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踏切に誘われる〜これからのデザインについて少しばかり考えてみた話。
最近、踏切待ちをしてるときに気が付いたことがあったので、メモがてら記事にしておきます。
あっ、心重くなる系の記事ではないので、興味持っていただいた方、そのままスクロールしていただいて大丈夫です。
踏切が鳴る。
あれって「こっち来ると危ないよ、電車来るよ」っていうのを人々に認識させようとしているわけだけど、ときに人々は、その音に誘われるかのように、踏切へと引き込まれていくんですよね。自らの歩調をすこしばかり早めて、小走りで渡り切ろうとする、みんな一斉に駆け込むんです、踏切に。
つくり手の意図を超えたところで人とものが、呼応する。呼応というか、この場合、裏切りというか。
デザインを超えた先で、人とものが対話している感じ。
ものと人とで、新たな関係性が構築され続けている感じ。
揺らぐ人、揺らぐもの
ものをデザインすると聞くと、「このように使って欲しい」という、つくり手の意図が、ものに込められていくというのが、一般的な認識だと思うんだけれども、その意図を超えた先で人とものの関係性が新たに構築されていく。
これがさっきまでの話。
そして、この関係性は、とことん個別具体的なものだと私は思うんです。踏切の話に戻って考えてみます。
踏切が鳴ると、待つ人、走る人と、いろいろな人がそこにいることがわかります。走る人には、比較的若い人が多い気がします。若ければ若いほど、踏切が閉じ切るまでに、渡り切れるという自信があるからでしょうか。
車と徒歩とを比べてみると、これまた、踏切との向き合い方が見えてきます。車は、徒歩と比べるとずっと早く踏切を渡り切れるはずなのに、踏切が鳴りはじめると、それらは踏切前で、停止するんですよね。これは機動性の問題かな。
駅近くの踏切の待ち時間は長いことが多いです。このことが、普段は踏切に引き込まれない人たちを引き込んでいくことがあります。
目が見えない人にとって、踏切の音は命を守るセーフティネットです。
踏切と人との関係は、人によって、ものによって、異なってきます。私と踏切、彼と踏切、それぞれが絡み合いを通じて、異なる関係性を取り結ぶ。
そして、その関係性は決して固定的なものなどではなく、流動的。耐えず移り変わる。
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デザインを考える
ものと人の関係は個別具体的で流動的。これらを踏まえた上で、デザインについて、少し考えたことについて話させてください。
プロダクトは、誰かの手にわたるとともに、その誰かと新たな関係性を取り結んでいく。すなわち、デザインを超えていくのです。これらの関係性をプロダクトの「使い方」と呼んでしまったら、どこか人間中心的で寂しい気がしてしまうから、プロダクトとの「関わり方」とでも呼んでおきましょうか。
私が思う理想のデザイン、それは無限の「関わり方」を受容してくれるデザイン。
「バケーション」「疲れ切った日」「とことん泣きたい日」「大切な人が家にやってくる日」
そんな多様な毎日に合わせて、「私」を受けていくれるデザイン。
いつの日か、そんな日々の積み重ねの末に、もの自体が、かけがえのない「誰か」に変わっていくデザイン。
デザインを超えていくデザイン。
なんかいいよね?
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無印の「人をダメにするソファ」
あれなんかはいい。多様な「関わり方」を認めてくれるし、受け入れてくれる。
踏切が開く
人とものをとりまく様々な力が結束する場所としてデザインを考えてみる。
近代以来の人間中心的な視座とは異なる、ものと人が語り合える世界、デザイン。
ものと人の雑音に満ちた世界、デザイン。
予定調和よりも不調和を楽しむ世界、デザイン。
そんなことを考えた昼下がり、
とある踏切待ちの時間。