弟 えぴそーど8

 私の願いはシンプルなだった。弟が仕事をみつけ、父が亡くなるまでは自立した生活をおくること。父が故郷で亡くなるまで生活すること。二つとも、実現しなかった。体面にこだわって、現実を直視しようとしなかったことが大きかったのではないかと思う。物事に対処するには、事実を認めて、より効果の大きい方策を施すことが必要不可欠だが、その事実を認めようとせず、やり過ごしていれば、なんとかなるはず、なんとかなってほしいと切に願っていたふしがある。母が自宅で倒れた時、父は救急車を呼ばないで、孫の軽自動車いのせて、かかりつけの医院に運んだ。

「午前中に診察を受けているから、まずそこで見てもらうのが筋だろう」と父は後で言った。狭い車内に押し込められ、嘔吐した母は肺炎も併発した。医院で医師に

「これはうちではどうしようもないから」と救急車を呼んでもらった。もっと早く、適切な病院に運んでもらっていたら、なんとか生きる術もあったかもしれないとは私の悲嘆から発せられた愚痴だ。ともあれ母は意識不明のまま、倒れて5日後に亡くなった。弟の誕生日の翌日だった。十数年後、弟も同じ月、誕生日の8日後に旅立った。母は弟を本当に可愛がっていた。跡取りは親戚からも一目置かれていた。祖父母の可愛がりも半端なかった。

「誰も可愛がる人がいなかっただだもん。可愛がったのははる(母の名前)だけだった」と母の姉は言った。

「不憫だ」と母は言い言いしてた。

「不憫だったもんな」父も母と一緒になって、借金を帰していた行為の問題点を指摘するとそう答えた。私自身も不憫だったと思う。私は初孫ですごくかわいがられていたと思う。跡取りの誕生までは。その後はすべて跡取り優先だった。ぬくぬくしていたら、突然凍てつく野原に放り出された。大人になって振り返ってみると、そんな体験だったと思う。それは私の血となり肉となって、長いこと私を苦しめた。70年近くたった今でも、胸がギュッとなり、涙が滲む。前にも言ったと思うが、そんな私が家族の一員であるためには、跡取りをたてて、弟がじゃまをしないようにサポートする事だった。父も弟も看取った。跡取りからは兄弟の縁を数回切られている。弟は両親が健在の時から、

「実家にくるな」と言われていた。

私も父がまだ故郷にいた時に同じ言葉を言われた。弟は泣いた。私も涙を流した。父は後を継いでもらいたいがために私に

「今回は来るのを遠慮してくれ」と言った。その後父は、跡取りにいびられて、80年生まれ育った故郷を後にした。

「おじいちゃんの顔を見たら、もう引き取るしかないと思った」と夫は私の従妹に行ったと聞いた。がちがちに固まった表情で硬い岩のようだった。こちらで暮らすうちに、柔らかくはなっていったが、望郷の念は最後まで色濃く残っていたと思う。跡取りの言動が「なんでここまで」との思いは今も消えない。父も私も弟も実家の門をくぐることなく数年が過ぎた。

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