運動音痴の空手少年が日本代表になる話|谷沢元輝
僕の自己紹介がてら
これまで僕がどのような感じで空手人生を歩んできたのかを話したいと思います。
こんな感じです。これを見ると自分でも頑張ったなーと思います。
しかし今日伝えたいのは、
『こんな俺すごいんだぜ!』っていう話ではありません!
『こんな僕でも、「物事の考え方」「ロジカル(論理的)に空手を考える」と言う武器で
この成績を残せたのだからみんなもできる!』
そう伝えたいんです。
本当に人生は、持って生まれたものではありません。
考え方なんです。
僕がどのような経験をしてこのような考え方になったのか、空手人生を振り返りながら届ければ良いと思っています。
この文には、僕がこれまで苦しい思いをして考えた人生訓が散りばめられてあります。どれか1つでもあなたの人生の糧になれば幸いです。
話は長くなりますがお付き合いください。
小学校時代 (妹の活躍を見て劣等感の塊)
僕は、静岡県静岡市清水区出身。
僕の幼少期の性格は、今と全く変わらず
・自分がこれと思ったらとことんまで熱中してしまう。
・忘れ物がとてもひどい。
当時は浸透していなかったADHDに全て当てはまるような子供でした。
友人に聞くと、周りからは変わったやつだと思われてたみたいです。
僕の空手人生は、4歳の頃同級生にいじめられたのをおばさんがみて
近くの道場に行かせた頃から始まります。
当然、最初からモチベーションが高いわけではなく、
嫌嫌、空手に行かされていました。
やり始めてから数年は経っても、
電柱にしがみついては、親を困らせていました。笑
徐々に練習には行くようにはなりましたが、
小学校の時は練習しても県大会1〜3回戦負けが当たり前。
練習も頑張ってはいましたが、成績が出ませんでした。
その傍ら、妹は全国大会に毎年出て、優勝や3位などをとっていて
僕は空手に関して劣等感の塊でした。
僕は逃げるように空手の練習の頻度が落ちていきました。
その頃は、特に勉強や学校の友達とカードゲームをして遊んでいました。
僕は、熱中すると、のめりこむ性格なので
勉強(数学)とカードゲーム(遊戯王)はめちゃくちゃのめり込みました。
気がつくと数学では全国模試一位、遊戯王の大会は大人に混じって準優勝などの
成績を収めていました。
なんでこんな話をしたか?
それは
一見、遠回りをしているみたいですが、
実はこの二つの経験は今後すごい活きるからです。
どちらもロジカルに(論理化)考えることが重要なため、現役時代はもちろん、指導活きています。
一見遠回りに見えますが
その後、活躍するためには必要な思考力でした。
『常になんでこうなったのか?』を考えロジカルに分析し、改善していく。
これが上達をする上での基本です。
その積み重ねで運動音痴だった
僕が日本代表まで成り上がることができました。
この基盤を作ったのは、この小学校の基礎があったからです。
僕がこの経験で何を学んだのか?
これです。
今の姿からは想像できないかもしれませんが、
僕は勉強と遊戯王に熱中して空手は目にも止まらなかったのです。
こうして僕は、6年生になる頃に自然と空手から離れるのでした。
中学生時代 (空手に目覚めた中学時代)
僕は、中学になっても相変わらず勉強とカードゲームに追われていました。
空手のことは完全に忘れていた時期に、妹が道場を移籍しました。
移籍した道場の師範が、僕のことも気にかけていてくれました。
最初は断っていましたが、母がしつこいので行くことにしました。
そこで僕は、素晴らしい先生・たくさんのライバルに会いました。
僕は空手の練習していなかったので
最初練習についていけなく、
試合ではボコボコにされたのを覚えています。
『悔しい』 『勝ちたい』 こんな気持ちが沸々と湧いてきました。
そこから少しずつ努力していきました。
通うようにもなりました。
ある日、テストの前日に先生にあるものを渡されました。
漫画の『範馬刃牙』です。
僕はテストの前日に関わらず貪るように読みました。
気づくと徹夜して、全巻読んでました。
それに気づいた母と父に、めちゃくちゃ怒られたのを覚えています。
先生も後日怒られていました。笑
僕は、その日のテストを無事終え、母と父のところに行き
『俺は、刃牙に勝つために空手に集中するから塾をやめる』
