弟 エピソード9

 跡取り夫婦はその間、大嫌いなおじいちゃんはいなくて、どんな風に生活していたのか。家も土地も父名義だったから、税金を払うこともなかった。父の落ち度を吹聴し、自分で出て行ったと周囲には洩らしていた。時間はたっぷりあり、余裕だったことだろう。私は用事が増えた。父、弟、私の病院通い。弟の食料品買いだし、父が身も心も衰弱していたので、精神科医への相談。当時の私たちの家は、子供と一緒に暮らすだけの造りになっていた。父は施設に入ると言っていた。その施設探し、遺言書も作成すると言う。遺言書を作るためには、相続財産の把握が必要になってくる。これも煩雑を極めた。泣きながらだったけど、私はよく奮闘したと思う。でていく子だったから、相続に関しての知識も多くなかった。

父や弟と一緒に過ごしたことで、自己破産や生活していくための社会資源の活用、相続に関しても様々な知識、それを現実生活に落とし込む術を学んだ。精神科医のアドバイス、父をなんとかするためには、まず傍にいる人が、父の話をただ聞くこと、自分の意見はおいといて、聞いて聞いて、聞きまくる事。同じ話を何回しようともだ。父はお里で野菜を育てていた。がお里の主婦は、父の作ったものを料理に反映しようとはしなかった。豆を作っていて、涸れそうになったから、

「収穫しないのか」とたずねたら、

「どこにあるですか」と答えたこと

「毎日、豆の横を通っているのに」と、この話は繰り返し、繰り返し話した。

「俺のつくるもんは(汚くて)食べれんってことだ」ただ朽ちていくだけの豆は、父の象徴でもあったのだろう。今でも父の口調が蘇って、泣きそうになる。跡取り家族の言い分もあるだろうが、家族全員からつまはじきにされた辛さは、察してあまりある。それでも故郷にしがみついていたのは、○○家を跡取りにひきついでいくこと。その後は長男の長男に。守るべきお位牌や、家がある。その思いだけだったと思う。跡取りは、それを父をいじめるために効果的に使った。弟の落ちぶれようを、父の責任にして、妻共々責め続けた。責任をとって

「弟の住んでるアパートで一緒に暮らせ」と詰め寄った。

 父は住み慣れた家で暮らしたかっただろう。私は父があの家で一人で暮らすことは避けたかった。当時、近所で一人暮らしのお年寄りが、二人、浴槽で亡くなっていた。跡取り夫婦に一緒に暮らしてもらいたくて、言いたいこともあったが、遠慮していた。一度見かねて、

「事務的ことは話してもらいたい」とお願いしたことがある。父が話しかけても返事はしない。無視する日々が日常になっていた。[

「自分がこんなになったのは、この家に入ったからだ」とすごい口調でこの言葉が返ってきた。

「自分は恩を受けた人には、恩で返す。意地悪には意地悪で返す」父母がそんなに意地が悪かったとは思えないが、私から見て言わないほうがいいのにと感じたシーンには遭遇していた。私が実家に滞在して、帰る日、父を連れてドライブし、家の近くの道路に卸して駅に向かうおうとして、ミラーをみると、首を伸ばして見送る父の白髪の頭が見えた。涙ながらにに私の家族に、その情景をつたると

「もう、こっちに連れてきたらいいじゃん」と娘は言ってくれた。耐えきれなくなった父が家を出されるまでのカウントダウンが始まっていた。弟は私と父を支えてくれた。特に父の最後の日々は、弟のサポートなしには乗り切れなかった。

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