5月28日 アメリカの人形劇文化が凄かった……『ダーククリスタル・エイジ・オブ・レジスタンス』感想
Netflixドラマ『ダーククリスタル エイジ・オブ・レジスタンス』を見た。2019年に公開されたドラマシリーズ。公開された当時から気になっていたけれど、やっと視聴だ。普段なら「ドラマ感想」として書くところだけど、忙しくて余裕がないので(1万字くらい書かなくちゃいけなくなっちゃう)、気楽な「雑談」カテゴリーのほうで感想を書きます。
!ネタバレあり!
さて、内容は……。
すげー!
人形が生きているように動いている!
これ、どうやって作っているんだ?
第2話まで見たところで一旦立ち止まって、先にメイキングを視聴。ストーリーよりも「どうやって作っているのか」のほうが気になってしまった。
メイキングを見ると、凄さがよくわかる。作られているあらゆるものがアートなんだ。パペットはもちろんのこと、セットも小道具も、どれも見事な造形美とリアリティ。「人形劇だから」と手は抜かず、徹底的にディテールにこだわって作り込んでいる。作り込み具合は、それこそ本当の人間がやる歴史ドラマと同じようにしっかり作る。そういうものが集積して、あの見事な画面が作られる。
メイキングを見るとこのクオリティに納得できたけれど、でも「魔法の正体」がわかったわけではない。結局は、作り手1人1人のスキルが滅茶苦茶に高いから……というしかなかった。
ただ、ずっと見ていると、やっぱりパペットゆえの「弱点」というものが次第に見えてきてしまう。
その一つは小人族ゲルフリンの「手」の表現。指先の動きはアニマトロニクスでかなり繊細な動きができるのだけど、何かを持って、握った時の力強さが表現できない。これが武器を持って身構えた時、「様」にならない。パペットの「表情」は最終的にCGでちょい足ししていたみたいだけど、手の表情にもCGでちょい足しして欲しかった。
次に気になったのは「走る」表現。パペットが歩いたり走ったりすると、人形師も一緒に歩いたり走ったりする。ところが、走る表現になると、どうしても「歩幅」がおかしく感じられる。背景の流れ方も、長い髪のなびき方も不自然。急にリアリティが遠ざかってパペット感が出てしまう。
パペットの走り方の表現は、まだ発展の余地あり……だ。
3つ目。これが極めつけ、人形劇ゆえのジレンマとなる部分。ゲルフリンの登場シーン、ほとんどが「腰から上」だけしか出てこない。
どうして腰から上しか描かれないのか……というと人形師が映ってしまうから。メイキングを見ると、腰から下にあるのは人形師。人形師が人形を担いでいるところが見えてしまう。
これが「構図」の問題になっていて、作られているセットはものすごく巨大で、造形も見事なのに、ゲルフリンが腰から上しか描けないためにどうしても画角が狭くなってしまう。せっかく作り込んだのに、スケール感が出ない。
ドラマシリーズ後半のクライマックスで、ゲルフリン達が決起し、軍団が集まってくる……という胸躍るシーンがあるのだけど、やっぱりゲルフリン達は腰から上しか描かれない。腰から上までしか描かれない軍勢が、かなり狭いフレームの中で登場する。ここが一番の盛り上がりどころなのに……と、ちょっとガッカリ。
一方、侵略者であるスケクシスたちは多くのシーンで全身が描かれる。なぜならスケクシスは「着ぐるみ」だから。ゴジラやウルトラマンと一緒(正確には違うけれども。かなり独特な機構で表現されている)。
スケクシスは足元まで描かれ、動きがキレッキレなんだけど、ゲルフリンはどのシーンを見ても「腰から上」しか描かれない。
これがシーンとして引っ掛かりになるのが「活劇」シーン。この作品にはバトルシーンがいくつかあるのだけど、見ていても何が起きているのかよくわからない描写がちょっとある。というのも、ゲルフリン達は腰から上しか描かれないうえに、武器を力強く握って振りかぶったりができない。だからカメラワークをうまく使って「戦っている雰囲気」が出るように工夫を重ねなければならない。
これがうまくいっているシーンは格好いいのだけど、うまくいかないと「ん? 何が起きた?」みたいになる。それどころか、ちょっと間抜けに見えてしまう。