両親は、ついに頭がおかしくなったのだと思ったそうです。
しかし言ってることはおかしいのですが僕の情熱は本当にすごかったのです。
そこからあっさり塾二つ、遊戯王を辞めました。
そこから小学校・中学校の分の練習を取り戻すことで必死でした
練習はもちろん・道場での自主練習・家でも練習をずっとしました。
刃牙を倒すためと本気で思っていたため、めちゃくちゃ練習してました。
その甲斐があり、1年後 中学2年の春初の全国に行くことになりました。
全国の会場は、
今まで出た大会より規模が大きく、楽しめました。
その甲斐があって僕は、初出場で3位になりました。
そしてナショナルチームの選考会を受ける権利を取得し、
2ヶ月後にナショナルチームになるのでした。
ここまでの経験で学んだことは、
『努力は、夢中に勝てない』ということです。
僕は確かに本気になるのが遅かったのですが、自分自身で最強になると決め、自ら進んで練習をしていた。量も確かに多かったが、他の選手と全く違うのは
『自分で考え、自ら苦しいことをやったこと。』
だからこそ結果がついてきたのだと思います。
これは今でも、僕の人生の教訓の一つです。
そしてナショナルチームに入った僕は、
そこで全国のライバル達に出会います。
また、ナショナルチームの合宿は高校生の日本代表の先輩達と合同で行うので
高校のスター達の練習をするという、素晴らしい機会をいただきました。
当時、静岡県の田舎で、「お山の大将」としてやっていましたが簡単に鼻をへし折られました。
しかし僕は、世界トップレベルの環境に未熟なうちから、
入れたこの中学3年生の経験は素晴らしい経験でした。
おかげで僕は高校に入る前から、
高校トップのレベル・思考力・人間性全て肌で感じ取れたのです。
視座(自分が目標にしているところ)が周りと比べて高かったので
モチベーションの上下などはありませんでした。
『世界一になる』という目標を掲げて高校に行くことになりました。
この時には御殿場西高等学校に行くことに決めていました。
僕は、後の恩人にあたる細矢監督の人柄が昔から好きでした。
ナショナルチームに入り、多くの高校からはスカウトされましたが、
一通り見ても御殿場西高校に行く決意は揺らぎませんでした。
今でも最高にナイスな選択をしたと自分で思っています。
過去の僕を褒めてあげたいです。
自分の進路が中学3年の6月ごろに決まり、全中もあっさりと負けてしまった僕は高校に向けて準備を始めました。
僕が高校生になる前の大問題があったのです。
それは冒頭の題名にもある。
身体能力が低すぎること。
あまりにも気づくのが遅すぎました。
小学校・中学校は、国立で受験をして入るような学校でした。
だから友人は、他の学校と比べてそこまで身体能力は高くなかったのです。
その中でも中の上ぐらいでした。
当時は気にも留めていませんでしたが、
ナショナルチームに行った時の体力測定やランニングでは、
女子中学生を入れてビリの成績だったので鈍感の僕でも流石に気づきました。
御殿場西高校は、当時走ることでも有名だったのでとにかくビビっていました。
後にこのびびりは大的中し、大変な目に遭うのでした。
そんなことは知らずに、世界を取るといった高い志を持つ谷沢少年は、
2016年4月1日御殿場西高等学校に入寮するのでした。
さて待ちに待った4月1日入寮の時。
期待とほんのちょっとの不安を胸いっぱいに膨らませ、母の涙と共に送り出され、
それを見て『絶対に成功してやろう』と胸に誓った日を今でも覚えています。
男子は全国から厳選された約30名超の部員から、5名しかメンバーとして出れない。全国屈指の名門の御殿場西高等学校に入学しました。
入寮初日、練習がありました。
当時ナショナルチーム入りをしていて、期待のルーキーとして入学していた僕でしたが、細矢監督の指導を受けていた御西の先輩方と間には大きな溝がありました。
『まず体力・フィジカルが違う。』
と思ったのを今でも覚えています。
技術練習が終わった時にはクタクタでした。
『やっと練習が終わった』
と思った矢先です。
キャプテンから『ランニングの準備して』と声がかかりました。
そこからは地獄でした。
僕は、同期の中でも一番の成績で入学、御西の中でも日本代表経験者は3人しかいない中の1人だったのでみんな期待をしていました。
