらでも出てくる。
(私みたいなアニメ好き・ゲーム好きは「多様性」を唱える人々から「犯罪者予備軍」と排除されてきた。これからも「犯罪の温床」としてやり玉に挙げられ続けるのだろう。そういうタイプの人間を嫌ほどしているから、多様性とか寛容性とか言っている人間を信用しない)
 「多様性」や「寛容性」といった言葉が出てくるのは、「平均的な社会」の中で「常識」として規定されている認識がごく狭い世界でしかないから起こる。たまたまその社会における常識世界に生きられる【平凡】な人間は人生楽に過ごせる。でもその範囲外の人間としての自己認識を持ってしまった者は苦しむ。そういう人々が「多様性」や「寛容性」を唱えるが、本質的テーマは別だ。人間観が違うということから起こる。そういった人々が当たり前である社会をつくり、そこに住むようにすれば、この問題は消えてなくなる。でもそれは1000人や1万人の社会の中では不可能だから、100人程度に絞って、外部との接点を断って生きる。

 100人前後で固まって住み、外部世界との連携は断ってしまう。どうせわかりあえないのなら、わかりあえないと開き直って世界を遮断して、自分たちのコミュニティを作り、そのコミュニティと向き合って過ごす方がいいだろう。

 でも、これがうまく行くか……というと無理だろう。100人前後の村が社会として成立するのか、という問題。物資や医療は充分に得られるだろうか。仕事も全員に行き渡るかもわからない。
 インフラの問題がある。日本は「国土面積は大きいが、可住面積は少ない」とよく言われることで、実際その通りだが、田舎に住んでいるとちょっと違う面が見えてくる。田舎の道路って、区画整理が滅茶苦茶なんだ。歩道と道路の境界もあやふやで危ないし。「整理されていない」という問題がある。末端までインフラを整えるということができていないんだ。街中を歩いていると、空き家も多い。土地の有効活用がされていないというのも実態だ。
 最大の問題は、世代が一つで終わる……ということ。健全な町とは、子供が生まれ、その次世代が同じ町に住んで発展させること。しかし私の書いたような村では、新しく生まれた世代はやがて出ていくことになり、その村は一つの世代で終わってしまう。
 ……もちろん、そのつもりで書いている。一つの世代が終われば、その後新しい世代が住み着けば良い。

 一つの案として、100人前後の村がいくつもあり、その中央に全員が消費する店や仕事場のある街がある……という構造。
 でもそんな大がかりな構造を誰が作るんだ、という話だ。
 そんなことができるのは、そこそこ以上に成功した人たちだけ、ということになる。普通の人は住むことができない。

 それに、固まって住むことの問題もどこかしらで生まれるかも知れない。閉鎖しているから、そのコミュニティ内で奇妙なルールや習慣が生まれてしまう可能性だってある。変な飛躍をしてしまわないよう、また変にコミュニティ内の罰則を強くしてしまわないように、「良識」なるものがあるが、その良識は全ての人に宿っているわけではないし、時にコミュニティそのものが良識を忘れて極端に陥ることもある。文明がどんなに発展しても、人間は相変わらず部族社会的な因習や偏見から抜け出ることはできない。だから普通の一般人がコミュニティのルールに口出しせず、「どこかの偉い人が勝手に決める」方法のほうが良いかも知れない。
(「公共性」と「エゴ」の区別ができない人が、自治や制度に口出しすべきではない。例えば「子供の声が不愉快だから公園で遊ばせるな」とか言っちゃう人は駄目)
 知性や良識ある人々で集まれば良きコミュニティになることは間違いないが、単に趣味嗜好で集まっただけのコミュニティはきっとどうしようもないカタストロフを迎えるだろう(それこそ中学生の教室のような)。
 やはり「成功者」だけが住める村……ということになる。

 という理想は現実ではあり得ないので、私は物語の中でこれを書こうかな……と考えている。その中では誰も争ったりせず、静かで穏やかな日々が過ぎていく……。現実ではそううい世界は理想でしかないから、物語として書こう。


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とらつぐみ
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