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9月9日 知的エリート階級って、なんであんなヘンテコな考え方をするんだろう? 思考フレームについて考えてみた。

 ネットでちょっとオモシロ話をひろったので、その話をしましょう。

 NHKのとある番組で、アメリカ人研究者が『ストリートファイター』を取り上げていたのだが、その内容が問題だったらしい。『ストリートファイター』シリーズには、リュウとケンというライバル関係のキャラクターが登場するのだが、これには「当時の日米対立の構図があった」のだ……と語られていた。当時のプレイヤーは、このゲームをする時、背景に日米対立を意識しながらキャラクターを操っていたのだ……という。

 ……お、おう。
 とりあえず、時代の確認をしよう。
 初代『ストリートファイター』がアーケードゲームとして登場したのは1987年。日本は経済大国として隆盛を極めていた頃で、それゆえにアメリカとの貿易摩擦が起きていた。現実世界で日米関係はやや微妙だった、というのは本当だ。
 ただし、1985年には因縁深い「プラザ合意」があり、ここから急速な円高が始まる。1ドル240円から、一気に1ドル120円まで上昇。この円高の打撃を緩めるために、日銀は金融緩和を実行。資金が過剰に市場に流れ込む「バブル状態」が醸成されていく。一般人は「土地資産持ってりゃ利子でいくらでも儲かるぞ」感覚で投資しまくって……1990年バブル崩壊。というのがこの後、数年間で起きるできごと。
 『ストリートファイター』はその最中に登場したゲームだった。

 ちなみに、そのNHKの番組というのは『世界サブカルチャー史 欲望の系譜』で、この件について語っていた“研究者”というのは日本文化研究家レイチェル・ハッチンソン

 が、しかし――リュウとケンは別に「日米対立のシンボル」ではないし、『ストリートファイター』のプレイヤーがこのゲームをプレイする時に、現実の日米対立を意識していたとは到底思えない。さらに作り手がそういう意識を持ってキャラ設定をしたとも思えない。
 そもそもの話、ケンは日本生まれの日本人。もともとは「拳」という名前。後から「アメリカ代表」の設定が生まれ、「ケン・マスターズ」の名前も後付け、大金持ちの御曹司設定も後付け。私のおぼろげな記憶では、ケンはもともとは「アメリカかぶれで髪を染めている」という設定だった。後になって「実はアメリカ人」という設定が出てきて、ビックリした記憶がある。この時代の創作物はまだまだいい加減で、後付けで設定が付け加えられたり、変更されたりということは一杯あった。
(私の記憶では1991年稼働の『スト2』の最初の頃はケンはまだ日本人で、アメリカ人設定は『スト2』シリーズが展開していった最中だったような……これは私の曖昧な記憶)

 設定を振りかえってみても、最初の『ストリートファイター』の頃、ケンは日本人設定だった……というところから見ても、リュウとケンから「日米対立」の暗喩などは想定されていなかったでしょう。

 この話を聞いて、私はまず――笑っちゃった。「あひゃひゃひゃ! 世の中にはヘンなことを言う人がいるなぁ」って。
 どこの芸人かと思ったら、これがアメリカの文化研究家って聞いて「マジか」とはなったけど。
 この話を聞いて、連想していたのは、アメリカのアニメ研究第一人者として知られるスーザン・J・ネイピア。このスーザン・ネイピアの論説がかなり困った内容なのだが、手元に著書があるので引用してみよう。

 映画前半の、鉄雄が金田のオートバイを操縦できなかった場面は、彼の力のなさと依存心を表しているが、やがて状況が変わる。爆走するバイクにまたがる鉄雄を待ち受けているのは、かつて「旧東京」が存在した場所にできた巨大な暗いクレーター近辺での、奇妙な皺だらけの生物との遭遇である。
(中略)
 ここで思い出してほしいのは、鉄雄がはじめて老童のひとりと遭遇した場所が、旧東京のクレーター付近であったことだ。「穴」は、アブジェクシオンの概念と関係が深い。
(中略)
 精神分析学的に見れば、クレーターは女性器(ヴァギナ)とも肛門(アヌス)とも読み換えられるだろう。女性器として記号化された場合、このクレーターは、「退行」と「不在」という温かみのない空虚さをイメージさせ、ここでも映画全般を通して「母性の不在」を浮き彫りにしていることになる。