この辺りが人形劇の限界。人形劇で作る上での葛藤だ。
いっそ人形師もグリーンスーツを着てもらって、足だけはCGというわけにはいかなかっただろうか……。
なぜ『ダーククリスタル』のドラマシリーズはCGではなく、人形劇を選んだのか。今やCGはなんでも表現できるもので、人形劇のほうが制約が多かったはずなのに。
この話はメイキングでも出てくるけれども、CGというのは飽くまでも「モニターの向こう」でしかない。今のCGは手早く、精巧なものが作れるけれども、何もかもが実体のない「モニターの向こうの世界」の話。モノ作りとしての現実感がない。
一方、パペットなら間違いなくそこに存在する。スタッフ全員がその姿を見て、仕上がりを見て納得することができる。CGだと、そのシーンのCG制作担当者と監督しか納得しない。するとスタッフは自分たちが作っているものの全体像がいまいち見えてこない……という状態になってくる。
実際、ゲームやCG映画の制作現場では、スタッフが「自分たちが何を作っているのかわからなくなる」というのはよくありがちな話なんだそうだ。これが少しずつスタッフ達のモチベーションに影響していく。
一方のパペットは「確かにそこに存在する」――この意味は大きい。パペットという実体がそこにあって、人形師が芝居を付ける。するとパペット同士の「演劇」が成立する。人形師の付けた「表現」と、人形師同士の演技の連携がそこに現れてくる。
CGだとアニメーターが動きを付けることになるのだけど、例えばシーンに3人のキャラクターが登場しているとして、その3人の動きをアニメーターが想像して動きを付けることになる。1人で考えて動きを付けるから、何となく展開が「段取り」っぽくなってしまう。そこで「段取り」っぽく見えないようにするのが、ライターや演出やアニメーターの力なのだけれど……。アニメを見ていても、「いかにも段取りっぽいやりとりだなぁ」と感じることは多い。
でも人形劇は演劇なので、掛け合いをすればそこに自然な芝居の流れができる。そちらのほうがシーンとしての納得感が生まれやすい。
結局のところ、客観的に見ると今はCGのほうがクオリティの高いものができるのだけれど、でも人形の実在感と、そこにいるスタッフ全員の納得感のほうこそ大事なんじゃないか……ということになった。
CGではなく人形で作ることの意義……というのもちゃんとある。
例えば髪の長いキャラクターが壁にもたれかかると、髪の毛が壁にかるく引っ掛かる。これは壁と髪の間に「摩擦」が生じたためだ。
CGだと摩擦は設定しなければ発生しない。作り手が「摩擦」に思い至らなかったら、髪の毛が壁に触れてもツルッとすり抜けてしまう。実際、ほとんどのCGはそこまで考えて作らないから、髪の毛が何に触れてもツルッと滑ったような表現になる。
ところが人形だと、何に触れても「摩擦」が当たり前のように発生する。髪の毛じゃなくても、手で触れたり、押さえたりしたときに、擦れた感じが出る。それが「実在感」として納得感ある描写になる。
私もそういう表現を映像内で見付けるたびに、「ああ、これはCGでは出ないところだなぁ」「やっぱり人形で良かったなぁ」と思うところだった。
人形劇には弱点はあるけれども、長所も一杯あるのだ。
さて、物語を見てみよう。
物語は「惑星トラ」を舞台に展開されていく。(「Thra」だから「tera」から1字変えただけのものだね)
惑星トラには先住民として小人族のゲルフリン達がいたのだけれど、そこにいつしか「スケクシス」と呼ばれる種族がやってきて、支配されるようになっていた。「支配」といっても独裁的な圧政ではなく、「精神的支配」のほう。ゲルフリン達は洗脳されていて、スケクシスたちに服従することが当たり前……みたいになっていた。
スケクシスたちは実は別の世界から来た存在だった。惑星トラは少し不思議な「理(ことわり)」を持った世界観で、クリスタルが万物の中心にあって、そこを中心に「魂」のようなものがやり取りされていく世界となっている。もしもゲルフリンが死ぬと、魂はクリスタルに回収され、新たな命として別の何かに宿る。「輪廻転生」に似た雰囲気だけど、ちょっと違う。魂がずっと補完され、継承される世界観になっている。
