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農業者としての宮沢賢治

昨日、Amazonプライムビデオで宮沢賢治の食卓という連続テレビドラマを視聴しました。もとはWOWOWの作品です。

宮沢賢治というと「雨ニモマケズ」や「銀河鉄道の夜」という作品が有名なことから、童話作家や詩人という印象が強い人物です。

しかし、彼の作品は生前は殆ど評価されず、原稿料をもらえたのは一作品のわずかな額だけだったそうです。そのため、収入は農学校の教員や農業関係の仕事を通して得ていました。

宮澤賢治は、若年期から農学や農の道を自ら志していた人物ではなく、農学校の教員になったことから、農の道を志した人物です。それでも農学校の教員となれるほどの知識と経験を積んでいたのは、農業が日本という国家の主要産業であった時代背景や彼の故郷が農業を生業とする人々が多い岩手県の花巻だったからだと思います。

宮澤賢治は、19歳で盛岡高等農林高等学校(現岩手大学)農学科第2部に主席入学します。ここで、土壌学を学んだことが後に農民の肥料相談の仕事につながったのだと思います。

卒業後は、文学を志して東京に行っていますが、中々うまくいかず花巻に戻ってきます。帰郷後、実家の質屋を継ぐことを期待されていたという話もあったそうですが、妹の計らいもあり、農学校の教員となりました。

25歳で農学校の教員となり、学生たちに農業を中心とした講義をしていく内に自分自身が農業者としての経験がないにもかかわらず学生に農の道をすすめることへの矛盾を強く抱いたそうです。そのため、30歳で教員の職を辞し、農業者として営農をしようと決意しました。

宮澤賢治は、農学や農業の知識はあったものの農業者として必要な経験がなかったため、彼の農業者としての生活は辛いものでした。

結局、1年程度で農業者としての生活をあきらめて、肥料相談や石炭販売の仕事をしています。彼の農業者としての生活はうまくいきませんでしたが、病に侵されても農民のために肥料相談をしていたことから、農の道は貫いていたことがわかります。

宮澤賢治と農業の関係で注目すべきことは、農学校の教員としての職を辞して体を酷使してまで農の道に進み、農民生活の向上をめざしたことだと思います。宮澤賢治が農業について残している著作は少ないですが、彼の人生には農業が大きな存在、中心としてあったのだという事実に注目して作品を読んでみると面白いと思います。

参考文献

①宮沢賢治と農業http://agrik-naka.sakura.ne.jp/wp-content/uploads/2016/09/%E5%AE%AE%E6%B2%A2%E8%B3%A2%E6%B2%BB%E3%81%A8%E8%BE%B2%E6%A5%AD.pdf

岩 手 の有 機 農 業 100 号 2016.6.21. 岩 手 県 有機農業 研究会
中島紀一先生講演概要「 岩手の有機農業の世界と今後の展望 」

②http://abe.ihatov.jp/kenji/life.html賢治の略歴

③https://www.shinchosha.co.jp/writer/2936/著者プロフィール 新潮社

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