スーザン・ネイピア『現代日本のアニメ』 P82、90

 名作アニメ『AKIRA』について語られた場面だが……なにを言っているかわからない……でしょ。スーザン・ネイピアの本は最初から最後までこんな感じ。ずっと「この人はなにを言っているんだ?」という感じ。
 しかし困ったことに、これがアメリカにおけるアニメ研究のもっとも知的権威的な本。ある程度の階級エリートや知的エリートが、アニメについて学ぼう……と思ったら、この人の本を読んだり、招待して講演してもらう……という感じになる。ああいったエリート界隈からしてみれば、私みたいにソファにぐでーんと転がって、ポテチ食いながらアニメを見ている(というイメージの)ギーグなんてお呼びではない。欧米人の感覚では、アニメ研究でもこういうふうに語ることのほうが知的でスマートに感じられる。要するに「なんとなく頭が良さそう」という雰囲気のほうに惹かれる。

 最初にスーザン・ネイピアの本をたまたま見つけ、読んだ時は「なんだこりゃ?」という感じだったし、実はこれがアメリカにおけるアニメ研究の知的権威と聞かされた時には「マジか……」という感じだった。
 日本にはアニメ研究にまつわる有用な本って、一杯あるんだよ。氷川竜介とか夏芽房之助とか大塚英志とか斉藤環とか岡田斗司夫とか……。でもこの辺りの人の本って、欧米人から見れば、階層が下。こういう人の本や語っていることは「知的だ」とは見なされない。なぜなら「階層が下の人が書いたものに過ぎない」から。階層が下だから、著作もなんとなく下に見られがち……ということになる。

 なんでそうなるんだろう? エリート階層になると、私たちとはものの考え方も見え方も違っている。私たちから見れば、「宙に浮かんで下りてこれなくなっている」ようにすら見えてしまう。どうして彼らはそういうものの見方をするのだろうか?
 その解釈する方法だが、まだ考えている最中だから手探りに語るが、仮に「思考のフレーム」というものがある……としよう。階層によって「思考のフレーム」に違いがあって、世の中のあらゆる事件、事象、エンタメも、その思考のフレームに当てはめて解釈する。そうしなければ、それがどういうものなのか、どのように感じるべきなのか、いちから考えねばならなくなる。それはあまりにも大変だし、世の変化に対応できなくなるから、人は「思考のフレーム」に当てはめてサクッと解釈できるようにしている。
 今回の件でも、たぶん「思考のフレーム」という考え方で解釈できるかも知れない。
 例えば、私もアニメやゲームについていろいろ語ったりしているわけだが、ある程度の階層を持った人が見ると、「知的ではない」と感じられてしまう。なぜなら、私はキャラクターやそれぞれのシーンのニュアンスについてしか語っていないから。階層エリートから見れば、そういうのは「幼稚だ」という解釈になる。彼らが持っている思考フレームから見れば、そういう解釈になる。
 階層エリートが期待している「解説」はそういうものではなく、もっと「知的と思える文脈」で語って欲しい……ということだ。
 例えばスーザン・ネイピアの著書を見ると、頻繁に精神分析が出てくる。「肛門期」とか「母性の不在」とか……精神分析学の用語がずらーっと並んでいる。そういうのを見ると、階層エリートは「とても知的」「いいね!」となる。どんな「文脈に当てはめて語るか」という言い方もあるかと思うが、階層エリートが期待しているのは、そういう知的“権威”的な文脈に当てはめた上で作品を解説してくれること。レイチェル・ハッチソンだったら、作品よりも時代背景について語り、時代背景からその作品がどういう位置づけにあるか――そういう文脈での意味づけで語られることが「知的な語り」として期待されている。
 要するに「○○学によれば」とか「○○研究の某は…」とか、そういう言い回しのほうが期待されているのであって、実は作品そのものは「どうでもいい」というのがエリート達の本音。