一方、スケクシス達はその理の外からやってきた存在。惑星トラのシステムに組み込まれていないから、ゆえに不死であり、生殖によって命を繋いでいく、ということもない。もしも死んだら、その時点で「終了」ということになる。
(スケクシスは死ぬと、灰になってボロボロと崩れる。「死体が土に還る」……ことすらできない。肉体の原理からして、完全に惑星トラの死生観から外されている)
物語の後半、スケクシスの1人が死んでしまうのだけど、スケクシスは同胞をどう葬っていいかわからない。なぜなら不死だから、仲間の死を経験したことがなく、死をどう捉えていいかわからない。
それで、結局スケクシスは死んだ同胞を紐で吊し、謁見の間で飾ってしまう。とうとう死を受け入れることができなかったのだ。「この者は死んでない! 生きている者と同じように扱うのだ」と言って。
そんなスケクシスたちも、皮膚は老人のように垂れているし、膿もひどくなっていた。不死とはいえ、衰え続けるのだ。そこでスケクシスはゲルフリンを捕らえて、そのエキスを抽出し、それを啜って老いに抵抗する……ということを始めてしまう。ゲルフリンは死ぬと魂がクリスタルに回収されるのだけど、その前にスケクシスが「エキス」に変えて啜ってしまう……つまり魂そのものを啜ってやろう、という話だった。
(注釈 スケクシスはもともと不死なのではなく、クリスタルが放つ霊力を浴びて、寿命を引き延ばしている。しかしそのクリスタルが放つ霊力も弱くなってきて……そこからゲルフリンの魂をエキスにして啜る……ということを考えつく)
そんなおぞましい現場を、偶然見てしまった若きゲルフリンであるリアンは、クリスタル城から命からがら逃亡するのだった。
「仲間達にこのことを知らせないと……」
一方のスケクシスたちも、目撃されたことを察知して、リアン逮捕のために様々手を尽くすのだった。
……と、いうところからこの物語は始まる。
いいファンタジーだなぁ……と感じたのは、この世界観特有の「理(ことわり)」が存在すること。創造的なファンタジーというのは、この物語にしかない「ルール」があるものだ。それは現実世界の理屈を飛躍していなければファンタジーにならないし、既視感があってはならない。そういう意味で、今は「異世界転生ファンタジー」が山ほど作られているけれど、あれはダメなファンタジー。誰も「その作品でしかないファンタジー」を構想していないから。いってしまえば「RPGツクール」みたいなもの。オリジナリティのない世界だから、私は異世界転生に興味がない。
『ダーククリスタル』の場合、ファンタジー的な理を「死生観」のところに持ってきている。スケクシス達は別世界からやってきたから、惑星トラにおける「生と死」の仕組みから外されている。ゆえに不死である。死なないけれども老化はし続ける。そこでトラの住人ゲルフリンの魂をエキスにして啜ってやろう……と考えてしまう。もとよりスケクシスは惑星トラとは別世界から来たから、ゲルフリンたちへの愛着が一切ない。だから情け容赦なく、ゲルフリンの魂をエキスにして、いくらでも啜ることができてしまう。
スケクシスの存在が、『ダーククリスタル』を個性的にしているし、物語の切っ掛けになっている。これがしっかりできているファンタジーというのは絶対にいいものだ。
実際、ストーリーの展開が非常に良かった。人形劇だから、ゲルフリン達は「腰から上」しか描かれず、常に画角が狭いという引っ掛かりどころはあるのだけど、物語がしっかりしているから、ずっと面白い。リアンがこの先どうなるのか、果たしてゲルフリン達はスケクシス達に騙されていることに気付き、決起できるのか……。ここにハラハラのドラマが集約されるように作られている。
ドラマシリーズのクライマックスで、とうとうゲルフリン達はスケクシスの洗脳から解放され、反撃の狼煙を上げる……! と熱気が高まったところで物語は終了となる。
ではその後、どうなったのか?
