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サクマ式ドロップスの思い出
毎年、師走になると、実家に荷物が届いたのを思い出す。送り主は祖母。中には達筆すぎて読めないお手紙と、なぜか親に回収されてしまうポチ袋。残りのスペース、つまり荷物の大半は、芋ようかんや板チョコでぎっしりと敷き詰められていた。
端的に言うなら、孫たちに向けたクリスマスプレゼントであり、お年玉。いや、お年「箱」とでも言うべきか。お菓子はどれも高カロリーで、非常食になりそうなものばかり。そんな重量級甘味のなか異彩を放っていたのが、缶入りキャンディ『サクマ式ドロップス』だった。
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開封の儀が始まると、子どもたちがハイエナのように群がる。赤色の缶はここぞとばかりにガラガラと音を立て、存在を主張する。けれど兄も姉も、真っ先に手を伸ばしたのは板チョコの束。
祖母は孫たちがケンカしないように、3人で等しく分けあえる数を送ってくれた。けれども我が家に「法」はなく、あるのは弱肉強食の「掟」のみ。お菓子だって当然のように、早い者勝ちだった。
そうして最後まで残るのは、おなじみのサクマ式ドロップスというわけ。ダンボールの底に、ガランと前のめりで倒れ込む姿は、哀愁に満ちていた。かくして僕の戦果は毎年「ドロップス3人前」が常。半ベソをかきながら、赤い缶を握りしめた。この世のすべてを儚むように。
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それでも僕は嬉しかった。いつでも甘い物が食べられるという、無敵感。いや無敵缶。友達にひと粒あげれば喜ばれるし、遊びにも入りやすくなる。子どもの手には大きな缶。それが3缶あるのだから、十分すぎる量だった。
色とりどりに輝くドロップスは、まるで弾丸のよう。アクションスターがマガジンを交換するように、ドロップスを補充する。これだ、この高揚感。この真っ赤な缶が、僕に勇気をくれた。悲しいことがあったときは、大粒のドロップが、涙を笑みに変えてくれた。
けれども無敵の「相棒」には、ひとつだけ難点が。それは「ハッカ味」。ドロップを取り出すとき、僕は両手を組んで、目をつむり、缶を振るった。ハッカが出ないことを、神に祈るように。
それでもハッカ味が出てしまうのは、避けようのない運命みたいなもの。ハッカが出たときは、いつも母にあげた。母は喜んでくれたけど、本当は、僕の不運を肩代わりしてくれただけ。きっと母だって、他の味も食べたいと思っていたはず。
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そんな僕も今ではハッカが好き。アイスもチョコミント派。食べたくても食べられなかったチョコレートと、食べたくなかったミントの組み合わせ。三つ子の魂百までと言うけれど、変わるものだってある。
そう。ドロップスを送ってくれた祖母には、ずっと前に会えなくなった。ハッカを喜んでくれた母も。それは仕方ないこと。人生とは喪失の連続だ。サクマ式ドロップスだって、もう買えなくなるのだから。
いまさら後悔したって遅い。ずっと忘れていたくせに。
「テメェの命を預ける相棒を、忘れちまうガンマンがいるかよ」
小林清志さんの声で、そんなセリフが再生される。僕はガンマン失格だ。
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いつだって失ってから気づく。年に数回しか会えなかった祖母の優しさ。たくさん甘やかしてくれた母。ハイエナのような兄姉……は、まだいるか。二人とも今では立派な、子を持つ親だ。
――幸せな幼少期ではなかった。ずっとそう思っていたけれど、こうして思い返すと、案外、悪くなかったのかな。誰かと比べる話ではないけれど。僕はただ、ハッカ味のドロップにばかり、目を向けていたのかもしれない。
缶の中には色んな味のドロップがあって、取り出してみるまでは、なにが出るかはわからない。「どうせハッカ味さ」なんて決めつけなくていいし、「ハッカだって結構イケるぜ」と。そう思えたら、上等じゃないか。
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ありがとう、サクマ式ドロップス。
君がくれた勇気を、幸せだった日々を。僕はときどき思い出すよ。
さようなら、サクマ式ドロップス。