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おとうさん

数ヶ月ぶりに父からの電話。「どうしとるかなぁと思って」とかかって来て、ひとしきり喋り、じゃあまたね、と電話を切ったが、翌日また「どうしとるかなぁと思って」とかかって来たときには、ついに父もこの時が?と内心ドキドキした。
が、90才にしては張りのある声で、誰にかけているかも分かっている様子でホッとした。
去年だったかな、父から電話があったあと、夜布団の中でいろいろ思い出していたら、ふと口から「おとうさん」という声と共に涙が文字通りブワッとでてきた。その自分にもう1人の自分がびっくりしていた。笑
結婚して子供もできて、お母さんとしての時間も長くなってきたというのに、まだこんな風に簡単に子供に戻れてしまうのか、と。

自分の家が何か違うというのは物心ついた時から何となく感じていた。
具体的に言うと、みんなが当たり前のように持っている何かを自分は持っていないらしい、という感覚。
父は夕方「家に帰ってきて」一緒に夕飯を食べ、お風呂に入ったり晩酌したりして少しくつろいだらまた「会社へ行ってしまう」という人だった。
父は小さい会社を経営していた。「お父さんは夜会社に泊まって悪い人が来ないか見張らなければならない」という親の話を中学校の半ばくらいまで信じていた。
小学校の頃、担任の先生から廊下に呼び出され、なんでお前の家はお父さんとお母さんの名前が違うだ?と聞かれた。先生の真剣な顔にドギマギしながら「うちではお父さんよりお母さんの方が偉いけんてお母さんが言っとる・・・」と答えた後なぜだか分からないが涙が止まらなくなった記憶がある。

父との楽しい思い出もある。可愛がってくれたと思う。でも、娘へのそれではなかった。例えて言えば親戚の子を可愛がるような感じだ。
結婚して、夫の実家に行った時に、夫を常に気に掛けている義両親(特に義父)、義祖父母をみて、これが家族なんだ!と軽くショックだった。
いい意味で。 

私は、父方の家族は一切知らない。
母方の祖父は私が生まれる前に亡くなった。母方の祖母が唯一接する時間があった人だが、祖母の様子からは私に対して何かしらの好意的な感情は感じ取れなかった。
覚えているのは、遊びに行くと、祖母がお茶を立ててくれて、それを正座でいただいたこと。 
というと古めかしい家のようだが、母の地元はお茶をたてるというのが大変身近な地域で、珍しいことではなかった。使い込まれた縦長の木のお茶箱の中にあった、抹茶をすくう匙が、大きい耳かきみたいで好きだった。

祖母とは一度も打ち解けた気持ちになったことがない。祖母には子供が9人いたから、孫の数も多い。珍しくなかったのだろう。それに私は人見知りで、懐に入るのも上手くなかった。
遊びに行っても、後日、トラコの左利きは不器用に見える、などのお小言を母を通していただいた。
可愛く思えるのは同居している内孫、と話している祖母の声をどこかで耳にした気もする。
おばあちゃーん♡と抱きつくなんて一回もなかった。それが当たり前だと思っていたが、自分が大きくなってから、「おばあちゃんと一緒に買い物に行って好きなものを買ってもらった」とか、「おばあちゃんの面白発言に突っ込んだ」など周りの話を聞き、よその家のおばあちゃん事情に驚いたものだ。 

話が少し逸れてしまった。

母からも、かわいいね、とか、大好きだよ、とか、愛してるよ、なんて一言も言われたことはない。ベタベタしないのが当たり前だったから、ハグされた記憶もない。
でも、母が必死で育ててくれたこと、おそらく一度も「あんたたちなんて産まなきゃよかった」と思っていないだろうということ。
言葉や態度にはでなくても、私はよく分かっていた。おそらく兄も同じ。
愛とは不思議なものだと思う。

私にとって父といったら、夜2時間ほど一緒に過ごす人。
時々、本を買ってやると車で書店に連れて行ってくれたりしたが、父は決して車から降りてこない。
残念ながら、この人にとって私は誇れる存在ではない、この人にとって私は一番じゃない、ということは子供心に感じていた。
私の心の中のバケツに、母が父の分も埋めようと一生懸命愛情を注いでくれてきた。でもバケツがいっぱいになったことはない。そんな気持ち。

そしてそういう生育環境は私の人格に良い影響は与えなかったと断言できる。
それについてはまた後日振り返ろう。

子供が生まれて、夫が子供たちに接する姿、義父が夫に接する姿、それらを目の当たりにすることで、知らず知らずのうちに私自身をも、もう一度育て直していた気がしている。

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