武田信玄の行ったまちづくりとは?〜甲斐善光寺+取材の感想編〜
引き続き、甲府市武田氏館跡歴史館(信玄ミュージアム)と山梨県立博物館に伺い、武田信玄のおこなったまちづくりについて取材した内容をお届けします。
前回までの振り返り〜信玄がおこなった4つのまちづくり〜
武田信玄がおこなったまちづくりは、大きくは4つあることがわかりました。
■信玄堤
釜無川の治水事業。御勅使川と釜無川との合流地点に堤防を築いたと言われている。
■金山開発
鉱山専門の職人集団をパートナーとし、金山開発を進める。信玄の時代には金が安定的に供給されていたと言われている。
■甲州法度之次第の制定
分国法として、紛争や社会問題に対処するための法令集、税制などの内容が含まれた「甲州法度之次第」を制定したと言われている。
■甲斐善光寺の創建
信濃にある善光寺の本尊の阿弥陀如来像や寺宝を甲府に移転させ、甲斐善光寺を創建したと言われている。
今回は、「甲斐善光寺」と「取材の感想」を詳しくみていきます。
長野から阿弥陀如来像や寺宝を甲府に移転させ、「甲斐善光寺の創建」
信玄は、長野から善光寺の阿弥陀如来を甲斐(現甲府市善光寺)に移し、甲斐善光寺を創建しました。川中島の合戦(武田信玄vs上杉謙信)が、信州長野善光寺の近くで行われており、その戦火で消失を防ぐために移転させたと言われています。
その他にも下記のような狙いがあったのではないかと考えられています。
支配力を高めたい(当時は宗教の影響力が現在よりも大きく、甲府の人々が信仰する精神的な拠り所の一つにしたかったため)
参拝客を増やし、経済的にもより良くしたい(善光寺は全国からお参りされており、多くの方が訪れる見込みがあったため)
信玄は善光寺以外にも、多くの寺社を甲府に建立・移転させていたと言われています。
「市民が参加するまちづくり」「歴史や文化を大切にする」が現代のまちづくりのヒントに!?〜取材の感想〜
今回の取材を通して、大きく2つ感じることがありました。
1つ目は、もし信玄が令和にいたら「市民が参加するまちづくり」を大切にするのではないかということです。信玄が行ったまちづくりの「信玄堤」では、堤防の作成や管理を「市民」と行っていたという特徴がありました。また、甲州法度之次第でも「領民と同じく自身も法に従う」と明記し、領民に寄り添う一面もあったため、まちの人たちの想いや意見を反映させながら、進めていたのかもしれないと感じました。
私たちも「まちづくりに市民が参加する」ことが重要だと考えています。そのため、「自分のやりたいこと(自己実現)」×「地域の活性化」をテーマに活動し、初めから地域に強い関心がなくても、「まずは地域で自分らしく活動してみる」を作っていければと考えています。信玄は同じ方法を選ぶかはわかりませんが、自分たちらしく「自分のやりたいこと(自己実現)」×「地域の活性化」を、これからも大切に活動していきたいと思います。
2つ目は、もし信玄が令和にいたら「歴史や文化」を大切にするのではないかということです。信玄は、甲斐善光寺やその他の多くの寺社を甲府に建立・移転させていました。「歴史や文化」を大切にしながら、人々の心に寄り添っていると感じました。
私たちの過去の活動でも、下記のような「歴史や文化」に関するものがありました。
韮崎市民俗資料館にて展示されている『ミスいしのつぼ』(縄文時代の土偶)についての冊子作成
甲府七夕祭りの短冊掛け&写真撮影ブースを製作
こういった活動の中で、歴史や文化を自分たちで調査し、自分たちなりの解釈や提案をすることを行ってきました。これからはより一層、このような活動を大切にしながら、レベルアップした内容でお届けしていきたいと思います。
次回について
今回の取材の中で、信玄のまちづくりの礎を作ったのは、信玄の父の「信虎」であったことを知り、さらに調べてみたいと感じました。
そこで「山梨のまちづくり」編の次回は、「武田信虎」について詳しくお伝えしていきたいと思います!お楽しみに!
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