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野口良平「幕末人物列伝 攘夷と開国」 第一話 大黒屋光太夫(その5)

*ヘッダー画像:「魯西亜国漂舶聞書 巻之七」、山下恒夫編纂『大黒屋光太夫史料集 第二巻』日本評論社、p552-553より。
〔走るキビツカの図〕=同書キャプション  →*の画像について

(その4)からのつづき

第一話 大黒屋光太夫(その5)

【3】


 光太夫たちの到着先はカムチャツカだった。
ニジネカムチャーツクの町で一行は、警備官オルレアンコフ少佐の出迎えをうける。
帝政ロシアは、カムチャツカを拠点に千島列島からウルップ島、あるいはアラスカへと植民地を拡大していたが、広大な植民地を維持するための本国からの補給路は、じつに脆弱だった。
現地での食料や衣類の不足をどう補うか。
突破口は、国をほぼ閉ざした日本との通商の開拓だった。そのためには、日本からの漂流者の扱いが大きな鍵となる。オルレアンコフの場合は、女帝エカテリーナ二世への嘆願書をイルクーツク総督府に提出して帰国への道をひらく方法を、光太夫に示唆した。

 オルレアンコフ邸で光太夫は、フランスの若き探検家ジャン・レセップスと話をする機会をもった。レセップスは光太夫の印象を、著書『旅行日録』に書きとめている。

 ――彼は鋭い洞察力を持ち、相手が彼に語ろうとしたことを驚くほどすばやく理解した。彼は好奇心に富み、優れた観察力を持っていた。ある人は、彼は自分の見たこと、自分の身辺で起ったすべてについて正確に日記をつけているのだと私に断言した。

 ――彼は相手が十分理解できるロシア語を話す。だが彼と話を交わすには、その発音に慣れる必要がある。驚くべき早口で述べたてるので、話がわからず意味を取り違えることが少なくない。彼の応答は生き生きとし、しかも自然だった。彼は自分の考え方を隠そうとせず、誰もがそれ以上できないほど率直に説明した。

 ――私は、彼の節制ぶりに驚嘆する。この国の人とは全く対照的だ。彼が強いリキュールを飲まぬと決めたら、もう他人がどんなにすすめても無駄なのだ。

レセップスの旅行日録
Voyage de M. de Lesseps du Kamtchatka en France (CLAAE) [電子書籍版]
Jean-Baptiste Barthélemy de Lesseps フランス語、2018年7月発行


 その冬はひどい飢饉で、光太夫らは拒みつづけてきた牛肉までついに口にしたが、与惣松、勘太郎、藤蔵の三人が壊血病で落命した。翌春、残された六人(光太夫、庄蔵、新蔵、九右衛門、小市、磯吉)は、オルレアンコフの副官ホトケーヴィチの導きでイルクーツクをめざす。これが帰国への遠回りなのか近道なのか、誰にもわからない。海路オホーツクに渡り、さらに野宿を重ねてヤクーツクへ。馬上で手足が凍ると馬をおりて歩き、あたたまれば馬に乗るという旅程だ。

ヤクーツクは零下40度超、全身のすみずみまで皮で重装備しなければ、血脈が凍死して耳鼻が脱落し、頬がただれおちてしまう厳寒の地。
そこから馬橇に乗り換えての2500キロのシベリア雪原行のなかで、すでに凍傷におかされていた庄蔵の脚の病気が悪化し、腐りはじめた。


大黒屋光太夫(その6)へつづく

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