 ではなぜそういう思考のフレームとか文脈にあてはめて、作品のテーマをねじ曲げてでも、「知的エリート風」に作品が語られてしまうのか?
 それは、そういう紹介の仕方をしないと、受け入れてくれない層があるから。すでに書いたように、アニメやゲームって、普通に見ると「幼稚」に見えてしまう。目が大きくて、子供のような声をしたヒーローが、馬鹿げたドタバタをやりながら最終的には事件を解決してしまう……「真面目な人々」から見たら、「知性の低い人の見るもの」としか映らない。階層エリートは、こういう作品や、視聴者を平気で見下す……という差別をやる。そういう「幼稚」に見えるものをいかにして、エリートの世界に引き上げ、エリート様に紹介するのか……。
 するとスーザン・ネイピアやレイチェル・ハッチソンのような語り方になってしまう。すでにそこで語られている作品は、元になっている作品とはまったくの別物……しかしアニメやゲームを「文化」として引き上げ、権威的な人々に了解させるためには、こういう「歪み」を引き受ける必要がある。

 もう一つが、彼ら上流階級の人々の“プライド”問題。階層が上がれば上がるほどに、自身ではコントロールできないプライドを抱えるようになっていく。普段の見た目や身振りを極端に気にするようになるし、まわりにも自分の階層にあった対応をさせる。
 話す内容も、その階層に合ったものにならねばならない。いかにも知的な語り方をして、まわりも「ほぉ……」と感心する……そういう話し方になっていく(感心してくれないと、上流階級の人々は不機嫌になる)。
 同じ階層同士であれば、話し方一つでもマウント合戦になる。どちらが知的であるか、誇示し合うようになっていく。その結果として、本質がどっかにいっていたとしても気にしない。話している内容が知的に聞こえれば、彼らの世界ではOK。「お前、よくやるなぁ」みたいな感じになって仲間意識を持つようになる。

 こういう「思考のフレーム」はあらゆる階層の中にあって、階層によって作品の見方、語り方はぜんぜん変わってくる。
 例えば「情緒でしか語れない・理解できない層」というのもかなり多く、こういう人たちは「かわいそう」「許せない」というごく簡単な倫理観に基づく正義で考え、行動する。テレビメディアはこういう人たちを手玉に乗せる方法を熟知しているので、こういう人々をいかに誘導し、自分たちが求める結論に思考を導かせられるか……ということをいつもやっている。
 アニメやゲームの界隈でも、今はこういう人たちがむしろ主流の視聴者で、こういう人たちはキャラクターや作品を「尊い」という雑な言葉でしか語れない。昔はそうじゃなかったんだけどな……というのはすでに「老害の意見」だから慎もう。

 最近はなにかと「ポリコレ」や「文化共生」といった言葉がテレビの界隈で語られがちだけど、テレビマスコミや御用学者はみーんなこの考えに染まっている(最近は日本の時代劇でも「多様性」を重視して「黒人を出すべきだ」という意見もわりと強くなっている。実際に、江戸時代を舞台にしたドラマ『SHOGUN 将軍』に黒人が出てこないことに批判する人も欧米ではある)。「思考のフレーム」はいつも正しいわけではなく、界隈によって特定の歪み方をしている。その歪んだフレームで見ると、歪んだものでも正義となり、反対する者はみんな「悪」ということになる。ちなみに、階層の上の人ほど、思考フレームにこういう歪みが入って来ちゃうようだ。
 こういうフレームの人がアニメを見ると「フェミニズム」がどうとか、「多様性を重視してない(※)」とか「現代的な倫理観に合わない」とか……作品そのものについて語ったり評価したり、ということがほぼできない。自分が持っているフレームでしか語れなくなる。悲しいことに、このフレームを持っちゃうと、作品そのものを見る能力は永久に失ってしまう。
(※ 例えば外国人キャラにその国籍の声優を使っていないとか。西洋では黒人キャラに白人が声を当てると炎上するまで行っている。日本は少年キャラクターに女性が声を当てることは伝統的にやっているが、西洋視点で見ると「とんでもない!」となる。「子供のキャラは子供が演じるべきだ!」…これが西洋様の言う「正しい」ということ。そこでわーわー騒ぐ人は、作品がどうかとか、どうでもいいのだ)
 ついでにNHKの職員も、階層かなり上。NHK的にいうと、スーザン・ネイピアやレイチェル・ハッチソンのアニメ・ゲーム解説のほうがしっくり来るわけだ。
 人間は権威主義に弱い。私みたいな下層階級の人が語ったアニメ・ゲーム解説よりも、大学を出た先生の珍妙なお話しのほうがありがたいのだ。人は語っている中身に興味があるのではなく、「誰が語っているのか」そしてその人がどんな「どんな肩書きを持っているのか」のほうに興味を持ち、ありがたがる。
(私の書いたものは基本、タダで読めちゃうから、タダで読める程度のもの……という見方をされちゃう。値段を付けると誰も読んでくれなくなるし、困ったものです)

