林浩治「在日朝鮮人作家列伝」05 呉林俊(オ・イムジュン)(その7)
呉林俊──激情の詩人の生涯(その7)
林浩治
6)戦後
朝鮮人を解放された民族として規定しなかった日本統治の〈伝統〉は、その外皮すら傷つけることなく体内に朝鮮人を、いつまでたっても真に自立した、対等の朝鮮人にはしない強固な抑圧を保持したことを否定することはできないであろう。
『絶えざる架橋』(1973年3月 風媒社)
1945年10月、在日朝鮮人連盟が結成され帰国者支援のほか闇市での朝鮮人のバックアップ、教育文化事業にも力を注いだ。
日本に「帰国」した呉林俊は横浜に住んだ。戦争直後の経緯は分からないが、在日朝鮮人運動に加わった。横浜朝鮮人学校の教師|鄭鉉奎《チョンヒョンギュ》と気が合い、宿直室に泊まることもあった。
この頃、全日本自由労働者労働組合に所属し、日雇い労働で日当240円を稼いでいた。
そうしながら呉林俊は、金達寿らの『民主朝鮮』や『新日本文学』などの文学運動とも接近し小林勝や村松武司とも知り合った。
1947年5月、外国人登録令が新憲法施行の直前に最後の勅令として制定された。この外登令によって「日本国民」だった在日朝鮮人は政府の意志によって退去強制可能な外国人として管理されることになった。
このとき交付された「外国人登録証」の国籍欄に、朝鮮半島出身者とその子孫は「朝鮮」と記入された。便宜上の記号だった。
「外登令」は治安維持法に代わって在日外国人を取り締まる手立てとして機能している。
1948年1月19日、前年10月に出された占領軍民間情報局の日本政府に対する指令に基づき、文部省は民族教育を志向する朝鮮人学校の閉鎖令を通達した。
閉鎖命令が出されると、強制執行におもむいた群がる警官隊に向かって、強烈なアジテーションを投げかけた。朝鮮学校の教師として呉林俊とともに反対運動の現場に立った鄭鉉奎は「肺腑をえぐるような弁舌」と書いている(『呉林俊 33周忌記念誌』)。
1955年、在日朝鮮人の新たな組織「在日本朝鮮人総聯合会」(朝鮮総連)が結成されると、呉林俊は北朝鮮の社会主義建設に夢を託し、総連神奈川県本部の文総常任書記等数役に就いた。
北朝鮮への帰国も考え、周囲の奨めで朝鮮人学校に勤務する女性と結婚したが1年も保たなかった。
呉林俊は北朝鮮への帰国を断念した。当時、日本共産党の幹部であった金天海をはじめ、帰国した革命家、文化人の多くが消息を絶っていた。
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◆参考文献
◆写真について
*ヘッダー写真:
(wikipedia阪神教育事件より。パブリック・ドメイン
キャプション:デモ隊を鎮圧する大阪市警
撮影者不明 - 国際文化情報社「画報現代史 第5集」より。
File:Hanshin Educational Incident.JPG
作成: 撮影日時は1948年4月26日、本の発行年は1954年)
**非常事態宣言布告を報じた朝日新聞号外(1948年4月25日付)
1948年4月25日の朝日新聞(大阪版)号外の記事
(wikipedia阪神教育事件より。パブリック・ドメイン
File:Asahi Shimbun (Osaka) Extra Edition newspaper clipping (25 April 1948 issue).jpg
【阪神教育事件】
GHQと文部省からの「朝鮮人学校閉鎖令」とその強制執行に、在日朝鮮人連盟、各地の教師・生徒側が反発。デモや集会を警察隊が鎮圧。
関西では警官の発砲で16才の少年が亡くなるなど混乱を極め、非常事態宣言が出された。〔編〕