実は『ダーククリスタル エイジ・オブ・レジスタンス』は1982年の映画『ダーククリスタル』の前日譚となっている。Netflixドラマの続きが、40年前に制作された映画……ということになっている。
これは最後まで見届けねば……!
でもなぜか肝心の『ダーククリスタル』がNetflixにない! なぜだー! Amazon Prime Videoで100円レンタルだったので、こっちで視聴。
すると……。
あれ? どういうこと?
なんてこった! 『エイジ・オブ・レジスタンス』のキャラクター達があらかた死んじゃってる! 『ダーククリスタル』の途中で出てきた城って、あれはオルモードラが治めていた城だよな? すっかり廃墟になっちまって……。
どうやらあのドラマシリーズの後、もう一つ大きな戦いがあって、そこでスケクシス達は勝利を治め、ゲルフリン達はほぼ絶滅状態まで追い込まれていたみたいだった。
おのれ、スケクシスめ! いったい何をしたんだ!(『猿の惑星』のラストシーンっぽい口調で)
『エイジ・オブ・レジスタンス』のキャラクター達に愛着があったから、どうやら死んでしまったらしい……ということに気付いてショックだった。
知らない間にバッドエンドコースまっしぐら。Netflixドラマシリーズの後に、何が起きたのか……。
それで、1982年の映画を観てみると、やはり凄かった。人形の造形やアニマトロニクスは現代の技術のほうが確実に上だ。ゲルフリンの肌の質感や、細かな表情の作りは現代のほうに軍配がある。髪の毛……つまり植毛の技術も現代のほうがレベルが上がっている。ただ、人形の操演は1982年のほうがクオリティが高かった。
どこが……というと歩いたり走ったりしたときの、「体重移動」の感覚だ。これが1982年のほうがシックリくる。Netflixドラマ版には、この「体重移動」の感覚がなかった。この時代の人形師のほうが腕前は良かったのかも知れない。
それに、わりと人形の腰から下も描かれている。あれ? 人形師どこに隠れて動かしているんだ? ……そんなふうに感じるシーンが多かった。時代観を考えると、こっちのほうが「魔法」で映画を作っている感覚がある。
一方、スケクシスははっきりと現代のほうが動きは良かった。スケクシスは、実は体の中にテレビモニターを入れて、着ぐるみを着ている人はこのモニターを見ながら、自分の動きを確認している。現代版のほうはモニターも薄型軽量だけど、40年前は……。
スケクシス達の動きが鈍重なのは、自由に身動き取れなかったから……というのが関係しているのかもしれない。
ストーリーは……というと、1982年版『ダーククリスタル』はあまり面白くない。ドラマ的な紆余曲折が物語になく、終幕に向けてダーッと流れていく感じ。どうにもあの世界観を構築することが精一杯だった……みたいな感じがしてしまう。実際にあれだけのものを作るだけでも、相当な苦労や試行錯誤があったのだろう。そもそもああいった世界観を、どうやったら構築できるのか誰にもわからず、実験を何度も重ねながら……という感じだったようだから。
40年前、CGなんて存在しない時代にあれだけのファンタジーを作り上げた。それだけでも称賛に値すべき仕事。後の時代に向けた礎になった作品だ。
1982年の『ダーククリスタル』はゲルフリンとスケクシスの戦いの最期が描かれる。ゲルフリン達の勝利で物語は終える。リアンたちが掲げた反逆は、ここにきてついに決着したのだった。
の、はずなのだけど……。
2019年のドラマシリーズの後、1982年の『ダーククリスタル』を見ると、ちょっと違和感というか……。どこか違う世界線のお話を見た……という感じがしてしまう。
(実際、「矛盾」があった。1982年版ではスケクシスとオードラが初対面になっていたり……)
これは違う世界線のお話なんじゃないか、という気がだんだんしてきた。
これはドラマシリーズの続きを作ってもらいたいけど……。しかしアメリカのドラマシリーズは人気があれば永続的に続編が作られ続けるのに、3年も続編が作られてない。ということは、あまり人気が出なかったのか。残念。面白かったのになぁ。続きも見たかった。いっそ、ドラマシリーズで劇場版をリメイクする……くらいまでお話が進んで欲しかったなぁ。
そこから進んで、さらに「その先」のストーリーも見たい。スケクシスたちが去った後の、惑星トラの物語も見たかった。
おまけ
1982年『ダーククリスタル』におけるクリスタル城。城の周囲は荒涼としていて、草一本も生えてない。
2019年『ダーククリスタル エイジ・オブ・レジスタンス』におけるクリスタル城。この頃はまだ緑豊かな景色だった。そんな中にそびえるクリスタル城の禍々しい雰囲気は、場違いな印象が漂う。スケクシス達が「侵略者」であることを、映像で示している。
『ダーククリスタル』。冒頭からいきなりフルヌードで登場する、主人公のジェン。やだぁ、エッチ!