 思考のフレームと所得に基づく階層は紐付いている……という言い方は乱暴かも知れないが、概ね結びついていると考えてもいいだろう。所得階層によって、「ものの考え方」は違っていて、低い層は低い層のような考え方をするし、中流階層は中流階層らしい考え方、上流階層は上流階層らしい考え方をする。下流階層がいきなり上流階層らしい考え方をする……ということはない。
 それぞれで、特有の、歪んだフレームを持っていて、そのフレームに日々起きている事件を当てはめて考えている。
 ここで注意すべきは、下流、中流、上流で思考のフレームは変化するが、上流がその下の層のフレームを内包している……ということはない。中流になると下流と上流の人々の考えはわからないし、上流になると下流、中流の人々がどう考えているかなんて知ったこっちゃない……という意識になる。ただ「変化する」だけで、下流、中流の思考や意識を踏まえた上でのアップデートはしない。思考のフレーム自体が大きくなることは決してない。

 なぜなのか? それが人間の認知能力の限界。人間はそこまで頭がいい生き物ではない。所得が大きくなれば、頭がよくなれば、視野が広くなり、世の中の見え方が変わるのか? そうではない。視野は高くなるかも知れないが、見える範囲は変わらない。それが人類が抱え続けるジレンマ。

 人間はいくら権力を持っても神様にゃなれねぇ……ってね。

「語られた映画とは、実は常に映画の記憶のことでしかない。指し示すことはおろか、引用すらできず、語ろうとする時には提示することも不可能で、しかも他者との共時的体験すらない孤独な経験。それが映画を観るという行為の実相だ」

映画『トーキングヘッド』より

 と、押井守が映画の中で語っているけど、創作を語ろうとする時、すでに別のものになっている。その語りの中で、新たな作品を生み出してしまっている。ある種の二次創作をやってしまっている。
 岡田斗司夫さんのジブリ語りなんかそうだよね。あれは岡田斗司夫という視点で再構築されたジブリ作品であって、実際のジブリ作品そのものとは微妙に異なっている。
 ただ、岡田斗司夫さんはもともとアニメ業界にいて、作品も作っていたから、(作り手としての仁義は持っているし)作品から視点を外さず語っているけれども、スーザン・ネイピアやレイチェル・ハッチソンまでいくと、作品から遠く離れている。彼らは「作り手」ではないし、実は作品について、何も語ってない(エリート様にとって、作品の作り手は階層が下なので、そういうやつの話は聞かない)。「『ストリートファイター』には当時の日米対立が込められています」……うん、『ストリートファイター』という作品について何一つ語ってないよね。自分たちがどんな思考のフレームを持っているか……という話をしているだけ。「知的な雰囲気」であって、中身がない。知的階層同士のなれ合いしか見えてこない。
 しかし、こういう語り方をしないと、階層エリートはその文化を「自分たちと同じレベルの文化」とは認識してくれない。アニメがゲームが、きちんとした「文化」となる過程としては、仕方ないのかな……。

 今回、レイチェル・ハッチソンの珍妙なゲーム解説から、こういう話をしたけれど、私たちの反応としては、「なんだそりゃ」と笑ってりゃいいですよ。
「エリートはんのお考え、うちらにはよぉわかりまへんなぁ」
 って。
 ただ、エリートが語るものが世の中の常識・真実になっていくわけですから、笑って見過ごす……というわけにもいかない。人は権威主義に流されやすい性質を持っているから、エリート層の語る珍説はやがて庶民階級の常識になっていく。気がつけば「そういうもの」としてごく普通の人でも語る時が来てしまう(例えば歴史について、よくよく調べればぜんぜん違うことを、「偉い人がそう言っているから」という理由だけで信じ込まされていた……ということは一杯ある)。なぜそうなのか……という思考経路をすっ飛ばして。それは危ない。本質が違うものになって定着するのだけは避けたい。
 エリート様の語ることは、とても偉そうに聞こえるだけで、中身は空っぽですよ。
 むしろ下層階級の書いたものの中にこそ、「真実」は一杯隠れているかもよ。というか階層は関係ないかもね。
 ……こういう指摘もしておくことも大事でしょう。


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とらつぐみ
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