弟 エピソード14
最終的には緩和ケア病棟に入院するしかないと、私は癌が発覚した時点で考えていた。大病院の泌尿器科の医師は、若かったけど頼りになった。かかりつけの病院から来院した弟の様子を見て
「今日、緩和ケアのベッドが一つ空くので抑えておきました」と言ってくれた。看護師さんも優しくて、私は号泣してしまった。故郷から遠く離れた地で、親戚は娘婿の家族のみ、夫や子供、孫は援けてくれたが、私と弟と血のつながった親戚はいない。臨終の場でも、親戚が詰めていてくれるのは、本当に心強い。父の時もそうだったが、心細い状況だった。でも父の時は弟がいた。夫がそばに入れくれたが、事務的な事は私一人で担わないといけない。主治医も故郷の弟の妻子に連絡を入れてくれたが、電話にでなかった。電話は古い情報だったので、番号変わっている可能性も否定できない。妻の実家の電話番号を探したが、電話帳に載っていなかった。弟に電話にでないと伝えると
「もういいわ」と言った。
「○はいい子だったなあ」とも言った。初めて聞く言葉だった。ある時点までは見捨てないでいてくれた。それは実家が借金の肩代わりをし、入院すれば多額のお見舞いを渡している期間だった。実家も疲弊し、母も亡くなって、跡取りと私がそれまで隠された惨状を知るまでだった。跡取りが実態を知って、激怒したのは当然だと思う。ここまでなあなあで来てしまった父母に対する怒りも理解できる。私は出ていく子で、それほど目をかけてもらった経験がないので、「弟たちはいいなあ」の気持ちが先にたった。こんなお金の使い方をするんなら、私にも投資してほしかった。いつも弟達優先だった。亡き父母が何もしてくれなかったということではない。世間的には十分なことをしてくれたと感謝している。前にも触れたが、最終的には弟の持ち家を手放して、借金を返済する事にした。いわゆる債務整理のことだ。弁護士にも依頼した。父は最後まで渋った。
「もう一度だけ援けてやりたい」父も必死だった。私は父の望みも叶えてやりたいと思った。家を父が買い取り、相続で弟に渡す。父の態度を見ていて、弟のアルコール依存に通じるものがあると感じた。債務整理は弁護士に任せ、弁護士との連絡は弟に任せた。これが新たな火種になることを、その時は知らなかった。跡取りを信用していたからだ。家を購入してくれる人も現れて、債務整理は順調に進んだ。ただ家の売却金額の方が、借金より多くて、私が切に望んだブラックリストに載せることはできなかった。これは手続きをすることで可能になった。弟も私も署名してハンコを押した。あまり時間をおかないで、弟が解除の手続きに行ったことは後で知った。私の署名と印鑑が功をなしたのは間違いない。
弟は弟のまま生きてきたし、これだけのことがあっても、そのまま生きていこうとした。癌が見つかり、症状が進むにつれ、痛みは本人が引き受けるしかない事を、弟は身を持って体験しつつあった。
「かみさま、ほとけさま おねえさま」とおだててくれても、私は痛みを変わってやることは出来ない。最後の後の何日かは本当にかわいそうだった。緩和ケアに入院してから、最初はロビーで一緒にお茶を飲めた。痛み止めの点滴が1本から2本になった。ペインブロックもした。お風呂にも入れてもらったし、丁寧なケアもしてもらった。緩和ケア病棟に落ち着くまでにこんなこともあった。病院から
「煙草の喫える施設を探してください。本人が希望しています」と連絡がきた。この件では、私もブチ切れた。もう自分の足で歩くこともできなかったし、施設だって探せる体力も能力の持ち合わせていないのに。大体病院通いはどうするのか、そんなことを考えもせず、目の前のしたいことだけを勝手にやるのが弟だ。症状が悪化して、もう病院にみてもらうしかない状況になった。それでも何とか煙草を吸わせてやりたいと思って、交渉した。私が弟を車いすに乗せて、病院の敷地から出れば、そこでは喫煙が可能とのことだった。さっそく実行した。車いすも普通の車椅子ではない。ほぼ寝たままで運べるやつだ。大きいし重い。足の不自由な私には、扱いも難しかった。喫煙を済ませて病棟に戻った私は汗が止まらなかった。主治医からドクターストップがかかった。私にだ。
「お姉さんの身体が心配なので、どうしても煙草を吸いたければ、もう一人世話をしてくれる人と一緒に来てください」その後、私は孫娘に頼んで、一緒に行った。この時が最後の喫煙になった。病室に行くと食事が残っていることが多くなった。うつらうつらしてる時間も長くなった。起きていれば痛みを感じるので、眠っている時は
「また来るからね」と声をかけて帰った。弟は目を閉じたまま頷いた。私にはそう見えた。それまでは1日おきに、病院に通っていた。そろそろ毎日にした方がいいかと。申し出たら、
「お姉さんも、体を休めた方がいいから」と主治医からやんわり断られた。