『ダーククリスタル』の服を着ているジェン。顔はこんな感じだった。
『エイジ・オブ・レジスタンス』の主人公リアン。造形の質がレベルアップした感じがよくわかる。見た目だけではなく、内部構造もグレードアップしていて、表情が豊かになった。1982年は「アニマトロニクス」の技術そのものを開発しながらだったが、2019年版では映画史が積み上げてきた技術を応用して作ることができる。最新作はラジコン式になっていて、人形師とタイミングを合わせて、オペレーターが表情を付けている。
『ダーククリスタル』のヒロイン、キーラ。か、かわいい……。
『エイジ・オブ・レジスタンス』のヒロイン、ブレア様のベストショット。はわわ、こっちもかわいい……。
こうして並べると、植毛技術が高くなっているのがわかる。旧作のパペットはどうしても髪がボサボサ。
『エイジ・オブ・レジスタンス』ゲルフリンを束ねる一族ヴァプラ・クランの玉座。ゲルフリンの意匠は「羽」の模様をベースにしている。玉座周辺も羽模様があちこちに取り入れられ、玉座を中心に大きな羽を広げたように見える。玉座の間にやってきた人達が、王の存在感に圧倒されるように作られている。ちなみに、謁見の間入り口の扉も、羽模様の意匠が入れられて非常に美しい。
ゲルフリンが羽を有しているのは女だけなので、それで自然と権力の中心も女性になっている。
『ダーククリスタル』に登場する廃墟。そこにぽつんと置かれている玉座……。ひょっとするとヴァプラ・クランの玉座なのだろうか……? ゲルフリンが戦いに敗北したことがここでわかる。
『エイジ・オブ・レジスタンス』の地下に隠されている、意味深な碑文。1982年の『ダーククリスタル』にも似たものが登場するが、書かれていることが違うので、別のもの。もしかすると、『エイジ・オブ・レジスタンス』の後、次世代に向けて新しい予言が書き記されたのかも知れない。
『ダーククリスタル』に登場する謎の碑文。アーチ状に文字が刻まれているところがよく似ている。描かれている内容が違うので、別のもののようだ。
1982年『ダーククリスタル』のスケクシス。
2019年『エイジ・オブ・レジスタンス』のスケクシス。同じ場面が描かれている。カメラの精度はもちろんのこと、スケクシスの造形のレベルアップしている。スケクシスの内部構造も進化しているので、動きがキレッキレになっている。
1982年『ダーククリスタル』。ジェンとキーラが小舟に乗って、キーラが唄い、ジェンが笛を吹いている。ジェンの指が細かく動いている。このシーンではないが、演奏中に息継ぎする瞬間も描かれていて、この動きが非常にリアル。
1982年『ダーククリスタル』の世界描写。非常にわかりにくいが、中央やや右手のところにジェンがいる。こういったロングサイズになると、子役に衣装とマスクを付けて演技をさせている。画面中央からやや左にいったところ、太い「ツタ」が横切っているところから、セットではなく「マット画」になっている。
1982年『ダーククリスタル』のミスティクス。
2019年『エイジ・オブ・レジスタンス』のミスティクス。オーグラもミスティクスも着ぐるみ。ただミスティクスは4本手。中に複数人入っているから、非常に動きにくそう……。
『エイジ・オブ・レジスタンス』石の魔神ロア。このキャラクターもCGではなく、グリーンスーツを身につけた人形師が後ろに複数人付いて、動きを付けている。