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野口良平「幕末人物列伝 攘夷と開国」 第4話 真葛の文体を培ったもの――真葛落穂拾い(4)
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4 ひらがな文化の独立宣言
最初は、自分たちの言葉(話し言葉)にあわせて、漢字を好き勝手に使うというやりかたで、「君之袖布流」(=きみがそでふる、額田王)のように、音に漢字をあて、音読みと訓読みを併用させる「万葉がな」だった。
その万葉がなをくずすことで「ひらがな」がうまれる。
ひらがなは、自分に理解の感情が生じたことについて書き表す文字で、おもに和歌や物語に用いられた。これは、漢文を用いた国家の公的な言語生活から疎外された宮廷の女性たちが、独自の表現の回路を築くために発明したものだという説もある。
また、カタカナは、漢字の一字をつかって漢文を読むための記号として工夫された文字で、おもに理解不能な事象の表記に用いられた。外来語や奇声がカタカナで表記されるのはそのためだろう。
ひらがなが「仮名」、漢字が「真名」と呼びならわされていたことが示しているように、当初ひらがなは、正統の文字とはみなされず、漢字文化がひらがな文化を差別する状態がつづいた。
この差別は、大陸の中央文明と列島の辺境文化との圧倒的な力の差を、そのまま映しだすものだったが、この二重の差別に抗い、辺境から中央へのいわば「独立宣言」を行ったのが、『古今集』仮名序だったのである。この歌集は『万葉集』とは違い、勅撰だった。
仮名序(原文は句読点がなくほぼひらがな)は、こう書き出されている。
――やまとうたは、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける。世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言い出せるなり。花に鳴く鶯、水に住む蛙(かはず)の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思わせ、男女の中をも和らげ、猛きの心をも慰むるは歌なり。
〔和歌とは、人の心を核にうまれた感情が、いろいろな言葉になったものである。人が生きるためには、世のもろもろの面倒なこととの関わりを避けて通れない。だからこそ人は、そこで心に思うことを、見るもの聞くものにことよせ、歌にして表現するのだ。花に鳴くうぐいすや、水にすむ蛙の声をきくにつけ、生きとし生けるもので歌をよまずにいられるものなどいるだろうか、と思わずにはいられない。武威を用いず天地を動かし、目に見えぬ死者の魂を深く感じ入らせ、男女の仲をやわらげ、勇猛な武者の心をなぐさめもするのは、やはり歌なのである。〕
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(冒頭の「古今倭歌集序」は、通常の『古今和歌集』の伝本にはない。
12世紀ごろの書写。大倉集古館蔵。)
生きとし生けるすべてによって、それぞれにふさわしい仕方で表現された、生きることのもがきが歌なのだ。列島の人びとにとって、自分たちの感情を表現し、理解し合うために、自身で工夫し編み出したひらがなは、その容器にふさわしい。
――この紀貫之の理路には、大きなものに主導されるのではなく、小さなものが小さなものであることで、この世の人びと誰とも関わることができるという、いわば「下からの普遍性」が表現されている。
そのメッセージを、900年後に真葛は、自分の意志で受けとり直したのだ。
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※ヘッダー写真:紀貫之(狩野探幽『三十六歌仙額』、慶安元(1648)年)
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