寺田和代「本と歩く アラ還ヨーロッパひとり旅」 第4回 イタリア・プーリア州篇(7)
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(7)伝統パスタの街角に別れを告げ、マテーラに向かう
次の訪問地マテーラ行き電車が私鉄アップロ・ルカーネ線のバーリ駅を出るのは朝11時。
10時にアレッサンドロに別れを告げ、旧市街地のまだ歩いてない細道をたどりつつ駅に向かう路上で、美食の街バーリを代表する伝統食材オレキエッテを手作りする女性2人を見かけた。
オレキエッテは地元産小麦粉を使って手作りされる耳の形のパスタ。南イタリアが貧しかった時代、卵を使わず安価な地元食材で作る経済的必要から生まれたもので “クチーナ・ポーヴェラ(貧しい人々の食べ物)” と呼ばれ、現在ではそれが名物としての付加価値に。ナス、トマト、マシュルームなどの野菜やプーリア産オリーブを使ったさまざまなソースとともに食べるのだそう。
2人の真剣さに見入りながら挨拶を交わし、年配の人に「師匠ですか」と訊くと、おばと姪だという。母直伝のレシピでパスタを打ち、通りで売るおばの元で20代の姪が修行する。この街では伝統の味も通りの景色もこんなふうに継がれていくんだね。なんだかうらやましいな。
ほんの2泊だったにもかかわらず、最後までこんな出会いをもたらしてくれたバーリへの愛着と去り難さで胸がいっぱいになりながら、マテーラ行きの電車に乗り込んだ。
終点の小さな駅マテーラ・スドで降りた乗客は私を含めて10人足らず。
大半の客はひとつ前のマテーラ中央駅で降りてしまっていた。1つ先までと欲張って失敗した昨日のロコロトンド “事件” を思い出し、一瞬ヒヤッとしたけれど構内の地図を見ると予約の宿に行くにはやはりこちらで正しいらしい。
宿方面に向かって静かな住宅地をどんどん歩いていると建物と建物の間から白灰色の山塊が見え始めた。きっとあのあたりだ。
バジリカータ州マテーラは、南イタリアで最も小さな同州とプーリア州との州境にある。昔から農業を主要産業としつつ平地面積は全体の約1割で、農民は石灰岩の地質と降水量の少なさに苦しんできた。
彼らの生活の場だったのが道すがら見えてきた、そもそもこの旅へ誘ってくれた洞窟住宅=サッシ(岩を意味するイタリア語サッソの複数形)だ。
サッシの歴史は古く、石灰岩の洞窟に人が住み始めたのは7000年前だそう。
15世紀には地中海貿易によって繁栄し、1663年に州都になって最盛期を迎えたものの、1806年に州都が他に移り、行政機能が失われると徐々に衰退。わずか100年ほど前までは政治犯の流刑地にもなった。
自らの流刑体験を綴ったカルロ・レーヴィ『キリストはエボリで止まった』とは、キリスト教も、キリスト教とともにあった現代文明のすべてがマテーラの北にあるエボリ(街の名)までしか届かない、という意味。南イタリアの辺境ぶりを表している。
その約半世紀前にほぼ同じ地域をイギリス人小説家ギッシングが旅して書いた『南イタリア周遊記』は、病弱な体と貧しさに苦しみながらも生涯、旅をすみかとした彼の唯一の紀行文。
どちらの作品にも、野蛮の象徴とされた南イタリアのよくも悪くも苛烈な実態が格調高く濃密な文体でいきいきと描かれ、いま目の前の景色の味わいをいっそう深めてくれる。
→イタリア・プーリア州篇(8)へつづく
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