野口良平「幕末人物列伝 攘夷と開国」 第二話 高山彦九郎(6)
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天明3年(1783)7月、彦九郎の故郷上州と信濃にまたがる浅間山が大噴火した。火砕流が直撃した北麓の鎌原村は壊滅的な打撃を受け、関東全円にも大量の火山灰を降らせた。
さらに、吹き上げられた火山灰が成層圏に達して気温の低下をまねき、すでに悪天候や冷害に襲われていた奥羽一帯を中心に未曽有の惨事(天明の大飢饉)をひきおこした。
死者は推計100万人以上。その影響は、凶作にあえぐ農村部のみならず、米価高騰の形で都市にもおよび、大規模な一揆や打ちこわしが各地で勃発した。
それは支配層にとっても、自己の存立基盤と存在理由を問われる甚大な危機を意味していた。
郷里の近くで大一揆が起きたことを江戸で知った彦九郎は、現場に直行した。一揆のなかに入りこみ事情を知ろうとしたのだと、あとで知人に語っている。
その後京都で災害救援金の拠出に奔走。同じ崎門学徒の公卿伏原宣條(1720-91)に、天皇の仁心に救民を訴えるべく具申したと、11月の『再京日記』には記されている。
その後も彦九郎は自分なりの救民活動をつづけていたが、天明6年(1786)8月、彼の最大の理解者だった祖母りんが88歳で他界した。
彦九郎は、叔父剣持長蔵とともに、祖母の墓の傍らに建てた茅葺の喪屋に籠り、古式に基づき、3年ものあいだ雨の日も風の日も喪に服した。とくに最初の6か月は、戸を閉ざし、誰とも口をきかない無言の行まで実践した。このようすが各地で評判をよび、やがて続々と弔問客が訪れた。
彦九郎の妻子(前妻しも、しもとの娘せい、今の妻さき、さきとの子さと、義介、りよ)も作法に従った(『墓前日記』)。
→(番外)しも&さき
この間彦九郎は喪中歌多数をつくったが、さきの詠んだ歌も残っている。
ある時、虹が出た。そういえば生前のりんは、虹をみると喜びを隠さなかった。
「にじ(虹)みへてあはれもよをす君か世にありしむかしを思ひ出されて」。
彦九郎は、さきの名を宗門人別帳には記さなかったが、大義のために罪を得た場合の連座を防ごうとしたのかもしれず、さきもまた、そのことを心得ながら気丈に家族を支えていたのかもしれない。
服喪をおえた彦九郎は、幕府の呼び出しをうけた。
孝行の表彰かと思い江戸に着いた彦九郎を待っていたのは、逮捕投獄だった。
彦九郎の存在を危険視する筒井家の意向を汲みつつ専蔵が、御法度の禁法を行っているとして弟を告発したのだ。
恐れを知らないその言動で家を危うくする彦九郎への専蔵の憎悪は、否応なしに高まっていた。
疑いが晴れて出獄はしたものの、兄との確執が決定的になった彦九郎は、帰るべき故郷と切り離された。
※ヘッダー:鴨川にかかる虹*
→ 高山彦九郎(7)へつづく
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