そして当時は、細矢監督も日本代表のコーチに入っていませんでした(現ジュニア日本代表の監督)
つまり、『僕が足が遅いことなんて誰も知らないわけです!』笑
ついに始まりました。
結果は予想以上でした。
『女子含め、ビリ』
ラントレの途中で、監督含め、先輩、同期の目が落胆していくことが
本当にわかりました。今でもその光景は目に焼き付いています。
それが本当に辛かった。
なんとかラントレが終わり、寮に戻りました。
初日から、寮の案内をしてもらってた時です。
『今日は、練習楽だったな』先輩の喋ってる一言に驚愕しました。
『あれで楽なのかよ!終わった』そう思いました。
えらいとこに来たな。そう思いながら寝ました。
翌朝からも、ついていくのがやっとな毎日が1週間続きました。
4月7日。学校の入学式がありました。
晴れて入学したわけです。
やっと練習時間も短くなる。と思った矢先
本当に恐ろしいのが、ここからでした。
入学式が終わり、
練習が終わると2年生の先輩から部屋で全員正座待っとくように言われました。
※現在の御殿場西高校では、こんなことは一切ありません。
正座して待っていると、お説教が始まりました。2時間は最低でもやりました。
そしてお説教の中で、
僕へのあたりが一番きつかったのでした。
とにかく目立つ性格だったので鼻についたのでしょう。
当時はみんな精一杯だったので味方がいなく、本当に精神的に参りました。
1日目のミーティング(説教)が終わったときに、僕は1人で屋上に行き泣きました。悔しい気持ちでいっぱいになりました。
しかし、僕はそんな時でもやり返すことを考えていました。
『今に見てろよ、絶対見返してやるからな!』そんな思いでしばらく泣いた後に
自分に誓い、屋上を降りたことを今でも覚えています。
それから3年の当時のエース五明ひろと先輩(後の全日本チャンピオン)や天池先輩(二番手)にべったり付いて練習をしまいた。
技術面ではメキメキと上達しました。
それはそうです。部内で1.2番強い人達なのでみんなはボコボコにされるのを避けるところを率先してやっているのですから。
僕は当時も誰よりも強くなることに貪欲でした。
このとこも、やはり空手人生の教訓③
『目標があったら、まずはそこの目標に一番近い環境にぶち込まれろ。』
を実践できています。日々の練習もみんなが嫌がる常に一番強い人とやること。そして、みんながもっと嫌がる細矢監督の一番近くでやることを徹底しました。
この二つを守ろことで僕はメキメキ実力をつけていきました。
それとは裏腹に毎日のミーティングで相変わらず1人集中で内容もエスカレートしてきました。
僕には責められる要素が多くありました。
僕は、納得できないことはできない性格が昔からあったので、
納得できないことを言われた時には、顔に出してり練習中だったら言い返したりしていました。その度に後でミーティングで言われると言った悪循環を作り出していました。笑
そして徐々に僕だけしか怒られないミーティングもあったので、
連帯責任で一緒に説教にいる同期からは陰口を言われてました。
※今では年に一回『御西会』をするほど仲が良いです笑
流石にショックでしたが、
『俺は世界チャンピオンになるためにここに来た』という信念だけは崩しませんでした。
僕は、私生活で起きるマイナスな悔しい・苦しい・悲しいことを全て空手が強くなるというための原動力にしてきました。
これ以降も半年間、ミーティングは続きました。
僕は、1年生の時からレギュラーになったのでそのタイミングで更にエスカレートしました。
レギュラーになったことで同期とは更に溝ができました。
しかし、僕はどんなにマイナスなことがあろうと自分の信念だけは貫きました。
これを3年間ずっと続けれました。これからの人生多分、あの半年以上のことはそうそう来ないんじゃないかな。笑
もし来たとしてもあの時と同様、自分の信念を曲げず、他のマイナスなことも含め全て目標を叶える原動力として進んでいきます。
半年が経ちインターハイが終わり、3年生が引退。
新チームが起動しました。当時の2年生は全国を見ても弱かったのです。しかも3年生は、全国を見ても強かったのですが
まさかの三回戦で敗退となって夏が終わりました。
監督が一番わかっていたのでしょう。
これまでとは、比にならないほど練習が厳しくなりました。
