かたすみの女性史【第2話】壺井栄をナメるなよ !(その4)
壺井栄をナメるなよ !(その4) 栗林佐知
←(その3)からつづき
■「妻の座」のあらすじ
「妻の座」は、そんな栄の戦後の停滞期の中で書かれた、特別な作品だ。
まず、内容、あらすじを追ってみよう。
……4人の子どもをかかえ、愛妻を亡くして困っていた「野村」(モデル:徳永直)は、「裁縫ができて優しい人」を紹介してほしいと、同じく進歩的な作家仲間である「ミネ」(モデル:壺井栄)に頼む。
主婦を亡くした家庭がどんなに混乱しているか、野村の痛切な手紙に同情し、頼られたことに心を打たれたミネは、故郷でひとり暮らしている妹の「閑子」(この人は作中名でのみ呼ぶ)こそ、ぴったりではないかと思いつく。
裁縫の教師をやめていた「閑子」を、ミネはちょうど、東京へ呼ぶところだったのだ。
ミネはさっそく共通の友人、貞子(モデル:佐多稲子)を通して野村に紹介する。
「閑子」の写真を見て、野村は、思っていたのと違うと感じたらしいのだが、それを貞子から伝えられる前に、ミネと野村は会う機会があり、話はすぐに決まる。
「閑子」は秋まで待ってほしいというのだが、野村は一刻も早く来てほしいという。
子供たちに手製の服を送り、テキパキと家事を片づけ、子らにも親しまれる閑子だったが、数日すると、家政婦のように働きづめでくたくたになってミネのもとへ眠りにやってくる。
話を聞くと、まるで家政婦扱いで、「閑子」が夜も子供たちと一緒に寝ていると聞いて、ミネは野村に「閑子を妻として扱ってください」と苦言を申し入れる。
(c)松竹 久松静児監督「女の暦」(原作:壺井栄「暦」)
栄(作中名:高子)と二人の妹(同:クニ子と実枝)は、
轟夕起子と杉葉子・香川京子が演じた。1954年
だが、美人だった妻が忘れられない野村はどうしてもその気になれず、次第に「閑子」を疎むようになる。日記に「『閑子』が自分から気付いて出て行ってくれればいいのに」などと書いて、目につくところにおいたり。
何度か出たり戻ったりがくり返されるが、ミネの奔走や、貞子(佐多稲子)、川原(中野重治:しかつめらしく「鴎外」を引用するばかりで、この人まるで役に立たないのが面白い)の仲裁もむなしく、2カ月で離婚に追い込まれてしまう。
生来お人好しで愚直な閑子は、ひたむきに相手に向かうことしかできず、さらに深く傷つき、容姿のことを取り沙汰されたあげくに居場所も失ってしまう。
当然ながら怒りを募らせる妹を、ミネはもてあまし、あげく閑子の融通のきかなさにいらだち、まさか自殺するのではと心配し、自分の善意が妹をどん底においやってしまったことに身をもんで悔やみ、どんなに有能で心が良くても、女性を容姿で判断し侮辱する世間に衝撃を受ける。
言い尽くせぬ傷を抱えて故郷へ帰ってゆく閑子。ほどなく「野村」が再々婚したのを知って、ミネは女の立場の理不尽な弱さをつくづく思う。
メーデーの日、歌声を響かせる人びとの群の中に、新妻を仲間として伴った「野村」がいた。
新しい時代への希望の歌に包まれながら、「ミネ」は、故郷でまたひとりになった妹を思わずにはいられない。
■「妻の座」の純度
読み終わるなり、長嘆息した。
息もつけぬほど巻きこまれていた。
素朴な自分の善意が、嫌悪とともに地にたたきつけられた衝撃。
屈辱、憤激、失望、悔恨、わいてやまぬ疑問……。なぜこんなことになったのか、何が悪かったのか。栄は懸命に考えている。
ミネの目にした情景、人の相貌、心の動き方が丹念に拾われ、ミネの苦しみを立体的に起ち上がらせている。
多くの実在の人たちを巻きこみながら、巻き込まれた者は、「迷惑だな」と切り捨てられはしない。そのまなざしはひたむきで、作者は全身をさらして問いかけてくるから。
「無償の家政婦はほしいが、愛したくない」
そんな心づもりで結婚することが、なぜ男には許されるのか。
だが自分は「妻であること」に執着しすぎるのだろうか。夫の裏切りにあっても、同じ体験をした貞子のように、自分が離婚をえらばなかったのはなぜなのだろうと、栄は世の中に、自分に問いかける。
それにしても、身のまわりをみまわせば、これもそれも、なんと女性は不利な立場に追いやられていることか、と。
誰かを告発しよう、悪をバクロしよう、自分のミカタについてほしい、などというのではない。どうしてもこの衝撃を作品に書きとどめねばならなかった。その気持ちの純度と、感情の渦の遠心力が、作品を力強く引き締めている。
ふつう、感情の先走る作品は成功しないといわれる。その意味でも、「妻の座」は、に希有な作品だと思った。
(その5)へつづく(また来週~)
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