武田信玄の行ったまちづくりとは?〜全体像の紹介+信玄堤編〜
今回は、甲府市武田氏館跡歴史館(信玄ミュージアム)と山梨県立博物館に伺い、武田信玄のおこなったまちづくりについて取材しました。今回の企画では、過去の山梨のまちづくりを学びながら、令和の山梨のまちづくりのヒントを探していこうと思っています。全3回でお届けしていく予定です!
今回扱うテーマと取材していく理由
私たちはこれからも山梨の活性化やまちづくりに携わっていきたいと思っています。しかし、「山梨のまちづくりの歴史」についてあまり知らないことに気づきました。そんな時、武田信玄が戦だけでなく、実は内政も色々とやっていたことを知りました。そこで、「武田信玄が令和にいたら、どんな活動をするのだろうか?」と疑問に思い、取材していくことを決めました。「過去の山梨のまちづくり」を知って、現在にも活かしていきたいです。
武田信玄がおこなった4つの取り組み
武田信玄がおこなったまちづくりは、大きくは4つあることがわかりました。この章では簡単に紹介し、今後の段落で「なぜおこなったのか?」「どんな特徴があるのか?」などを深ぼっていきます。
■信玄堤
釜無川の治水事業。御勅使川と釜無川との合流地点に堤防を築いたと言われている。
■金山開発
鉱山専門の職人集団をパートナーとし、金山開発を進める。信玄の時代には金が安定的に供給されていたと言われている。
■甲州法度之次第の制定
分国法として、紛争や社会問題に対処するための法令集、税制などの内容が含まれた「甲州法度之次第」を制定したと言われている。
■甲斐善光寺の創建
信濃にある善光寺の本尊の阿弥陀如来像や寺宝を甲府に移転させ、甲斐善光寺を創建したと言われている。
河川の氾濫から甲府盆地を守る「信玄堤」
信玄堤は、釜無川の治水事業として築かれた堤防です。
釜無川は甲府盆地を縦断しているため、洪水が発生すると甚大な被害が出ていました。特に甲府は平らな土地が少なく、水害が起こると食べ物が作れなくなります。そのため、領国を治める上で、治水事業は欠かせないものだったと考えられています。
信玄堤に含まれる堤防の中には、ある区間に開口部を設ける「霞堤」というつくりになっているものもあり、非常に優れた治水能力を持っているのが特徴です。
さらに、河川敷に「竜王河原宿」という新たな村を作り、堤防の作成や管理を市民と行っていたようです。税を免除することで居住者を募り、そこで新田開発も行ったと言われています。定かではありませんが、水害の防止だけでなく、効率的に土地や水を利用することも狙っていたのかもしれません。
次回について
次回は、「金山開発」と「甲州法度之次第の制定」について詳しくお伝えしていきたいと思います!お楽しみに!
本記事のライター
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