練習時間は、平日学校がある日は15時から遅い時は23時まで、休日は12時間を超えるみたいな練習をやりました。
しかし練習はきつかったのですが、3年生が抜けたことで自分自身が主力メンバーになったこと、そしてキツ過ぎてミーティングがないことで僕は充実感がありました。
余談ですが
この時から、当時1個上の先輩であるげんたと仲良くなり、大学・社会人では親友。今では、会社の副社長をしてもらっています。
こんな感じで、きつくはありましたがようやく御西の一員になれた感がある毎日を過ごしていました。
しかし、このチームで結果が出ませんでした。
県大会では負け、練習試合でも負け続けました。練習はキツくなる一方でした。
当時の全国トップ2の浪速高校・日本航空高校には最後の最後まで練習試合で一回も勝ってませんでした。
しかし、
このチームはなぜか全国大会での一発勝負はめちゃくちゃ強かったんです。
春の全国選抜では、準優勝。
最後のインターハイでは、史上2校目のインターハイ男女アベック優勝を果たしました。
僕も、もちろん主力として出ましたが、この本番の強さというのは分析するまで
時間が掛かりました。
今でもげんたとお酒を飲むときにどういう要因なのか考えるぐらいです笑
しかし僕は、ある結論になりました。
これは僕の人生での教訓になります。
この問題点だけ説明させて欲しい。
僕達は、練習でいっさい楽しんでない。辛かった。苦しい思いばっかした。
だからこそ吹っ切れたのだ。
今の世の中、楽しむことを勘違いして練習で楽しければ良いと思う人がいるが、そうじゃない。そういう人は大抵、本番になったら重圧に負けて、緊張でガチガチになることが大半だ。そういう選手を山ほど見てきた。
だからこれを読んでくれた人は、この順番を間違えないで欲しい。
ついに最上級生 (意外な落とし穴にハマる)
最高の形で1個上の学年を送り出せ、とうとう自分達が最上級生となった。
僕達は去年とは、真逆に直面しました
インターハイ優勝したこと、
そして優勝メンバーの主力メンバー7人中3名が残ったこと。
それにより、去年とは違い監督も僕達を尊重してくれ
『主体的』というコンセプトで自分たちで考える練習ということが多くなりました。
これは、『落とし穴だった』とこれからの一年でわかることになります。
そんな事も知らない僕達は、
このコンセプトに僕達は心を踊らされました。
『自分達で強いチームを作る』
完全に僕らは浮き足立っていました。
そこから自分たちで
練習での雰囲気作り、練習でのルール全て僕達が決めていった。
どういう雰囲気にしたら良いのかという議題が、幹部で上がった時に
インターハイの優勝の経験から僕達は、『楽しむ』ということを挙げた。
これが本来の趣旨からだいぶずれていた。
新チームは実力はあったものの勝ちきれないことが続きました。
初めての県大会でも負け、東海大会も負け。
桃太郎杯(当時4大全国大会のうちの一つ)も準優勝。
この頃は負け過ぎて、チーム全体は完全に自信を失い、崩壊していた。
桃太郎杯の岡山県からバスで帰っている時、
『そろそろやばい』ことを実感していましたがもう遅いと薄々感じていたのを
僕は覚えています。
2月頃。
あと少しで全国選抜が始まる頃に坂本先生(御殿場西高校 専属トレーナー)と話していたことを覚えている。
ちなみに僕の恩師の3人中の1人である。
僕は、いつも悩み事や自分の野心を坂本先生に話していた。
その日もマッサージを受けながら相談をしていた。
僕は、今悩んでいることを話した。
そしたら、『げんきの目標って何?』と言われた。
僕は、言葉に詰まりながら言った。
『世界選手権優勝です』
これで全ての問題が、一瞬にして解決した。
当時僕は、2年生の5月に東アジア大会は日本代表として出たものの、選考会では負け、1年だけ離脱していたのだった。
そのこともあり、目標を見失っていたのかもしれない。
『インターハイ団体優勝』が嬉し過ぎて
また達成しようと思い過ぎていた。
今まで、『楽しむ』という本質的じゃない問題にずっと目を向けていた。
そうじゃない。そんな楽しんで世界の頂など獲れる訳がないんだ。
原点に立ち返って、世界を獲るための準備をまた始めようと思った。
世界を獲るために僕は何が必要か、坂本先生と話した。
やることは明確だった。フィジカルトレーニングだ。
