テイカーやマッチャーの思考を変えるのは難しいがギバーになる努力はできる
ご無沙汰noteですが、なんの前振りもなく最近個人的に悟りを開いたことを書きたいと思います。
今回書くのは、たくさん本を読んでいてよかったという経験と、Giverになるための私が発見した考え方を。
30歳になった時に決意した私の在り方は「人に与えられる人になること」だった。
振り返ると私の人生は本当にいろいろあったのだけど、やっぱり人の助けやご縁があってこその良い人生を得られた。
だからこそ、人を喜ばせる人になりたいと思い、決意した。
でも30年間どちらかというとテイカーやマッチャーと呼ばれるような、「与える」だけではないような性格や人生だったから、常にその意識をするのは難しく、あとで気づくことも多かった。
そんななか最近、新しい土地で友人ができた。
5月に知り合ったのにほぼ週一で会うくらいには仲良くなった。
彼女は車を所持していて(持ち主は彼女の夫だが)、運転もできるので、いろいろ連れてってくれた。
大阪に住んでいるときは逆の立場で我が家の車で友人を乗せて出かけることはあったのだけど、はじめて逆の立場に。
我が家の車の時で行くときは、ざっくりガソリン代やかかった高速道路や駐車代を人数で割って、運転の手間賃を入れて相手が遠慮なく車で過ごせるように、そして夫が無理なく運転できるようにお金を計算して、頂いていた。
我が家の車とは言っても私は運転をしないので、夫を含めてみんなが無理なく快適に過ごせるようにそんなことをしていた。
だから逆だとどうしていいかわからず、同じように自分の感覚で考えてお金をお渡ししたり、カフェ代払ったりしようとした。そして、もし足りないと感じたら遠慮なく請求してね、と。
でもその内容を伝えたときにふと思ったんだよね。
「なんかわたしマッチャーだな」、と。
マッチャーというのMatcher、アダムグラントの「Give&Take」という本に書いてあることで、ギバーが与える人、テイカーがもらう人なら、マッチャーは与えられた分だけ与え返して、与えた分だけもらおうとする人。
つまり損得勘定で生きることだと私は解釈している。
これだけ与えられたから、これだけ返したほうがいい?という私の提案はまさにマッチャー思考。
相手にもマッチャーの気持ちを強要しているなあと。
多分こういうことを細かく言われる側も、「自分もそんな考え方しないとダメなのかな?」とかなんかいろいろ負担に思わせていたかもと気づいた。
私自身は、お互い無理なく気持ちよくいたいと思っていたけれど、もし私がもらいすぎていて相手が不快になるなら、きっと相手が離れるだろう。そこに無意識に恐怖を感じていたのかもしれない。なんなら執着だ。
相手の気持ちは相手にしかわからないのだから、相手が不快と感じて離れるならそれで良いではないか。
私は私で、良くしてもらったことに対して私なりのギバーで対応したら良いのではないか。
そこで「これだけもらったからこれだけ返す」は必要ないし、もらうことが必要な人ならきっと離れる。お互いがギバーでいれば良い関係になるのではないか。
どうしてもマッチャーの考えでいるとテイカーの思考が入ってしまう。
これだけあげたのに、なんでくれないの?と。
現に私は少し思ってしまった場面があった。
それもあって今回気づけたのだけれど。
人を喜ばせる人になる、人の役に立てる人になる。
そんな目標を達成するために、嫌われることを恐れず、私なりのGiverで相手を喜ばせよう。
相手がそれを足りないと思って嫌うなら、それはそれまでだ。
そこは「嫌われる勇気」に学ぶ考えかと思う。
信じるのは私の課題。
裏切りは相手の課題。
たとえ裏切られても恨むことも悲しむことも前を向くことも自分の課題。
「信じない」を選ぶのも自分の課題。
私と一緒にいないという選択をするのは相手だ。
どれだけ私がマッチャー思考で相手の機嫌を考えてもそこは変わらない。
それなら私は自分なりに相手を喜ばせる人でありたい。
喜ぶかどうかは相手の課題だけど、私は私なりに自分の課題を実行したい。
たくさん読む本の内容は完璧には覚えてなくても、こうやって断片的に私とは別の考え方が私を助けてくれたり、考えを改めさせてくれるのはとても素晴らしいことだなあ。
本を読んでてよかったと、別の視点でも気付かされました。
これからも本や経験からいろんなことを学んで、自分の考えをアップデートしていこう。
そして与えられる人になりたい。
読んでくれたみなさまに私の気づきが何か与えられたら嬉しいなあ。