野口良平「幕末人物列伝 攘夷と開国」 第三話 只野真葛(ただの まくず)(8)
(↑ ヲ茶水屋根舟ト蛍ノ図 小林清親 ・画(東京都立図書館蔵、パブリックドメイン))
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8
極度の緊張と焦燥にさいなまれ、夜も眠れずに自分の心を責めつづける孤独な日々のなか、真葛はふいに、心が抜けあがって地を離れ、物事の総体を一挙に把握するような境地を経験した。
自分の身体は確かに世界という籠につながれているかもしれない。だがわが心は、あの妖怪「ろくろ首」のように自在に伸び縮みし、この世の常識を疑いつつ、天地の間を行き来することができる。
この経験を元輔に書き送ると、それは仏法にいう「悟り」のことではないのかな、と返事がくる。真葛ははっとし、「悟りを得る」という少女時代の志の一つを今、果たすことができたのだと納得した。デカルトの「われ思うわれ」の発見にも似た、思考の根拠としての個の自覚である。
だが文化2年(1805)12月、その聡明な弟元輔が34歳で世を去った。子もいなかった。医師元輔は、書物で知った唐の聖にならい、寝食を忘れて患者の治療に没頭していたが、それは父の残した借財返済のためでもあった。
元輔は、「任重く道遠し」という『論語』の教えの信奉者だったが、その一周忌に真葛は、儒教への憤懣をこめた歌(「から人のつけし重荷はおひながらはるけき道をたどりざりつる」)を詠んだ。
本居宣長(1730-1801)が寛政10年(1798)に脱稿していた『古事記伝』を読んだのも、このころのことである。
工藤家再興の鍵を握る元輔の死は、真葛にとって、決死の覚悟で再婚した目的自体が無に帰したことを意味していた。工藤家をつぐことになったのは、母の実家桑原家からきた養子(まだ幼児)で、実権を握っていたのはその父で真葛のいとこ如則や、その父の叔父純だった。如則は、父の家財道具だけでなく、蔵書一切も売りに出した。
弟の死による実存的危機と桑原家への憤り、そして盛時の工藤家への愛惜と父平助顕彰の悲願とが、俗文体を自在に用いた回想録、『むかしばなし』全6巻の執筆に真葛をむかわせた。
このなかで真葛は、工藤家の衰運の因を純の乳母しめの「呪い」に帰しているが、その性急さは、真葛自身の現世への呪詛を含むものだったかもしれない。
『むかしばなし』第5巻を書いていた文化9年(1813)4月、夫の伊賀が江戸で急死し、真葛は貴重な理解者をうしなった。
このころ妹照子も世を去った。
真葛は、少女時代に立てた志に照らし、あまりに無為無力でありつづけたわが生を思い、ひたすら死を念ずるようになる。そんな日々のなか、明け方にみた夢で、
――秋のよのながきためしと引く葛の
という上の句がきこえてきた。観音菩薩のお告げと感じた真葛は、苦吟のすえそれに、
――たえぬかづらは世々に栄えん
と応じた。
数年後、これと似たことが、籠の蛍が飛びちがえるさまをながめていたときに起こった。
光りある身こそくるしき思ひなれ。
これに真葛は、
世にあらはれん時をまつ間は、と下の句をつける。
「心の抜け上がり」にくわえ、天啓の導きに呼応する二つの歌を得た自信が、真葛にとって最初で最後の哲学的論文となる『独考』執筆の原動力になった。
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