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野口良平「幕末人物列伝 攘夷と開国」 第一話 大黒屋光太夫(その9)

★ヘッダー画像「北槎聞略/欧羅巴全図」国立公文書館デジタルアーカイブ著作者:桂川甫周 CC-BY4.0 パブリック・ドメイン (詳細はページ末に)


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第一話 大黒屋光太夫(その9)


【4】(のつづき)

 江戸に護送された2人の漂民は、キリシタン嫌疑がはれると、寛政5年(1793)9月18日、江戸城吹上御殿で将軍家斉に異例の拝謁の運びとなった。
42歳の光太夫と29歳の磯吉は、正装のロシア服姿で床几に着座。

列座した吟味役(そこには失脚したばかりの松平定信もいた)と質疑応答をかわしたが、底意地の悪い誘導尋問にも動ぜず、堂々と巧みに相対した。

大黒屋光太夫と磯吉 (画:吹上秘書漂民御覧之記より)
『吹上秘書漂民御覧之記』は〔大黒屋光太夫と、生還した同行者である磯吉の2人が将軍家斉の面前で幕府の重臣たちからロシアについて質問を受けた際の一問一答を記録したもの。〕=同ページ
Hokkaido University - https://www.hokudai.ac.jp/events/20140715195246.pdf

著作者:不詳(1792年) パブリック・ドメイン


その場にいた蘭学者桂川甫周は、
「かの二人に問いを下すに、答うる所的実にして、いささかも虚誕なし。誠に千古の一大奇事なり」と『漂民御覧記』に記している。

 その甫周が幕府の内命を受け2漂民に聞き取りを重ね、弟の蘭学者森島中良(なから)の協力を得て作成した報告書が『北槎聞略』だった。

謁見の場で光太夫が、ロシアに知られた日本人として偶然自分の名をあげ、面目をほどこしていた甫周は、洋学発展の好機とすべく、この書の編纂に情熱をこめていた。前半は漂流譚、後半はロシア百科事典(対訳語彙集と挿画を含む)という構成にくわえ、文体にも実験的な工夫が凝らされていた。

『北槎聞略 大黒屋光太夫ロシア漂流記』
桂川甫周著/亀井高孝(校訂)、岩波文庫、1990年

先に引いた庄蔵との別離の叙述は、自らの意志で遠島先に残りつつ未練で泣き叫ぶ僧俊寛を描く、近松門左衛門作の浄瑠璃「平家女護島へいけにょごのしま」を思わせるが、演劇通の甫周と浄瑠璃作者でもあった中良が、光太夫に息を合わせたのだろう。

この書物は、甫周兄弟と2漂民の共著だった。幕府はこれを禁書にしたが、それがかえって人びとの想像力を刺激し、類書や写本、うわさの伝播をうながした。
そのことはやがて、現存の社会秩序の枠組みを相対化するユートピア的な構想力を人びとに育ませる条件にもなるだろう。

(その10)へつづく

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ヘッダー画像「北槎聞略/欧羅巴全図」国立公文書館デジタルアーカイブ著作者:桂川甫周 CC-BY4.0 パブリック・ドメイン
目録情報:https://www.digital.archives.go.jp/item/3690568.html 
https://www.digital.archives.go.jp/gallery/0000000530
《天明2年(1782)、江戸への航海中に遭難、漂流の後ロシアに渡り、寛政4年(1792)に帰国した伊勢国の船頭大黒屋光大夫等の体験を、蘭学者桂川甫周が幕府の命を受けて聴取したロシア・シベリアの地誌・見聞録です。持ち帰った衣服・器物の写生図、地図の模写も含まれています。
原図サイズ:52cm x 72cm。》=同ページより

参考文献

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〔編集人〕


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