野口良平「幕末人物列伝 攘夷と開国」 第4話 真葛の文体を培ったもの――真葛落穂拾い(5)
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5 『古今集』仮名序から社会批判への道を探った女性たち
真葛は書いている。
およそ天地の間に生まるる物の心のゆくかたちは、勝劣を争うなりとぞ思はるる。獣鳥虫にいたるまでかちまけをあらそわぬものなし。
勝劣を争うことにおいて人に貴賤の別はない。だからこそ、何が人びとの共通利益(「国益」)なのかを考え合う場所(「御堂」)が必要で、政治参加の権利に貴賤の別をもうけるべきではない。
そのように真葛の理路は導かれていくのだが、『古今集』仮名序の趣意と語り口が、江戸後期の文脈に照らして編み直されているのがわかる。
江戸後期の列島で、『古今集』仮名序に示唆をうけ、自らの主張を言葉にしたのが真葛だけではなかったことを、歴史学者の関民子は明らかにしている(「近世の女性の自己主張と古典」)。関があげる二人は、いずれも女性である。
井関隆子(1785-1844)は、幕臣の四女として江戸に生まれた歌人・物語作者である。一度目の結婚では夫と離別、二度目は42歳で死別した(子どもはいなかった)。天保11年(1840)に日記を書きはじめ、日常生活や風俗、社会の事件、天保の改革の動きなどについて、意見や感想をまじえて記録した。
隆子の場合、くりかえし批判の対象としたのは、女性を罪深く穢れた存在とみなす当時の仏教である。
男女の道は、世のはじめ人のはじめにて、いきとしいけるものはさら也。木草すら女男あらざるなんなき。
日記のこの一節は、『古今集』仮名序を、『古事記』の国生み神話と結びつけることで、仏教批判の根拠に筋道を与える努力だった。
筑前藩士の三女に生れた歌人野村望東尼(1806-67)の場合は、主体性の発揮できない長い結婚生活のすえ、54歳で夫と死別した後の虚無感から立ち直り、自身の歩むべき道を女性の政治参加=勤王運動に見いだした経験が、社会批判の視野を育てた。
日記『夢かぞへ』を書いたのは慶応元年(1865)。
この年望東尼は、藩権力をにぎった佐幕派の弾圧(己丑の獄)により投獄され、姫島に流刑されていた。罪状にいう「女の上かつてこれ有るまじき所行」とは、女性の政治参加そのものを指していた。日記の一節、
すべらぎ〔天皇〕の大御国に生きとし生ける者、何かは勤王ならざらむ。
は、そのことへの抗議であるとともに、その抗議を支える確信の成り立ちを、自分の内部で確かめる努力でもあった。
もし人が自分のような場所に置かれたら、性をこえ、時と所をこえ、誰だって自分と同じように行動し、また抗議するだろう。望東尼は、自らの行為のもつ普遍的な広がりへの確信を、そうした形で表明していたのである。
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※ヘッダー図:『教導立志基』「高杉晋作」(水野年方筆)明治23年より。
禁門の変後に窮地に立った高杉晋作が、野村望東尼の平尾山荘に匿われる場面(水野年方 - https://ukiyoe.yamabosi.jp/?cat=7&paged=6)
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◆参考文献
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