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運動会から考える、人生選択の意味について
近くの小学校で運動会らしき練習をしているのを散歩中に見かけた。
私の学校では9月か10月くらいに運動会をしていた気がするので、最近は早いのか、ここの学校が早いのか、その辺りはよくわからないけれど、懐かしいなあとふと思った。
と同時に、あれ、私の小学生の頃の運動会の記憶ってどこまで覚えてる?と考えた。
6年間という膨大な時間と、一学年あたり100〜120人はいた多数との関わりがあったにも関わらず、炎天下のラジオ体操がしんどかったとか、走るのが本当にイヤだったとか、休み時間の弁当が楽しかったとか、ちょっとしたことしか記憶していない。
しかも中高のどの運動会の記憶かすら曖昧。
よくよく考えたら、いまだに仲の良い友達は1人いるかいないかで、連絡だって年に1回取るか取らないかで、そう考えたら義務教育を受けた9年間って意味あったのか?と少しだけ思えてきてしまった。
断片的ならもちろん記憶していることはある。
吹奏楽部の部活がしんどいこと、クラスの代表だったこと、体育祭でも文化祭でもリーダーだったこと、わがままだったこと、受験勉強めっちゃ頑張ったこと、どちらかというと悪い記憶が結構多い気もする。
人によっては鮮明に記憶している人はいるかもしれないが、私は例外だった。
運動会に何したのかほぼ覚えてないのに、あれを毎年する意味はあったのか。
その中でも意味のあることはなんだったのかを考えてみた。
わたしの結論としては、反省したことを今振り返ることができることだと思う。
テストでいい点が取れなかったことも、順位が低かったことも、そこから頑張ったら1位になれたことも、自分勝手を通して人に不快な思いをさせたことも、本を好きになったことも、ルールを破って先生に怒られたことも、人を好きになったことも、良いことも悪いことも、ふとした時に思い出す。
ああ、あの時はできなかったけど今はできたなあとか、あの時も好きだったから今も好きなんだろうなあ、好きになれるかもなあとか、すべてが知らないうちに学びとなって今のわたしがある。
運動が嫌いなわたしにとっては、運動会はなくても良かったのかもしれないけれど、運動会が嫌だったという記憶があるから、嫌いな人の気持ちがわかるし、あの頃私は嫌いなことをやり遂げることができていたという自信も思い出せば湧き起こる。
人によってはかけっこで1位になったとか、騎馬戦で悔しい思いをしたとか、休みの日に親と走る練習をしたとか、そんな記憶もあるだろう。
記憶力の悪いわたしには全く覚えがないけれど、今思うと運動会の楽しみが弁当だったくらい昔から食べることが好きだったみたいだ。
添加物や小麦など、今考えるとよくないと思えるご飯ばかり食べていた気がしたけれど、弁当を楽しみにできるくらいご飯を食べることを好きになれる環境を母は作ってくれていたんだな。
今考えると絶対料理がそんなに得意じゃなかった母なりに、毎日頑張ってくれていたんだと、気づいた。
学校行事や義務教育すべてに意味があるかはわからないけれど、30歳になって、こうやって振り返ると気づくことがある。
きっと20代では気づかなかった。
また、子どもが産まれてから気づくこともあるのだろうな。
失敗は成功のもとともいうし、失敗なんて言葉はないともいうけれど、振り返るとわたしの人生は意味のないことはなかったのだろう。
すべてが学びとなり、今のわたしがある。
あのときああしていたらと後悔することだってある。
理系に入っていたら、センター試験をもう少し頑張っていたら、小さい頃から囲碁をしていたら、とか、戻りたいとは思わなくても、たらればはたくさん出てくる。
でも、それを選択しなかったから今の私があり、今の私が未来のわたしをつくる。
35歳になったとき、英語がペラペラに話せるようになったらいいなあとか、姿勢や所作が美しい女性になりたいなあとか、キラキラ働いていたいなあとか、そう考えると今のわたしにできることってたくさんある。
今わたしに子どもがいないから考えられることだけれど、自分の考えだけで行動に意味があるかどうかを考えるのはやめよう。
それを決めるのはその子の未来だ。
私は私の悔いのないように、選択し続けよう。