湯けむり温泉殺人事件 エピローグ

 あの日より強く、あの日ほど不快ではない日差しが降りそそぐ。確かに地面を踏みながら歩く。手から顔から全身から汗がじんわりと滲み出し、たがいを呑み込んで成長した汗はあごを、手をつたってひとつの水玉となり静かにゆっくりアスファルトに落ちる。蝉も暑さにうんざりしているのか、とても小さな声で鳴くか、あるいは全く鳴かず、あたりは静かだ。
 紙袋には華やかで落ち着いている花束とほんの少しの線香と、ゆっきさんが好きだった和菓子が入っている。
 黒い服の集団とすれ違いながら門をくぐる。彼らは一様に深い底に気分を落としている。彼らは何日で前向きになるだろうか。私は前向きになるのにどのくらいかかっただろうか。ぼんやりと当時を思い出した。霊園にはそれなりの人がいる。家族で来るもの、友人と来るもの、一人で来るもの。深く関わった故人を偲ぶために、現実を強引に受け入れるために、他に管理するものがいないので掃除をするために。ここに来る人は様々だ。ゆっきさんの墓は奥の一角にある。愛、夢、命、ありがとう、やすらかにここに眠る、墓に彫られた文字。それらを眺めながら角についた。
 墓に花束を、大輪菊と小菊、フリージアの花束と和菓子をそっと供える。今日は七回忌。墓に花を供えることも慣れてしまった。桶から泉のように澄んで冷たい水をくみ、ゆっくり何度もかける。太陽をきらきらと反射し、清らかに流れ落ちる。空には雲ひとつなく、遠く離れた山まで見ることができた。紙袋からとりだした線香を右手にもち、左手のライターで火を移す。移すためにつけた火は穏やかだった。線香の煙は緩やかに昇って、薄くなって、見えなくなった。話すべきこと、話したいことを整理し手を合わせる。これももう、慣れた。
「お久しぶりです。今日は七回忌です。もう六年もたつんですね。なんだか、信じられないです。模範囚として出所したふぇんたい君は、親との関係が改善したそうです。ゆっきさんを殺した張本人なのに、それを聞いたときホッとしました。私は彼にどのように接すればいいのでしょうか。殺人犯として憎むべきなのか、更生した模範囚として優しくするべきなのか。答えが出ていないので、彼とはまだ直接は会ってはいません。ただ、いつかは会うつもりです。」
 答えが出ていないことは他にもある。私の行動しだいではゆっきさんが死ぬことはなかったのではないか。もっとはっきりふぇんたい君に向き合い、話すことで何かが変わっていたのではないか。何度も考えた。朝も夜も昼も。ボーっとしているとその考えになるし、何かに集中しているときでも考えてしまうことがある。最初は心配していた人も何も思わなくなるほど日常的に考えている
「前を向きな」
 うしろで誰かを励ます声がする。その言葉は愛に満ちていた。地球を覆う海のような広さと深さをもっていた。心なしか懐かしい響きをそこに感じた。枝先の葉がそよ風にくるくる回る。
「そんなに悩む必要はない」
 より近くで声がする。いたわる声が羨ましくて、思わず後ろを見る。そこには半裸が立っていた。
 風が強く吹く。枝先の葉は何回転もしているはずだが、離れることなく風を受け続ける。いつの間にか人がいなくなっていた。雲が太陽を半分隠す。
「ゆっき……さん」
 あり得ない、彼は死んでいる、ここにいるわけがない。それでも目の前で微笑をたたえて立っている。私の心が、何かを求める心が、動き始めたのが分かった。
「久しぶりだな」
 この墓はゆっきさんの故郷の、特に人気の高い場所にある。周囲の聖堂と礼拝堂、神社と寺をつなぐと十字架の形になり、ちょうど交差するところにあるそうだ。十字架の中心。神の奇跡なのか、ゆっきさんが私の前にいる。生き返ったのか、よく似た誰かが演じているのか、私がおかしくなったのか。ゆっきさんが墓に近づき手をのばし、和菓子を食べた。理由はどれでも構わないと思った。私はゆっきさんを抱き締めた。