冒頭には触れなかったが、僕は高校入学当初から怪我が多く、競技生活のほとんど怪我と相談しながら練習をし、ずっとやってきたのだった。
練習中も怪我の為に、離脱していることも多かった。
すごい時は、足が麻痺して動けなかった時もあった。
そのぐらいひどかった。
だからこそ、人より考えて、頭を使い、分析して勝っていく
という今の根幹が培われたのだと思うが、当時は歯痒さがほとんどだった。
だから練習で常に100%でいけるよう、そして当たり負けしないアスリートの体になるように肉体改造する必要があった。
そこから、僕は毎日朝起きて、キャプテンの陸、琴音(現New G コーチ)と走ることにした。
坂本先生の練習メニューはめちゃくちゃきつかった。
それに伴い、通常稽古もあるので毎日クタクタ。
寮での生活は、一言もしゃべらずにやることだけやって寝る。
そんな毎日の繰り返しだった。
しかし、本当の意味で充実していた。
目標に対して一歩一歩着実に進んでいるのが、毎日の練習でわかった。
いろんな生き方があると思うが、
僕は毎日楽しむより、苦しくても毎日目標に向かって努力する。
こういう生活の方が満足する人間だということがわかった。
この生活を続け、全国選抜に挑んだ。
個人は、3回戦目に日本代表の同期とあたり、判定負けをしてしまった。
そして団体も一回戦で桃太郎杯の決勝で負けた浪速高校に負けてしまった。
僕はこの時、正直自分が『強くなること』に執着しすぎて、
目の前の負けはどうでも良くなったのを覚えている。
こんな感覚は初めてだった。
しかし、
自分の体で実験するように、
今までより思ったように動く自分の体に満足していた。
全国選抜後、すぐに帰省があった。
帰ってきてから3年生となり、最後の半年が始まろうとしている。
そして、5月にはインターハイ予選、6月にはナショナルチームの選考会、11月には世界大会もある、
僕にとっては空手人生の大一番になる一年だった。
3年生になり、1年生が入学してきた。
しかし僕は選抜前の生活を変えたくなかったので
チームのことにタッチしなかったのを覚えている。
それより強くなり、練習を誰よりもやって、背中で見せていきたいと思った。
朝の練習は、変わらずにやり続けた。
そこに今でも仲が良い一年生の後輩のひろき(現御殿場西高校のコーチ)が加わったぐらいだった。3年生から食事なども勉強して、活かして行った5月入ることにはだいぶフィジカルがだいぶ変わり、4ヶ月くらいで74kg→80kgになった。
その頃から本来やりたい動きができるようになり、
練習試合をしても、ほぼ負けなかった。
ここから県大会も個人初の優勝、ミニ国体優勝、ナショナルチームの選考会も合格し無事日本代表になることができ、世界選手権の代表にも選ばれた。
しかし、キャリア自体は順調ではなかった。
その年、男子団体は30年ぶりぐらいになるインターハイ出場を逃すという形で終わった。当時は、やはりめちゃくちゃ悔しかった。
自分の不甲斐なさを本当に感じた。
インターハイ優勝校が、翌年インターハイにも出れない。
これは今でも僕たちだけである。
2年での全国優勝・3年でのチームでの県大会敗退。
この二つの経験をすることができた。
こんな経験をした高校生は本当にいないと思えていた。
インターハイ・国体が終わり、3年の10月に世界選手権が始まった。
ちなみにこの大会は、妹のすみかと一緒に出ていたから今でもすごい思い出だ。
世界選手権はまさかのベスト8で残り10秒くらいで逆転の蹴りをもらい敗退した。
悔しかったが、『僕は高校約3年間本当にやり切った』という感覚が強かったので
清々しい気分だった。
最後に
ここまで読んでくれてありがとうございます。
まだまだ詳しく書けていないことが多くあるので、また書きたいと思います。
読んでくれた方はわかるかもしれませんが
僕は、他の人より人生を楽しんでないのかもしれない。
しかし、これまでやってきたことを振り返り、自分自身を誇りに思う。
僕は、『楽しい』より『自分自身が誇りに思える。自分のことが大好きでいれる自分でいたい』と思う。
人生の主人公も自分だし、自分の物語の一番の視聴者は自分だ。
自分が楽しめる物語を描いてやろうと思う。
これを読んで、こんなやつでも『気合い』と『考え方』で
日本代表になれたんだから、私もいける。
そんなことを思えていただけたら幸いです。