かたすみの女性史【第2話】壺井栄をナメるなよ !(その1)
壺井栄をナメるなよ!(その1) 栗林佐知
■ニコニコ顔のおばさん作家
壺井栄の名を知らない人は、あまりいないだろう。
国語の教科書でその作品を読んだことのない若い人でも、映画「二十四の瞳」の原作者、といわれれば、そのイメージを呼び起こすことができると思う。
「台所からエプロン姿で手を拭き拭き現れたニコニコ顔の善良なおばさん」(鷺只雄『評伝 壺井栄』翰林書房、p7)といわれる、えくぼがきゅっとへこんだふくよかな風貌。
貧しい人々の暮らしを描く、人間愛に貫かれた物語。
リズムの良い、みじんも気取りのない文体。
そして豊かにつづられる故郷、小豆島の自然と風物。
けれど、「好きな作家は?」と聞かれて、「壺井栄」と答える読書家は少ないと思う。もちろん、好かれていないからではない。
読書家なら、難解な海外の前衛作家なんかを挙げる方がかっこいいし、「壺井栄が好き」といったら、「単純なひゅーまにずむ」を信じる「ナイーブな」人だね、とバカにされるかもしれないから。
そうなのだ。
壺井栄はナメられているのである。
もちろん、ナメられる筋あいはない。
女でおばさんで母性的なものを甘く見ることも、
前衛でない表現や平易な文章を軽く見ることも、
ぜんぜんっすぐれた価値観じゃないと思う。
それにも増して、私が「壺井栄をナメるな!」と思うのは、
実に、栄の作品をつらぬく、“立場の弱い者が一生懸命生きることへの力強い肯定” ゆえにだ。
こうした、健康で素朴な善意への冷笑が充満してる世の中は、すごく息苦しい。冷笑しないと「かっこわるい」といわれそうで、空気を読んでみんな冷笑するようになって、そして今、こんな、勝ち組バンザイ、かっこいい方バンザイの世の中ができてしまったんじゃないかと思うのだ。
壺井栄の「ナイーブなひゅーまにずむ」は、人や社会がもつ悪辣さを、胸が潰れる思いで見つめ、描く。大きな悪意をぶつけられるこちら側から。しかも、からっと明るくたくましく。そんなものにつぶされてなるものか!と。
■「妻の座」を知っていますか
この文「壺井栄をなめるなよ!」では、そんな栄の一作品について語りたい。
そう、その「ナイーブな善意」ゆえに、壺井栄は、おそらく日本文学に後にも先にもない、体当たりのスゴイ文学を世に送り出しているのだ。
しかも、遠い国の絵空事ではなく、身近な仲間内で起きた女性蔑視の問題を、自らへも疑問を突きつけながら描き切っている。
バリバリの「フェミニズム文学」ということになるのだが、この点でも壺井栄は特別だと思う。同じ考えの女性たちだけが読む雑誌ではなく、そのできごとの当事者たちがつくり、読んでいる雑誌に発表したのだ。
そして、その内容も問題意識も「フェミニズム文学」としては特別だ。この特別さもまた、壺井栄の素朴な善意ゆえ。
栄のこの作品に光をあてることは、いま、商業的な勝利を経験して、少し危うさをはらんでいるように感じられるフェミニズム文学を、もっと幅広く、明るい、弾力に富んだものにしてくれるように思う。
その作品の名は、「妻の座」。
戦後まもなく(1947~49年)発表された。
栄の妹が、プロレタリア文学者、徳永直(とくながすなお)の後妻となり、どんなにひどい目にあったかを描いた中篇小説だ。
徳永と壺井栄・繁治(しげじ)夫妻は、ともに新時代の文学を担おうと「新日本文学会」に拠った同志である。
そして栄は、この作品を、仲間うちの雑誌『新日本文学』に発表して問いかけた。おりしも『新日本文学』には、徳永直が、亡き妻の思い出「妻よねむれ」を連載中だった*1)。
作中には、仲間である佐多稲子や中野重治、宮本百合子も仮名で登場する。
ここらへんの、“仲間の顔色を読まない”気風は、栄のみでなく、当時のこの「新しい文学」の担い手たちに共通のものだったのかもしれない。
(その2)へつづく
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?